音を頼りに

ゆーり。

音を頼りに①




けたたましいクラクション、刺すような悲鳴。 その圧倒的とも言える質量から生まれた衝撃。 夏々(ナナ)は聴覚を永遠に失うことになった、あの夏の日を思い出していた。 赤くて冷たい記憶。

幸いとも言えるのは、それが心に刻まれていないということ。 痛みも恐怖も、全てを感じることなく気付いたら聴覚だけがすっぽりと抜け落ちていた。


夏休み初日であり、12歳の誕生日。 奇しくも最良と最悪を併せ持ってしまった今日、夏々はイトコの博登(ハクト)とテーマパークへ行く約束をしている。

行く場所こそ違うが毎年恒例の行事で、夏々はそれを何日も前から楽しみにしていた。


「お母さん! ねぇ、お母さん! 私の携帯カバー、どこにあるのか知らない?」

『昨日、テレビの横の棚に置いていなかった?』


夏々は発声の仕方は既に分かっていたため、聴覚がなくても喋ることができる。 ただ母親はそうはいかない。 家ではその利便性から、手話を使用していた。


「あ、そうだったかも! ありがとう!」


洗濯物を干していた母親に礼を言い、テレビの横を覗き込む。 見つけたカバーを取り付けていると、母親も様子を見にやってきた。


『見つかった?』

「うん!」

『もうすぐ博登くんが来るわ。 早く準備を済ませていらっしゃい』


夏々は口頭で、母親は手話で話す。 もちろん夏々も手話を憶えているが、耳が聞こえないため信頼できる相手には発声しておいた方がいいと思った。 間違いがあれば、正してもらえるからだ。


―――着る服は決めているから、これとこれで。

―――博登お兄ちゃん、気に入ってくれるかな?


博登は大学生で、友達の少ない夏々にとって貴重な存在。 障害がない相手とはコミュニケーションを取りにくいため、必要な場合以外自ら避けるようになってしまったのだ。

出かける支度が終わると、微かに鈴の音が聞こえてきた。 もちろん、聴覚のない夏々に家のインターホンは聞こえない。 

だが今聞こえたのは夏々用に特別に作られた鈴の音で、所謂モスキート音を奏でることができる。 通常、人が出すことは困難であり聞き取ることもほぼ不可能だが、夏々はそれを聞き取ることができた。

近しい人間は、居場所を分かりやすくするため各々その鈴を身に着けている。 聞き取れる範囲で音色を変え、それが誰かの判別までできるようにしていた。

夏々は最後に鏡を見てチェックを済ますと、携帯を首に下げ玄関へと向かう。


「お兄ちゃーん!」


夏々は博登の顔を見るなり、その身体に抱き着いた。 匂い、温もり、そして、撫でてくれる優しい手、その全てが好きだった。 顔を摺り寄せていると、母親にむんずと掴まれ引き剥がされた。


『ほら、困っているでしょう。 携帯は・・・ちゃんと持ったわね。 博登くんの言うことをちゃんと聞いて、いい子にしているのよ?』

「分かっているって! 任せてよ!」

『まぁ、いつものことだから心配はしていないけど・・・』


そこまで手話で話すと、急に止まった。


「・・・?」

「・・・・・・・」


どうしたのかと思ったが、どうやら二人が口頭で何かを話しているようだった。 基本的に夏々がいるところで、手話以外のやり取りをすることはない。

夏々は聞こえないため、不安にさせてしまうからだ。


「・・・・・・・」

「・・・・・・・」

「ねぇー、何の話をしているのー?」


痺れを切らした夏々が尋ねかける。 それに、母親が笑顔を作り答えた。 ただそれが、心の底から笑っているようには思えなかった。


『今日、うんと楽しませてくれるって。 よかったわね、夏々。 私も行きたいくらいよ』

「お母さんの代わりに、たくさん楽しんできまーす!」

『はいはい、いってらっしゃい。 ・・・それじゃあ博登さん、お願いしますね』


こうして二人は家を出発した。 天気もいいし、テーマパークへ行くには最適な日だ。 だが夏々は、気付いていなかった。 母親が初めて博登のことを“さん”付けして呼んでいたことに。

歩いている最中、隣ではずっと鈴の音が聞こえている。 携帯に付けたそれは、常に胸ポケットから顔を覗かせていた。 それが夏々は嬉しかった。

常に自分が分かるようにしてくれることに、安心を感じるのだ。


『夏々、いい? 今から行くところは人が多いから、僕から絶対に離れては駄目だよ』

「分かってるよ!」

『できるだけ、僕と繋いでいる手は離さないこと』

「うん!」


信号待ちをしている最中の会話も、夏々を心配してくれるがため。 耳が聞こえないと、思わぬことが大事故に繋がる可能性もある。 

何度も言われて耳にタコができているが、夏々自身もその危険性はよく分かっていた。


「あ、でも、もしもだよ? お兄ちゃんとはぐれちゃったら、どうすればいいの?」

『そんな時のために、携帯があるんだよ。 すぐに連絡してほしい』


博登は首から下げている携帯を、指差しながら言う。 携帯は手話が分からない相手と、意思疎通を図る時に重宝する。 もしもの時のために、両親が携帯を持たせているのだ。 

もっとも引っ込み思案な夏々は、自分から誰か知らない人にコミュニケーションを取ろうとしたことはない。 博登や両親と電話が繋がらなかったら、立ち往生してしまうだろう。


「携帯ね。 でも、もしも電源が切れちゃったら?」


今度は博登自身のポケットから顔を出している鈴を、指差した。


『ないとは思うけど、偶然が重なる可能性もあるか。 そしたら、この鈴の音を聞いて僕を探すのが一番いい。 もちろん僕も、夏々のことを探すけどね』



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