28
障子を開けると、月明かりの下に立っているのは蓉だった。
これは夢だ、と南人は思った。
自分は一度も、蓉がそこに立っているときに障子を開けたことがない。
見つめ合う目が怖かった。
ただそれだけだったのだ。それだけのために、何年も何年も、顔を合わせなかった。
夢でもいい。
蓉、と呼びかけた。
彼女は薄く唇を開いた。
日置の娘。美しく成長し、母になった彼の娘だ。
「やっと、私を見てくれた」
南人を見つめ、蓉は笑っていた。
目の縁から涙が零れた。
ああ、そうだった。
蓉は笑うとこんな顔だったのだと南人は思った。
幼いときから何ひとつ変わらない。
頬に出来たえくぼの上を涙が伝って落ちた。
「お義父さん…」
***
奥村にはああ言ったが、衿久は南人と青衣が一緒に出て行ったとは思えなかった。きっと、いや、間違いなく、先に出たのは青衣だ。南人はその後を追って行ったに違いない。
「くそ…!」
細かな雨粒が切れ目なく落ちてくる。
目の中に入るのも構わず、衿久は走った。枯れ葉の上には南人のものと思われる足跡が残されていた。ぬかるんだ土の中の跡で分かる。南人は裸足だ。いつか、衿久を捜して外へ出たときのように。
「みなとー!あおいー!」
衿久は大声で呼んだ。
叫びながら心臓が嫌な感じで内側から鳴り響くのを、衿久は胸を掴んで抑え込んだ。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
衿久は奥へと走った。
この先には、確か道路とぶつかる所があるはずだ。
南人は勿論それを知っているだろう。
だから…
「みなとー!…あおいーッ!」
どうして雨なんだ。
何も見えない闇に、携帯の明かりを向ける。
衿久は辺りを見回して耳を澄ませた。
木立に跳ね返る自分の声と、雨の音が混じり合う。
呼吸する音さえもうるさくて息を止めた。
もう一度。
「──み」
ふたりの名前を叫ぼうとしたとき、冷えた空気のわずかな隙間に、かすかな泣き声を衿久は聞き取った。
青衣の声が夜の中に響き渡る。
「青衣!南人…!」
切断された有刺鉄線を抜け、斜面を駆け下り、声のする方へ衿久は走った。崩れた斜面の下に男がひとり、泥にまみれて倒れている。こいつが侵入者だろうか。何があったのか、気を失っている。だが、構っている暇はない。穴の開いたフェンスをくぐった。
「──」
衿久は息を呑んだ。
道路には人が横たわっていた。
斜めに停車した車の、眩しいほどのライトの中にいたのは、南人とえくぼだった。
道路の真ん中で青衣が泣き叫んでいる。
「あーっ、あーあああーっみーくん、みーくん、えくぼーっ」
何があったのかなど一目瞭然だった。
全身から血の気が引いた。
「青衣…!南人!」
衿久は駆け寄り青衣と目を合わせてから、青衣の体のどこにも傷がないことを確認し、南人を抱き起した。青衣は衿久を見て、さらに声を張り上げた。
「あ──ッ!あー、おに、ちゃん、みーくんっ、みーくんがあ…!」
「うん、わかった、分かったから、青衣、…!」
泣くな、という言葉を衿久は呑み込んだ。
車の脇に途方に暮れたように座り込んでいた運転手が、救急車を呼びました、と震える声で衿久に言った。衿久は目を向けただけで、何も返さず、腕に抱いた南人を見た。
「南人…!」
南人は泥と血に塗れていた。雨に濡れた冷たい体、青ざめた白い頬についた土と血を、衿久は手で拭った。
「しっかりしろ、南人、南人!」
薄く、その目が開いた。
「えりひさ、青衣は…?」
「無事だ、南人、大丈夫だよ」
「そうか」
よかった、と南人は笑った。
「青衣が無事でよかった」
「南人、すぐ、すぐ救急車が来る」
南人の目がゆっくりと閉じて、また開いた。
「衿久、いいんだ」
その言葉に衿久の頭の芯がすっと冷えた。
「何言ってんだよ…っ」
コートを脱いでそれで南人を包んだ。ぬるりと生温かい、雨ではないものが衿久の腕を濡らしていた。
「南人、なあ南人っ、そんなこと言うのやめろよ、何がいいんだよ⁉ なにが…っ、大丈夫だから…!」
「えくぼが…青衣と俺を、守ってくれた」
「…え?」
えくぼは南人の横でぐったりと体を投げ出している。時折腹が上下している。まだ生きているのだ。
助けなければ。
焦りが衿久の中に生まれた。
「…笑ってた」
ふっ、と南人が微笑んだ。
「蓉が、笑ってたんだ」
よう?
「よかった…」
南人の言う「よう」とは曾祖母の蓉のことか。南人が、死んだ友人の代わりに父親となった…
衿久にとって、蓉は見知らぬ他人も同然だった。南人を疎んでいたと、そう南人は言っていたではないか。
それが、今何の関係がある?
「なあ、救急車まだなのかよ⁉」
苛立ち紛れに衿久は怒鳴った。父親と同じ年頃に見える運転手が携帯を握りしめたまま、ただ首を振った。青衣がぎゅっと、えくぼを抱き上げる。いつの間にか青衣は泣き声を殺していた。
「あおい」
南人が青衣に手を伸ばして、真っ赤になった目に触れるように頬を撫ぜた。
「泣かなくていい、青衣…」
ひくっと青衣の喉が鳴り、涙が溢れ出る。
「みーくんん、みーくんんんっ、いやだあ、いやだよお、やだあああ」
青衣を慰めてやりたかったが、衿久の腕は南人を離せなかった。
「南人、みなと…っ」
何も出来ない。
動かしてはいけないと分かっているのに、衿久は南人を掻き抱いていた。今にも腕の中から零れて落ちていきそうだ。
「力は? なあ…っ今使えよ、自分を治せよ」
南人がかすかに笑う気配がした。
「うん…でも、俺は…自分を治したことがないよ」
ゆるゆると首を振った。
「衿久、分からない。どうしたらいいか分からないんだ…」
いつも人の痛みだけだった。
自分に使うことなど考えつきもしなかったと南人は呟いた。
衿久の喉が詰まったように息苦しくなる。
「出来るよ、絶対出来る」
濡れた道路にそっと下ろし、南人の手を掴んで導き、血の流れている場所に当てた。
「南人、ここだ」
痛みに南人が呻いた。酷なことをしているのは分かっている。
南人は手を当て、何度も深く呼吸を繰り返したが、変化はなかった。
「なんで…?」
自分自身には効かないのか?
ならば、何のための力だ?
自分の命だけを救えないこの力に、一体何の意味があるのか。
一体何の──誰のための力だ。
──冗談じゃない。
「なんでだよ、なんなんだよ…!」
もう一度、もう一度だ。
「衿久」
衿久の気持ちが分かったかのように南人が言った。
「俺は…ずっと、この力を失くしたかった」
静かな声だ。
「人を生き返らせる…三度目があれば、きっと失くせると思ってたんだ」
けれど、呼吸はずっと荒くなっていく。風が抜けるように、ひゅうひゅうと喉が鳴っていた。
「失くして、衿久と一緒に、生きていきたかった」
うん、と衿久は南人の肩口に顔を埋めて頷いた。南人の指が衿久の髪に触れる。
「みんなと同じように、歳を取って…衿久と、同じに、死にたかったんだ」
「俺も、俺もそうだよ」
髪を撫でる細い指。深く、深く、南人は息を吐いた。
「でもそれは…誰かの死と引き換えにあるものだ。それは、きっと、間違ってる」
「…南人」
「そんなふうに思ってしまったら、衿久、…きっと、もう、…駄目なんだ」
顔を上げ、南人を見ると、瞳いっぱいに溜まった涙が雨に混じって零れていく。
「みんな逝ってしまった、みんな、みんな、俺を置いて…だから」
南人は泣きながら笑った。
「衿久、…俺を、見送って」
その瞬間の気持ちを、何と言っていいのか分からない。
気がつけば衿久は、腹の底から南人を怒鳴りつけていた。
「ふざけんな!」
ちょっときみ、と止めに入った運転手の手を乱暴に振り払い、衿久は南人の肩を掴んで揺すった。
「俺が生きてるのになんでおまえが死ぬんだ! なんで、なんでそうやって放り出すんだよ! 一緒にいたいって思うんなら、生きて、俺の傍にいろよ…! 力で自分を治せよ、どうにかしろよ! なあ、全部治して、俺と一緒に生きればいいだろ…!」
「衿久」
「死ぬくらいなら、自分のために力を使えよ!」
衿久の視界が滲んだ。
くしゃっと南人の顔が歪んだ。衿久は落ちてしまった南人の手を、血の流れる場所に再び当てた。
「南人、もう一度──」
ゆっくりと南人が首を振った。
「えりひさ…、俺ね…」
南人は花が開くように笑った。
瞼が閉じていく。
「みなと…?」
鼓動が、呼吸が、消えていく。
「待って、…嫌だ、嫌だ、南人!」
衿久は南人の名前を叫んだ。
「あ」
青衣の腕の中でえくぼが目を開けた。その目には星が見えた。体を捩って青衣の腕から抜け出すと、えくぼはよろめきながらもさっと飛び上がり、衿久の肩に乗った。
おつきさまだ、と青衣は思った。
えくぼが何かを咥えている。それはえくぼの体の中にあったおつきさまだ。
きれいな金色の小さな月が、南人を見下ろしていた。
「南人、みなとっ、なあ…南人、目え開けろ、南人…!」
南人の頬を両手で包んで衿久は泣き叫んでいた。
揺すっても叩いても、南人は目を開けなかった。
胸に耳を当てる。心臓の音がほとんど聞こえない。
まだ温もりがある。
まだ、まだだ。
「いやだ、嫌だ、死ぬな、死ぬな南人! これで諦めんのかよ⁉ なんでっ、俺がいるのに、なんで──」
衿久ははっとした。肩に軽い重みを感じる。えくぼだった。
えくぼの茶色の毛が金色に光っている。いや、違う。えくぼは光る何かを咥えていた。衿久が凝視していると、それをぽとりと南人の口元に落とした。
衿久は目を見開いた。
「これ──」
えくぼが鋭く鳴いた。
それは痛みの欠片だった。
南人の糧。
なぜか、月のように光っている。
「おまえ…なんで」
えくぼはじっと衿久を見ていた。何かを訴えかけるような目で、ただ、衿久を見ている。
そうだ。
迷っている暇などない。これは南人の力の欠片だ。
「──」
衿久は欠片を自分の口に入れた。南人は衿久がいつかこれを口に入れたとき、激しく動揺していた。
きっと、この行為には意味がある。
きっと。
あと一度。
『あと一度で、南人さんは自分の力を使い果たすと、きっと分かっている』
それならばその一度を、自分に使って何がいけない?
これを三度目にして何がいけないんだ。
「南人」
そのまま顔を寄せ、そっと、目を開けない南人に衿久は呼びかけた。
「…俺は南人に生きていて欲しい。嫌だって言っても、そんなの聞かねえから、いくらでも怒っていいから…だから」
だから、俺と生きて。
一緒にいよう。
この先も、一緒に歳を重ねて生きていこう。
たとえこれで南人の力が失われなくても、きっと、なんとかなるから。なんとかしてみせる。
だから。
「…戻って来い」
衿久は口の中で欠片を噛み砕いた。
祈るようにそのまま衿久は南人に口づけた。柔らかく雨に濡れた冷たい唇を開けて、舌先で砕けた欠片を押し込んだ。
南人に生きていて欲しい。
生きたいと思って欲しい。
俺と一緒にいたいと願って欲しかった。
まだ、どこにも行かないで。
頼むから。
南人、と衿久はその名だけを思った。
どこからか清冽な香りがした。
雨に混じるそれを、衿久は知っていると思った。
闇の中で光が弾けた。
「あ…っ」
青衣が声を上げた。
衿久の肩の上からえくぼがぐらりと落ちた。
その瞬間、南人の体から溢れ出した光がすべてを飲み込んで、誰も、何も、考えられなくなる。
何もかもが白く──
ただ、白く染まっていった。
***
月明かりの差す庭に、南人は立っていた。
今はもうない離れの庭だった。
足下には、えくぼが座っている。
同じように月を見上げていた。満月だ。いつも、南人にはあの光が頼りだった。あれさえあれば迷わずにどこにでも行くことができた。
ふと見ると、えくぼは小さな女の子に変わっていた。
青衣とそう変わらないように見える。誰だっただろう? 見覚えのある気がした。女の子は、地面に木の枝で何かを描いていた。
蹲ったその傍らに南人も腰を落とした。
『何してるんだ?』
女の子は顔を上げ、南人を見た。
『おまじない』
『おまじない?』
うん、と女の子は言った。
『ちゃんと帰れますように』
柔らかな土の地面には、何かの丸い実が描かれていた。
これは何だろう?
林檎?
『はい、どうぞ』
女の子はにっこりと笑って、南人に描いていたその木の枝を渡した。どこからか手折ってきたのか、木の枝の先にはまだ青々とした緑の葉がついたままだった。
笑顔につられたように、南人も微笑んでそれを受け取った。
南人が受け取ると、女の子はその枝から一枚葉を取って、小さな手でそれをふたつに千切った。
胸の透くような香りが立ち上る。
どこかで、いつか、嗅いだことがある。
美しく芳醇な──
『おじいさま』
その声に南人は顔を上げた。
女の子はいつのまにか橘花に変わっていた。あの夜と変わらぬ姿で。
『お家に帰りましょう?』
『…ああ』
これは夢、これはあの夜の続きだ。
南人は差し出された橘花の手を取った。
違う道を、今度は手を引かれて歩いて行く。
どこへ向かうのか。
月明かりの中を橘花は迷いなく進んだ。ふたりの頭上には大きな月が輝いている。
もう雨はどこにもない。
月の真下で橘花は足を止めた。
南人を振り返る。
『おじいさま、手を出して』
手を?
首を傾げながらも言われるがままに南人が両手を差し出すと、橘花はその手のひらを上向かせ、掬うような形にさせた。
そっと囁く。
『もう迷いませんように』
ふうっと南人の手のひらに息を吹きかけると、そこには美しい月が現れた。
さっきまで頭上にあった金色に輝く月が、南人の手の中に、ふわりと浮かんで収まっている。
『これは…』
目を見開く南人に、橘花は微笑んだ。
『道しるべです』
『…道しるべ』
橘花は大人になっていた。歳を取り、病院で眠っていたあの姿に変わっていた。
『いつか必ず届けると、幼かった私はあなたと約束をしましたよね』
約束。
おじいさまにいつかきっと、種を蒔いて──
橘花は笑った。目尻に出来た深い皺の中で、その目が優しく南人を見つめていた。
『いつもあなたと共に、あなたといてくれる人がありますように』
『橘花──』
『また、会いましょう。今はまだ、そのうちに』
幼い頃の面影が残る笑顔で、そう橘花は言った。
暗闇の中にいた。
手の中の月を見つめる。
月は南人の道しるべだった。
いつも、足下を照らしてくれるその光が南人の行く先を教えてくれた。
月を胸に抱く。
どこかに連れて行ってくれるだろうか。
自分はもう死んでしまった。
それならばと願う。
今度、もしも生まれてくるのなら、誰のものでもない自分のものが欲しい。
南人の体ははじめから、自分のものであって自分のものではなかった。いつだってこの力は他人の為にあり、求められるままに差し出してきた。
生まれたときからきっと、こうなることは決まっていたのかもしれない。
自分の死さえ救えないことを。
そういえば、衿久に言われるまで、南人は自分で自分を治すということに思い至らなかったな、と笑う。
一度もそんなことを考えたことがなかった。
衿久。
どこかで衿久が呼ぶ声がした。南人を呼んでいた。
どこだろう?
でももう遠い。
遠く、遠く、衿久の声が遠くなっていく。
ああ、もう聞けないんだな、とぽつりと思った。
あの声をもう聞けない。
南人と、名前を呼ぶ声をもう聞けない。
死んでしまったら、もう会えない。
寂しさが、ぽっと火を灯すように胸の中に生まれた。
寂しい。
寂しい、と南人は呟いた。
衿久に会いたい。
ただ、会いたかった。
会って、一緒に生きていきたい。
捨てたはずの欲がまたよみがえってくる。
もしもこの力が使えたなら、自分を癒すことが出来たなら。
寂しさが込み上げる。
ひとりは嫌だった。長い孤独の果てに見つけたものを、簡単に捨てられるわけがない。
いつだって傍にいて欲しかったのに。
もっとちゃんと言えばよかった。
ちゃんと手を伸ばして、掴めばよかった。
南人は月を抱き締め、胎児のように闇の中で丸まった。
胸に灯った寂しさの火が、ぽっと燃え上がる。悲しみを訴えるように、大きく、大きくなる。
月が呼応するように白く光を放った。胸の中に抱いた月は、輝く果実へと変貌する。
生きたいと思った。
生きて、もう一度──
衿久に会いたい。
会いたい。会いたい。
──会いたい。
目の眩むようなその光が溢れ出した瞬間、南人は声の限りにその名を呼んだ。
***
誰かが泣いている。
南人は手を探り、そっと傍らのその頭を撫でた。
柔らかな髪がさらりと指から零れていく。
目を開けると、真っ赤な目をした子供が南人を覗き込んでいた。
「…青衣」
「お」
目をまんまるに見開いた青衣が、大声で叫んだ。
「おにいいちゃーんん! みーくんんっ、みーくんめえあけたー!」
白い部屋の溢れる光、風に揺れるカーテン、激しく扉の開く音がして、聞きたかったその声が南人の名前を叫んだ。
南人は抱き締めてくる腕の中で、あの香りを感じた。
「おかえり」
涙の滲む震えた声で、衿久がそう言ったとき、ようやく南人は自分が生きているのだと実感した。
生きている。
生きて、また会えた。
迷わずに辿り着けた。
「…ただいま、衿久」
呟くと、息も出来ないほどに強く、強く、さらに衿久が抱き締めてきた。
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