白い想い人
一ノ路道草
第1話
午前5時。それは俺が会社に行くため、家を出る時間。
この夏も、俺が住むアパートの階段の手すりに、いつも通りジョロウグモの巣が出来ている。
大抵の人間はこいつらを苦手としているかもしれないが、俺は三十路を過ぎた今でも、こいつらを憎からず思っている。
子供の頃の俺は、蜘蛛ってゴキブリとか色んな害虫食うし、頭が良くて強いとか超カッケェと思っていたし、あの頃は家が貧乏で、当時流行だったヨーヨーを買えない俺が、ストリングスプレイ・スパイダーベイビーを会得できたのは紛れもなくこいつらのお陰だから、今でも感謝している。
因みに、蜘蛛という生き物は油断も隙もないクールなハンターだと思っているかもしれないが、実は案外そうでもない。
あまりに大きいヌシみたいな奴は無理だが、早朝の、丁度今くらいはぼーっとしている時があって、思いっきり息を吹き掛けると、上手くいけばそのままぽとっと地面に落ちていく姿は、みんなのイメージに反して、なかなか面白い光景の筈だ。
そうやって毎回連中に悪戯をしても、俺が仕事を終えて帰る頃にはちゃっかりと自分の巣に戻り、糸でミイラのようになった獲物達を誇らしげに並べているのだ。
階段を登り、夕陽に染まる空を背に並ぶ巣を見遣ると、こいつらも無事に仕事を終えた様子でなによりだった。
「やるねえ」
ニヤリとそう呟いて、ドアの鍵を開けた。
晩飯を済ませ、テレビを点けてビールを飲んでいると、視界の隅に壁とは微妙に違う、白っぽい何かが蠢いていた。
アシダカグモだ。
形や大きさからして、多分メスだろう。
普通は気味が悪くて驚くのかもしれないが、俺は違う。
俺は昔から蜘蛛に限らず、動物たちが人間など知らんとばかりに、気ままに生きている姿が好きだ。
彼らと同様に、彼女が壁をゆっくりと歩く姿は、とんでもない美人の見せる孤高の振る舞いに似た、通り過ぎれば振り返らずにはいられない類いの優雅さすら感じられた。
俺が蜘蛛だったら、あんたを放って置かないんだけどな。
などと、人間の異性にはまず言えないような台詞が思わず浮かんでいたが、きっと俺が蜘蛛だったら、彼女は高嶺の華過ぎて、結局声はかけられないような気がした。
ただこうやって眺めて、満足しておくべきなんだろうな。
「それはともかく……」
アシダカグモが俺の家に居るって事は、つまりは彼女の獲物が、俺の家に居るって事だ。
最近掃除をサボってたから、Gさんがたかりに来たかな。
きっとまた台所の隅とかに、奴らの糞が落ちているんだろうな。
俺は少しばかり、彼女の狩りに手を貸してみる事にした。
なんてことはない。ただ定期的にゴキブリの餌になりそうなお菓子をひとつまみほど、テキトーに床へ置いておくだけだ。
Gさんの糞が増えるだろうけど、その分、彼女もたらふく食べることが出来るだろう。
美人には長生きしてほしいしな。
彼女の腕は優秀らしく、最初は糞も多かったが、時間が経つたびに、その量を徐々に減らしていった。
そして、ついに決着の日が訪れた。
いま俺の視界には、一匹の白いアシダカグモと、一匹のやや茶色がかったチャバネゴキブリが対峙している。
チャバネゴキブリの尻には白い卵のようなものが出ていた。
アシダカグモが命を繋ぐために餌を獲るように、彼女もまた命を繋ぐために、先に散った仲間と同様、危険な賭けに出たのだ。
チャバネゴキブリがしきりにアシダカグモを振り切ろうと方向転換するが、やはりアシダカグモの方が一枚上手だ。
腕の良い戦闘機パイロットが敵戦闘機の機動を巧みに読んでアドバンテージを得るように、アシダカグモがじわじわと、チャバネゴキブリを追い詰めていく。
そして互いの距離が30cmを切った時、両者はそれまで以上の素早さで駆け出した。
決着は一瞬だ。
ほんの僅かにも開いたかに見えた距離が、無情にも、あっという間に詰まる。
振り切れない。
アシダカグモが恋人を愛するかのように獲物を抱擁し、無慈悲にも、その身に牙を突き立てた。
やがてチャバネゴキブリは、彼女自身の命の鼓動を表すような、その必死な動きを失っていく。
俺はただずっと立ち尽くしたまま、決して見逃すことのないよう、その光景を眼に納めていた。
アシダカグモが、未来を勝ち取った。
あんた、やっぱり綺麗だなぁ。
あの日を最後に、彼女は姿を消した。
きっと次の獲物を求めて、狩り場を移したんだろう。
午前5時。今日も良い歳した男が相変わらずクソガキみたいに、ジョロウグモにちょっかいを出す。
ふうっ! と、渾身の息を吹き掛けたが、今日は咄嗟に踏ん張って、ぎりぎりで耐えたようだ。
「やるねえ」
ニヤリとそう呟いて階段を降りると、俺はバスに乗り遅れそうな事を思い出して、やや足早に歩き出した。
白い想い人 一ノ路道草 @chihachihechinuchito
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