第10話

 かんかん照りのまいにちになった。


 ぶどう棚には薄緑色の実が鈴生りになっている。おおきなその実をついばみにくる鳥たちの往来で庭もなんだか賑わっている。


 チュンチュンと鳥の声はさわがしいが、座布団に丸くなっている猫は気にもしていない。ときどき耳をそちらへ向けてみるだけで、むかしのように飛びかかろうと尻を震わせたりすることもない。


 だいぶ仕事に鍛えられたのだろう、あのだらしなかった下の孫がずいぶん立派な口をきくようになった。きのうめずらしく自家にきて、ろくでなしの親父の話になったが、


「まあ元気にやってるならいいヨ。元気に生きててくれてりゃァ、そのうちどっかで逢えるんじゃァないかな」


 そんなことをまじめな顔つきで言うのだ。こんな口をきくのはこいつも勤め人になって、ようやくすこしはしっかりしてきたからだろう。学生のときはわがままで遊び人のどうしようもないやつだったが、こんなふうに達観しっかりしたことをよく言うようになったのであたしは心底ほっとした。


 チーコが死んでからあたしはこの子たちの母親がわりをしてきたつもりだった。


 ふたりとも成人はしていたがまだひとり身だったし、あの親父も青森かどこだかへいってしまって、この子たちは両親を一ぺんになくしたようなものだった。コドモはどんなやつだって親が必要だ。とくに母親が必要なのだ。男の子はだれだって、どんな悪党でも、母親に甘えたい、いい顔をみせたいと思っているのだ。


 あたしは女だがジイちゃんがあの縁側でよくそんなことを言っていたからわかるのだ。この子たちの気持ちが痛いほどにわかるのだ。


 そうしていまあたしは、ようやくお役御免になった。上の孫はいい娘をみつけてきたし、だらしなかった下の孫もすこしはまともになったのだ。


 この子たちはもうあたしなんぞいなくても立派にやっていけるだろう。あたしはほッとひと安心した。あとはチーコの拾ってきた、このバアさん猫の世話をしてやるだけなのだ。


 あたしとジイちゃんの秘密をしおちゃんに打ちあけたのは、八月なかばの、ねっとりと蒸しあつい晩だった。ボソリと洩らすようにあたしは、あのときのことを告白したのだ。


 しおちゃんはあいかわらず病院にはいかなかったが下手な治療をしないからか具合はいくらか落ちついていた。あたしはその晩もしおちゃんの家へ様子をみにいって、しおちゃんの背なかをさすりながら、ひょっと話しはじめたのだ。


 あたしはジイちゃんが誇らしかった。ジイちゃんとの秘密をつい、自慢したくなったのだ。


 しおちゃんは秘密を聞いたあと、


「そりゃァいい」


 そういって何度もうなずいた。


「そりゃァ、いいね」


 そういって、何度も何度もうなずいた。そうして庭のぶどう棚をうっとりした顔でながめながら、


「ネェわたしのときも、きっと」


 とつぶやいた。


「あたしのときはしおちゃん、おねがいシマスヨ」


 あたしもちいさくそう返した。しおちゃんの具合はこのごろだいぶよかったし、あたしのほうはますます足も腰も痛むようになって、心臓のあたりがぎゅッと鷲づかみされたように苦しくなることまであったから、こっちが先になるかもしれないとあたしはそう思っていた。

 

 それから半月もたったある日だった。


 猫のやつが死んだ。チーコが拾ってきたときに八歳、だからせいぜいまだ十歳ぐらいのはずだった。


 だが孫たちに言わせると、


「獣医だってどこまでほんとかわからんヨ」という。


 たしかにそうだ、もしかしたら、もっとずっと年寄りだったのかもしれない。あいつはあたしよりもずっとバアさんだったのかもしれないのだ。


 猫のやつはぜんぜん、苦しそうな様子もみせず、縁側の座布団のうえで眠っているように横腹をみせたまま死んでいた。ちょうどあたしは便所にいて、もどってきたら死んでいたのだ。


 猫は死ぬときはどこか、縁のしたへでも潜って隠れるようにして死ぬと言うが、そんなことは人間が言っているだけでほんとうのところはわからない。こいつはきっとお気にいりの場所、いつもの場所で、死にたかったのだ。あたしにメーワクをかけないようにと苦しいところもみせないで、そーっと眠るように死んだのだ。あたしが便所にいっているすきに、呻き声もたてないで、しずかに息を引きとったのだ。


「潔かったね、えらいヨ」


 あたしは猫のちいさなからだへ顔をうずめてそう言った。ぽろぽろとなみだがこぼれたが、悲しいというのとはちがう、さっぱりした晴ればれしい心地だった。


「あたしもこれで、ようやく……」


 まだあッたかい猫の死骸にほっぺたをそーっとあてながら、あたしは思ってほっとした。

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