29


 慌ただしく朝の用意を済ますと、衿久は荷物を持ってリビングにいる母親に声を掛けた。

「じゃあ行くから」

「うん、あー、ねえ、やっぱりお母さんも行こうか」

 なんだかそわそわと支度をする母親が振り返った。

「なんで、いいよ」

「でも親が行かないのって変じゃない?」

「変じゃねえって。友達んとこも何人か来ねえって言ってたし、大体やることは中学んときと一緒だよ」

「でもさあー、一度きりだし、あんたの晴れ舞台だし」

「…で、青衣どうすんの?」

 うっ、と母親が返答に詰まった。

 今日は青衣の卒園前のお別れ会と、衿久の卒業式が偶然にも重なっていた。

「父さんに泣きながら撮影頼まれたんだろ?しっかり撮ってこいよ」

 間の悪いことに、父親は昨日から出張に出ている。出掛けに泣いていたのは本当のことだ。

 はーい、と母親がため息をついた。

 庭に出ていた青衣が駆け戻ってきて、お別れ会用にと可愛く結ってもらった髪を衿久に見せる。かわいいな、と言うとソファの上で跳ねてくるりと回った。手には庭木から取ってきたのか、葉のついた枝を握っている。

「あ、青衣また取って」

 母親が窘めるように言うと、えへへ、と青衣は笑った。

「俺、帰りはそのまま南人のところ行くから」

「うん、よろしくね。衿久、ちゃんと言ってね」

 衿久は頷いた。

「じゃあ行ってきます」

「いってらっしゃーい!」

「気をつけてね」

 両手を振って送り出してくれる青衣にひらりと手を振って、衿久は家を出た。

 3月。よく晴れた朝は暖かな風の匂いがする。

 あれから1ヶ月が経っていた。



 南人が意識を取り戻したのは、事故から三日目の午後、今日のようによく晴れた日だった。

『南人さん…!』

 救急車とほぼ同時にあの場所に駆けつけた奥村は、南人と青衣を見るなり、青ざめて硬直した。だがすぐに気を取り直して、救急隊員に搬送先の病院を提示した。

 戸惑う救急隊員に、かかりつけだからと納得させた奥村の、あのときの静かな迫力を衿久は忘れることが出来ない。

『町田くん、頼む』

 奥村はふたりを衿久に託すと、事故処理のためにその場に残った。衿久はふたりと救急車に同乗した。動き出した救急車の窓にかかるカーテンの隙間から、パトカーの赤色灯が眩しかった。雨に濡れた道路に反射する明かり。ちらりと覗いた、奥村とその場に佇む運転手の後ろ姿。あの運転手とはそれきり会っていない。

 奥村に指示されて南人と青衣が搬送された病院は、奥村の知り合いが経営する比較的小さな総合病院だった。

 救急指定病院ではないのに、という不安そうな救急隊員の話し声がちらりと聞こえて、なぜ彼らが戸惑ったのか衿久には分かった。普段なら搬送先として選ばれない病院なのだ。けれど着いた病院入り口にはふたりの看護師と院長らしき人が立って待っていた。それを見た隊員が皆ほっとしたように息を吐き、緊張に満ちていた救急車の中の空気が和らいだ。

 看護師が先導し、ストレッチャーに乗せられた南人が運ばれていく。その後を青衣を抱いて追っていると、衿久の後ろからついて来ていた院長が、衿久にだけ聞こえるように言った。

『きっと大丈夫だよ』

 その一言で、その視線で、この人はある程度のことを知っているのだと衿久は思った。

 なによりもそれが救いのような気がした。

 衿久は頷いた。

 泣き疲れて眠ってしまった青衣を見て院長は、柔和な顔で微笑み、ベッドに寝かせようと言った。

 その後、南人の治療が行われている間、青衣は検査を受けたが、結果どこにも異常が見られなかった。外的にも内的にも、全く傷を負っていなかった。かすり傷ひとつさえなかった。

「やああだああっ、ここにいるのっ」

「こら青衣! ベッドに上がるのやめろって!」

 翌日出張先から揃って駆けつけた両親が見たものは、南人の病室でベッドに齧りついて離れない青衣とそれを引き剥がそうとする衿久と、意識の戻らない南人の姿だった。

 そして二日後、南人は目を覚ましたのだった。


***

 

 職員室に行くと、担任と須藤が待っていた。

「おはよう。卒業おめでとう、町田」

 ふたりで申し合わせたかのように揃って言われ、衿久は苦笑した。

「どうも、ありがとうございます」

 殊勝に頭を下げた衿久に、彼らも笑った。

「町田もとうとう卒業かあ、早いねえ」

「こないだ入って来たと思ったのになあ」

「こんなに背も伸びて」

「まあなんにせよ、めでたいじゃないですか」

 噛み合っているようないないような会話を締めくくるように、担任がめでたいなあ、と繰り返した。

「これで行き先が決まってりゃ言うことなしだったなあ、町田」

「あー…」

 結局言いたいことはそれだったかと、衿久は天井を仰いだ。

「ま、なんにせよめでたいじゃないですか」

「そうですねえ」

「無事卒業だし」

「行き先はないけど」

「ねえ」

 にこにこと担任と須藤が笑い合う。おじさん同士で心底気持ち悪い。

「はいはい、ご期待に添えずすんませんでしたっ」

 半ばやけくそ気味に衿久は須藤の持っていたプリントをひったくった。それはチェックされて戻って来た衿久の原稿だった。

「だからちゃんと答辞引き受けたでしょうがっ」

 にやりとふたりは笑って、満足したように頷いた。

「そりゃあそんなの当たり前だよなあ」

「そうそう、町田に拒否権なんかなかったもんな?」

 衿久は今日、卒業生代表として答辞を読む。

 プレッシャーと緊張で胃を痛めてしまった本来の代表の代わりに、急遽一昨日の夜、担任の電話で一方的に決まったことだった。

「くっそ、覚えてろよ」

 思わず悪態をつくと、わはは、とふたりが大声で笑い出した。



 教室に戻ると、入って来た衿久を見て芦屋が手を振った。衿久も手の中の原稿を振って応える。

「よう、代表」

「やめろよ」

「林くんが泣きながら喜んでたぞ」

 林は答辞を辞退した生徒だ。衿久とは一年のときに同じクラスだった秀才だ。常にトップの成績を修めてきた彼だが、極度のあがり症だと聞いていた。担任から電話で林が胃を痛め辞退したと聞かされたときは彼らしいと衿久は思った。まさか自分にそのお鉢が回ってくるとは思いもしなかったが。

「原稿読むだけだろ」

「よゆうー」

「普通」

 それより、と衿久は小声で芦屋にだけ聞こえるように言う。

「受かったって? おめでとう」

「へへ」

 小さく芦屋は笑った。先日第一希望の私立大学を受験した芦屋は、合格を果たしていた。

「あ、あいつも受かったって」

「あいつ?」

「ほら、去年一回会ったじゃん?カフェで、塾の俺の友達」

「ああ…」

 言われてようやく衿久は思い出す。ほとんどぼんやりとしか思い出せない面影。同じ大学を希望していたという、名前も知らない芦屋の友達だ。

「そっか、よかったな」

「うん。衿久は、なんか決めた?」

 さりげなく切り出されて衿久は笑った。衿久が大学を受けないと告げたとき、その後も、芦屋は一度もその理由を衿久に聞かなかった。

 人はそれぞれだ。

 様々に事情があり、大きな流れだけがすべてではない。決して同じようにはいかないことを芦屋は理解しているのだろう。

 それでも、ずっと気にしているのには気がついていた。

「まあな」

「え、マジで?」

 芦屋が目を丸くした。その目元がじわっと嬉しさを含んだ笑みに変わっていく。

「そっか、よかったな衿久!」

 うん、と衿久も笑った。

「でももうちょっと…、ちゃんと言えるようになったら教える」

「それ、絶対な!」

「ああ」

 衿久が頷いたとき、チャイムが鳴った。廊下から他の教室に散らばっていた生徒たちが戻ってくる。

未央みおにはちゃんと言うよ」 

 ざわつく教室の中で衿久は言った。

 芦屋の名前は未央という。名前呼びを推奨する芦屋に、見事に芦屋の名前を忘れていた衿久は、この名前をしっかりと覚え込まされていた。

 いや、忘れないだろこんなかわいい名前。

 衿久の言葉に、芦屋はにやっと笑った。

「じゃあもいっこお願い」

「なに?」

「ミナトくんに紹介して」

「それは駄目」

 切って捨てるように衿久は言い放った。



 目の覚めた南人が一番最初に目にしたものは、青衣の赤くなった目だった。

 あのとき衿久は奥村に呼ばれて廊下に出ていた。

 事故の詳細を衿久に話し、奥村が切り出した話をしていた。

 病室から音が聞こえ、衿久は振り向いた。

『おにいちゃあああんんっ、みーくんんっ、みーくんめえあけたあ!』

 青衣の大声に衿久は飛びつくようにして扉を引き開けた。

 青衣の髪を撫でる南人を見た瞬間、衿久の心は決まったのだった。

 壇上に呼ばれ、答辞を読んだ。

 衿久は人前でもそれほどあがることはない。原稿を目で追って行くその視界の隅に、青い顔をして座っている林の姿が見えた。きっと自分のことのように思って、緊張しているのだろうと衿久は思った。なんでもないよ、気にするなと合図を送ってやりたかったが、そうは出来ずに残念だった。あとで話せるだろうか。目の前に座る卒業生たちの見知った顔を見渡す。仲の良かった者、それほどではない者、特別親しくしていた人もいる。友人、先生、たくさんの人。保護者たち。

 読み終わる寸前に嶋野と目が合った気がした。

 芦屋がおどけた顔をしている。

 滞りなく役目を果たし、衿久は拍手の中、壇上を下りた。



 卒業式が終わり、教室での最後のホームルームも終え、廊下には人が溢れていた。その流れに乗って衿久も帰ることにした。

 芦屋は新しく出来た母親が彼に内緒で来ていたようで、何やら廊下の隅でふたりで言い合っている。真っ赤な顔をして、衿久に助けを求めるように一緒に帰ろう、としきりに言ってくる芦屋に手を振って、衿久は横にいる小柄な女性に頭を下げた。芦屋の新しいお母さんは、全然普通のおばさんなんかじゃなかった。

「いいから、お母さんと帰れよ、またな」

「はくじょおものおっ!」

「はは」

 靴を履き昇降口を出たところで、胸に花が付いたままだったことに気がついて、衿久は足を止めた。

「町田くん」

 後ろから呼ばれて、衿久は振り向いた。

 嶋野だった。

「えと、あの、…」

 言いにくそうに嶋野は衿久を見たまま口ごもった。

 彼女が言い出す前に、衿久は言った。

「この間は、ごめん」 

 え、と嶋野は目を見開いた。

「大晦日に」

「ああ、あれ? いいの、私が悪かったし」

 あはは、と嶋野は気まずそうに笑った。

「お友達にあんなこと言って、私こそごめんね」

 見下ろす衿久に困ったように笑い、嶋野はぺこっと頭を下げた。

「ずっと謝りたかったんだけど、なんかタイミングなくって」

「俺もごめん。あの言い方はなかった。ほんとに、悪かった」

 嶋野は首を振った。

「私ねえ、町田くんのこといいなってずっと思ってたんだ。でも、町田くんは好きな人いるでしょ。なんか、羨ましくってその人」

 なんと返事をすればいいか分からない。

「町田くんってあんなふうに怒るんだね」

 ふたりの傍らを通り過ぎていく人たちの賑やかな声が、黙ってしまった衿久の代わりに、その場に落ちていく。嶋野は少し顔を赤らめて笑っていた。綺麗な子だな、と衿久は思う。こんなふうに改めてきちんと向き合ってみたことなど、本当は一度もなかったのだ。

 出会う前なら、好意を持てただろうか。

 南人に出会う前なら。

 衿久には想像もつかなかった。

「それって、やっぱりあの人?」

 おずおずと聞く嶋野に、衿久は微笑んだ。

「うん、そう」

 あっさりと肯定した衿久に嶋野がぽかんとその目を見開いた。

「そ…、っかあ、そうかあ、そうだよね」

「ああ」

 遠くから彼女を呼ぶ声がした。はあい、と嶋野は大きく返事をして、衿久に向き直り笑顔で言った。

「町田くん、元気でね」

「嶋野も」

「うん」

 スカートを翻し、嶋野は校門で待つ友人たちのところへ駆けて行った。衿久の横をすり抜けて行くその瞬間に、ぽん、と戯れのように背中を軽く叩いて、ばいばい、と手を振った。



 母親に言ったように家には帰らず、衿久はそのまま南人のいる病院に向かった。

 南人の退院は明後日、長すぎた入院生活ももうあと二日で終わる。

 通い慣れた病室の扉をノックすると中から南人の声がした。衿久は扉を引いた。

 個室の真ん中に置かれたベッドの上で、南人が衿久を見て笑っていた。

 それを見て衿久の頬が自然と緩んだ。

「早いな、家には? 帰らなかったのか?」

「ああ」

 結局胸につけたままだった花飾りを、南人が衿久の胸から外してくれた。

「卒業おめでとう、衿久」

 柔らかな日差しが南人の髪を照らす。

「ありがとう」

 手を伸ばして撫で、衿久は南人の額にまだ赤く残る傷を指先で辿った。

 この傷は、時間が経てば少しずつ薄れていくだろうと、治療に当たった医師は言っていた。

 左腕の手首から肘までを包むギプスに、衿久はそっと触れる。

 この腕はフェンスの傍に倒れていた男に傷つけられたものだ。

 警察が到着したとき、すでに男の姿はなかった。その後フェンス付近に取り付けられていた防犯カメラの映像から男の身元が割れ、男は逮捕された。

 十日ほど前のことだ。

 男が掘った穴の中には、人の骨があったという。

「衿久?」

 呼ばれて、衿久は南人を見た。考えで意識が沈んでいたのか、南人が心配そうに覗きこんでいた。

 なんでもないよ、と衿久は笑った。

「南人も、退院おめでとう」

「…ああ」

 自分の額に触れている衿久の手を取って、南人はその指先に頬を寄せた。南人の好きにさせながら、衿久は切り出した。

「南人」

 どくん、と心臓が鳴った。自分が緊張しているのが分かる。

 このときを衿久は何度も繰り返し夢に見た。

 うまく言えるだろうか。

 膝の上の空いている手をぎゅっと握りしめる。

「俺さ…、奥村さんの話、受けることにしたよ」

 南人の目がぴたりと衿久の目を見て止まった。驚きで大きくなる。

「なん、で、…衿久」

「俺は南人と一緒がいい」

「だっ、だって、おまえにはちゃんと家族がいるのに、あんな、…っあれは!」

「南人」

「なんで…駄目だ衿久…!」

 身を乗り出した南人の肩を抑え、宥めるように衿久は言った。

「うちの親も言ってただろ? 南人はもう、家族だって」

 衿久を見る南人の目が揺れた。

 逃がさないように、衿久は両手で南人の頬を包む。

 目を合わせた。

「俺を、家族にして? 俺を南人の子供にしてよ」



 事故の後、まだ南人が目覚める前奥村は衿久に、南人の養子になってはもらえないかと言い出した。

 突然の話に衿久は驚いた。そこに南人が目を覚ました。

 駆けつけた両親は南人の前で号泣した。

『みーくん、よかった、よかったあああ!』

『よかった、ほんとに、ほんとによかったよお…っ』

 みーくん、みーくんと病室で泣き叫ぶ両親の姿に、衿久は泣きそうになった。その場にいた奥村も同じようだった。

『ありがとう、青衣をありがとう、ごめんね、ごめんね』

 包帯で痛々しい南人の手を握りしめて母親は何度も言った。

 大丈夫、と南人は微笑んでいた。

『俺じゃない、青衣を本当に助けたのは、えくぼだから』

 南人の話では先に車の前に飛び込んだのはえくぼだったそうだ。青衣を追い越し、車のフロントに飛び乗りブレーキを踏ませた。あれがなければ誰も助かっていなかったかもしれないと、南人は言った。

 えくぼは命は取り止めたが、右の後ろ足を失った。

 背骨も傷め、今はまだ上手く歩くことが出来ず、動物病院に預けている。そのえくぼも来月には戻ってくる予定だ。

『何言ってるの、違うでしょ』

 南人の言い分を聞いて、衿久の母親は言った。

『大丈夫ってなによ、心配するのなんか当たり前でしょう』

 泣きながら少し怒ったように言う母親に、南人は戸惑いの視線を向けた。

『え…、なんで…』

『こんな大けがして! 無茶して! 家族も同然の子の心配するのなんか当然に決まってるでしょ!』

 かぞく、と声に出さずに南人の唇が動いた。

『家族でしょ、みーくんはもう、うちの家族でしょ』

 母親が顔を上げ、「ね、衿久」と言った。その涙で濡れた顔がすべてを知っているように見えて、敵わないなと衿久は思った。

 その一言で衿久の心が決まった。

『うん』

 頷くと、泣いていた父親がそうだ、と声を上げた。

『みーくん、うちのあーちゃんと結婚したらいいよ』

『はあ⁉』

『みーくんならお父さん、許せるかなあ…』

『何言ってんだあんたはっ』

 妄想する父親に衿久は呆れた声を出した。冗談じゃない。

 青衣にやれるか。

『えーだめだよおとーさん』

『そうよ!駄目でしょ!』

 青衣と母親が同時に声を上げた。え、なんで、と父親が聞き返すと、青衣がだってーとベッドにしがみつきながら衿久を指差した。

『おにーちゃんがおうじさまだもん』

 王子様?

 誰もが首を傾げる中、青衣はだってーとまた言った。

『みーくんにきすしてたもん、ぎゅーってして、ちゅーしてたもん!』

 だからおうじさまだもん、とにこっと青衣は無邪気に笑った。

 衿久は真っ赤になって家族や奥村の痛い視線に耐えた。

 その数日後、奥村は衿久の家を訪れて、両親に正式に佐原家への衿久の養子の話を申し入れた。

 それは衿久が二十歳になったら、というものだった。

 両親は黙って聞いていた。

『あの、みーくん…南人くんはこのことを知ってるんですか?』

 父親が尋ねると、奥村は頷いた。

『知っています。そうしましょうと私が話しました。反対していますが』

『そうですか』

『でも私は、反対されてもこの話を進めたい。あの人をひとりにはしておけない。私もこの歳だ。そう長くはありません。私が死んだ後に、いえ、今すぐにでも、あの人の傍にいて欲しい』

 奥村は深く、畳みに額をつけるように頭を下げた。

『どうか、どうかお願いします。考えてはもらえないでしょうか』



 目の縁から、滲んだ涙が溢れて決壊し、まだ細かな傷の残る南人の頬の上を滑り落ちていった。

 南人は首を振った。

「えりひさ、そんなの、できな…、出来ない…!」

「出来るよ」

 指先で涙を拭う。

 結果、衿久の両親は承諾した。

 母親も父親も親族はもういない。

 衿久がよければそれでいいと言った。親戚が増えるみたいなもんだな、と父親は呑気だった。

『でっかいのがいなくなって部屋が広くなるねー』

 とは、母親の言葉だ。

 思い出して衿久は苦笑する。

「うちの親は喜んでるよ。南人が好きだから、嬉しいんだ」

「おまえの家族はどうかしてる…っ」

「そうだな」

 衿久は笑った。

「俺たちはみんな、南人がいなければ生まれてはこなかった。俺も青衣も、父さんもばあちゃんも、ひいばあちゃんだって、南人がいなければ存在しなかったんだ。奥村さんも。だろ?」

 南人が息を呑んだ。

「奥村さんがいつか言ったんだ、俺に。俺たちは南人の子供みたいなものだって」

「そんなわけない…っ、違う、俺はただ…」

 ただ治しただけ。

 力を、使っただけだ。

「違わない」

 強く言うと、ひくっと南人の喉が鳴った。愛しさに、衿久は目が眩みそうになる。

「違わない。みんな、南人がいたから生まれてきたんだ」

 だから、家族になろう。

「南人、俺と一緒にいて。それで、いつか、俺が南人を見送るから」

「──」

「一緒に死んでもいい。でも絶対置いて行かねえから」

 くしゃっと南人の顔が歪んだ。

 あのときの南人の言葉。

『…衿久、俺を見送って』

 あれ以来南人は力を失くしていた。

 小さな傷ももう治すことが出来ない。

 この一ヶ月で、ほんの少し背が伸びた。

 止まっていた時間が動き出していた。ゆっくりと、南人の時間は進みはじめている。

 一時的なものかもしれなかった。

 答えなど誰にも分からない。

 いつかこの先、何年か先、もしも南人に力が戻ってきたとしても、また時間が止まったとしても、それでもいい。それはそのとき考えればいいことだ。

 ふたりで考えていこう。

 どうするか、ふたりで決めていこう。

 きっとどうにでもなる。生きているのだから。

 ぽろぽろと零れる涙を衿久は手のひらで拭った。

 嗚咽を堪え、南人は唇を噛み締めている。たまらなかった。

「俺がいるよ」

 そっと囁くと、南人が泣き叫んで声を上げた。その声ごと胸の中に閉じ込めるように、衿久はきつく南人を抱き締めた。



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