第五十八話  断罪イベントのその後のその後

「……手間を掛けさせてすまない、キリハレーネ殿」

「いいさ、オーランド騎士団長閣下。これくらいはアフターケアって奴だ」

「そう言ってくれるとこっちも助かる」


 王城の地下へ向かう廊下を、キリハはオーランドに先導されながら下っていった。

 先日の『断罪パーティ』から三日。クーデターを起こした者たちのほとんどは処遇が確定した。

 なんせ文句の付けようのない国家反逆罪だ。

 判決の焦点は死刑か、死刑よりなお残酷な刑罰を与えるか、という部分にしかない。

 実行部隊は問答無用で斬首された。弔うための墓も許されない極刑だ。

 貴族階級は一族揃って石打ちの刑だ。クーデターを起こして国を壟断しようなんて輩だから、誰も彼も領民から恨まれまくっていた。それぞれの領地に移送された後は、柱に括られ、領民たちから石を投げつけられボロ雑巾みたいになって死んでいくだろう。

 主犯格の『元』第一王子アルフレッドは、少しだけ面倒な手続きが必要だった。

 まず正式な廃嫡が行われ、さらに王族から除籍され平民に落とされた。あとは適当に処理されて『病死』ということになるだろう。王子の身分にあった者の最期としては、ひどく屈辱的なものだ。

 もっとも、本人は屈辱と思うことはないかも知れない。

 何しろ拘束されてからずっと「わんわん」としか鳴いてばかりで、意味ある言葉を一言も喋っていない。人間性をすべて失った者の末路と言うべき姿であった。

 これは、大司教も同様だ。

 彼は即座に解任の上で破門にされ、異端審問官から異端を超えて人間以下の『獣』認定された。死者を弔うべき聖職者が、死者を冒涜する死者生成の禁呪に関わったのだ。これに中途半端な対応をしたら、教会そのものの信用問題になる。

 彼もすでに「わんわん」と鳴くだけの存在に成り果てていた。大司教の座が剥奪された時も、破門にされた時も、異端審問の最期に異端者の刻印が成された時も、獣の如き憐れな鳴き声を漏らすだけだった。

 第一級の犯罪者たちであるが、これにはさすがに同情された。人間の尊厳を喪った、捨てられた狗の如き有様。自業自得とは言え、見るに堪えない。


「勘当したとは言え……あんな息子の姿は見たくなかった……」


 国家反逆罪は親族にまで連座する重罪だが、すでに勘当していたことから、オーランドはオルドランドの罪は適用されなかった。

 とはいえ、オーランドは近々騎士団長職を辞することを決めていた。

 勘当していたこととは言え息子の仕出かしたことにたいする後ろめたさと……人間以下に堕ちた息子の姿に心が折れてしまった。


「……これが最期のご奉公だ」

「まだ隠居する歳でもないだろうに」


 自分は三十路を手前にしてさっさと隠居した事実を棚に置き、キリハはオーランドに苦言を漏らした。


「……宮仕えは疲れた。身を軽くして、第二の人生をはじめたくなった。そうだな……冒険者でもやってみようか」

「ふぅん……ま、決心が硬いなら、あたしがこれ以上ごちゃごちゃ言うことも出来ないねぇ。夢が出来たなら、良いことだよ」

「夢といえば、キリハ殿はこれから何を? 転生者としてのお役目はこれで終わったのだろう?」


 ユリアナと対決した時、キリハが転生者であることは周知の事実になった。

 気味悪がられるかと思ったが……あの場に居た者たちはあっさりと受け入れていた。

 聞いたところ、この王国自体が転生者の少女の協力によって建国されたらしい。


『ああ、前々作の話ですね? いやー、やっぱ『無印』は良かったですよね。百年前の『2』も良かったですが、『3』のシナリオがこんなザマですからね。次の『4』の時代までにしっかりと運命(シナリオ)を修正しないと』


 どうやらこの世界の元になったという乙女ゲー、かなりの長期シリーズだったらしい。

 この国以外にも、この世界(乙女ゲー)には転生したり召喚された少女が度々現れては歴史に足跡を刻んでいるという。

 キリハが転生者だと知って、皆むしろ納得した顔をしていた。


「そうだねぇ……ま、ゆっくり考えるよ。いまはともかく、きっちり区切りを付けて置かないとね」


 地下牢に辿り着くと、キリハはオーランドに礼を言って一人で奥に向かっった。

 頼りない蝋燭の明かりが憂鬱さばかり助長させるジメジメした地下牢の一番奥には、薄汚れたドレスをきた少女が収監されていた。


「…………間違ってる……間違ってる……」


 ユリアナ・リズリットは、繰り返し繰り返し『間違ってる』と呟き続けている。

 三日前に拘束されてから、ずっとこの調子らしい。


「よう、元気かい?」

「!? きりはれぇぇぇぇぇぇええねぇぇえぇええええっっ!?」


 反応は劇的だった。

 声を聞くや否や、ユリアナはキリハの首を絞めようと、牢の鉄格子の隙間から手を伸ばす。

 自分の眼前で藻掻く爪の欠けた指を眺めながら、キリハは「へぇ」と感心したような声を出した。


「なんだ、元気じゃないか。話しかけられても反応しないからってあたしが呼ばれたのに」

「死ね! 死になさいよ! アンタさえ死ねば! 私はまた――」

「お前さんに『また』なんてないよ。あんだけ大勢の人間に正体を知られちまったんだよ? アンタに騙される連中はもういない。アンタはもう終わったんだよ」

「うるさい! こんなの間違ってる! こんなの間違ってる!」

「またそれか……」


 キリハもいい加減、このバカ女のたわごとにはウンザリだった。

 現実が認められない夢見がちな人間など珍しくもないが、この女はその中でもとびきりタチが悪い。


「ま、しょうがないわな。なんたって殺されても治らなかったみたいだしね」

「…………なにを言ってるの?」

「別に、あんたの末期を聞いたわけじゃないけどね、けど予想はつくよ。アンタはアンタの言う『間違い』に殺されたんだろう?」

「…………な、にを、言って……」


 ユリアナはだらだらと脂汗を流しはじめた。

 あれだけ憎しみを燃やしていた瞳が不安げに揺れている。


「覚えてないのか? それともわざと忘れてるのか?」

「ぐ、ぐぐっ……」

「ま、どっちゃでもいいわな。そんなこと言うために来たんじゃないしね」


 今更ながら恐怖らしき感情に震えはじめたユリアナに向けられたのは、虫の死骸でも眺めるような無感動な目だ。

 キリハはリストラを告げる人事課員がまだ叙情的と思えるくらいの平坦な声で話し始めた。


「あんたには、二つの道がある。一つは、僻地の修道院で一生病気療養。もう一つは、無一文で国外追放だ」

「……どういうこと?」

「ウチの執事が、あんたは殺さないで欲しいっていうんだ。あんたを此処で殺すと、リソースだか、運命力だが、まぁよく分からん不思議な力が無駄になるらしいんでね。あまり大っぴらに処刑をするとフォローが面倒なんだとさ」

「…………」

「国王陛下も魔王陛下も、あたしの妹たちや兄弟分も国家反逆罪で極刑にした方が後腐れないって言ってる。あたしだってそう思ってるが、まぁ納得してもらったよ」

「……私に、そんな屈辱的な選択をしろっていうの? そんなまるで……まるで悪役令嬢みたいな末路を!?」

「死ぬよりゃ良いだろ? んで、どうするんだ?」

「どっちもおことわりよ!」

「だよなぁ。あたしもそう言うと思ってたよ」


 決まりきった結果に、キリハは肩を竦めた。

 条件反射で「あー、ハイハイ」とお座なりな反応だ。

 ユリアナの答えは、キリハにとって見飽きるほど見てきた詰まらない回答だった。


「ほんじゃ、こっちで決めるよ。もっとも、国外追放ってことになるだろうけどね。誰だって自分の側に腐ったゴミは置いときたくない」

「はっ! 上等だわ。今に見てなさい。私はすぐに返り咲く。私にかかれば皆私の玩具よ。すぐにこの国を攻め滅ぼしてやるわ」

「……ま、頑張んな。無理だと思うけど」


 キリハは踵を返した。

 背中に下らない罵詈雑言が打つかって来るが、キリハはもうなにも反応しない。

 もう終わった人間に何を言われても、何の痛痒もないのだから。


 ※   ※   ※


 そして、キリハが訪れてから一週間後。

 ユリアナは囚人用の馬車に詰められて国境方面へ移動させられた。

 追放罪になった罪人に嵌められる首輪が気分をささくれさせるが、ユリアナは薄ら笑いを浮かべていた。


「……すぐに返り咲く。あたしにかかれば、どいつもこいつも玩具。あたしに利用される道具なんだから」


 そしていつかキリハを排除する。そうすれば、この世界のすべてが自分のものになる。

 だって、自分の思い通りになるのが正しいのだから。自分に逆らう人間が間違いなのだから。


「くくっ……あの女はどんな風に殺してやろうかしら? 手足を切り取って広場に飾ってやろうかしら? 丁寧に丁寧に壊してやらないと、私の屈辱は晴らせないわ…………?」


 馬車が止まった。そして、外が騒がしくなる。

 囚人護送用の馬車には換気用の穴しかなく、しかもいまは夜だ。

 外で何が起こっているのか、ユリアナには何も覗い知れない。


「な、何が……」

「ユリアナ嬢! 無事だったか!?」


 そう言って馬車の扉を開けたのは、かつては第一王子の学友で、ゲームの攻略対象でもあった宰相子息のユニオン・クレセントだった。

 廃嫡されて平民に落とされ、かつての優雅さからは考えられない薄汚れて粗野な格好だが、助けには違いない。

 ユリアナはユニオンから漂う異臭に我慢して彼の手を取った。


「ありがとう、ユニオン!」

「なぁに、これくらい容易いことだ」

「行くぞ、ユニオン。護衛の兵士たちが戻ってくる!」


 馬を引き連れて姿を見せたのは、これまた攻略対象の一人だった、ブライド商会の跡取り息子であったイリウス・ブライドだ。

 彼もまた、かつての栄光を感じさせない浮浪者じみた格好だったが、馬を引き連れているだけで救世主に見える。


「さぁ、ユリアナ!」


 ユリアナはユニオンの手を借りて馬に飛び乗ると、二頭の馬は街道を降りて一気に駆けた。

 どれくらい走っただろうか。

 すっかり景色も変わり、深い森の影に身を隠すようにして馬を止めると、二人の元攻略対象がユリアナを宝物を扱うように地面に降ろした。


「無事で良かった、ユリアナ嬢」

「久しぶりですね、ユリアナ」

「二人とも、よく無事で」


 ユリアナは二人から漂う異臭を我慢して笑い掛けた。

 一応は助けてくれた恩人だ。あのまま国外追放されていたら、最後には自分の思い通りになったとしても、いくらかの苦労は免れなかったろう。

 それを思えば、笑顔くらいいくらでも売れるというものだ。


「ああ、もちろん無事だったとも」

「ユリアナを置いて、僕たちが死ねるわけないからね」


 ユニオンとイリウスは、にこにこと笑っていた。

 ……月明かりのせいだろうか?

 彼らの笑顔に陰が見え隠れする。


「……ユニオン? イリウス?」

「ユリアナ嬢……ようやくだ。ようやく私のもとに戻ってきた……」

「もう、君を離さないよ」


 すらっ、とユニオンが腰に吊った剣を抜いた。

 イリウスも、懐から短剣を取り出す。

 月明かりに照らされ、二つの凶器がギラリと不吉に輝く。


「な、なにを……」

「一緒になろう、ユリアナ嬢……」

「君まで失うなんて耐えられない……だからずっと一緒になろう……」


 二人は笑う。

 笑う。笑う。笑う……ただただ、笑い続ける。

 もうそれ以外の表情を忘れてしまったように、二人は仮面の如き薄っぺらな笑顔を貼り付けていた。


「じょ、冗談じゃない!」

『ユリアナ!!』


 身を翻したユリアナに、二人が斬り掛かる。

 文系だった二人の攻撃を何とか躱し、ユリアナは森の奥へ奥へと逃げてゆく。


「ユリアナ嬢……待ってくれ、ユリアナ嬢……」

「もう僕たちには何もない……君だけだ、君だけだ、君だけだ……」


 幽鬼じみた不気味さでユリアナを追う二人の少年。

 身一つで放り出され、すでに精神が擦り切れていたのだろう。

 壊れた人形の如きで、彼らはユリアナに縋り付く。


「なんで……なんでなんでなんで、なんでよ! なんでこんなことになるのよ!」


 喚くが、それで彼女の命を奪おうとする二人が消えてくれる訳もない。

 必死で逃げるユリアナだが、夜の森など入ったこともない。走り慣れない彼女は木の根に躓き、思い切り頭から転んでしまった。


「ぐっ……ううっ……」


 頭に手をやると、掌がべったりと濡れていた。

 木漏れ出る月光に照らされた血の赤が、不吉なほど鮮やかにユリアナの目に飛び込んでくる。


「う、うっ、ううう……!!」


 血。血。血。血。血――ユリアナはこんな色の血を、かつても目にしたような気がした。


「あ、ああ……わた、し、は……!」


 思い出した。

 思い出してしまった。

 思い出したくもない、自分の最期を……。



『悪いけれど、もう辞めてもらえるかしら?』


 前世のユリアナは、成人してすぐにホステスになった。

 簡単に男を誑し込み玩具にしてしまう彼女にとって、上流階級の人間が訪れる高級クラブのホステスになるのが、成り上がる一番手っ取り早い手だと思ったのだ。

 銀座の高級クラブに就職したユリアナは、その店のナンバーワンという女性を見てほくそ笑んだ。明らかに自分の方が美しい。これならこの店のナンバーワンの座が入れ替わるのもすぐだろう。

 自信満々のユリアナだったが、彼女の自信はすぐ打ち砕かれることになった。

 店を訪れるのは、企業家や政治家、官僚などの上流階級の男たちばかり。よりどりみどりの状況だったが、彼らはユリアナに見向きもしなかった。

 これまで、ユリアナが微笑んでシナを作れば、男たちは皆鼻の下を伸ばした。

 だが、店を訪れる男たちは、ユリアナに微笑まれても困ったように苦笑するだけだった。

 ――こんなのおかしい。

 強引にすり寄るユリアナだったが、そうすると男たちは如実に離れていった。


『君はほんとうに美味しいマグロを食べたことがあるかな? いやまぁ、牛肉でも野菜でも何でもいいんだけどね……一度本物を味わうとね、分かってしまうんだよ。本物か偽物か、驚くほど簡単にね。特に、この店に来るような男たちはね。我々は『本物の女』を知っている。だから分かってしまうんだ。君の微笑みが嘘っぱちだってことが、ね』


 何が混入してるか定かでない合成肉でも見るような目で、とある客から忠告を受けた。合成着色料で誤魔化しても、分かる者には分かるのだ、と。

 自分に利用されるしかない男に憐れまれ、ユリアナは頭に血が上った。

 こんなの間違いだと、店でナンバーワンの女性から客を奪おうとしたが……ものの見事に失敗した。


『悪いけれど、もう辞めてもらえるかしら?』


 経営者に呼び出されてそう告げられた。ユリアナが奪おうとした上客から苦情がきたそうだった。


『この店は『一流の女』しか置かないことにしている。ウチの姐さん――オーナーの意向でね。悪いけど、あんたはこの店に相応しくない』


 自分が二流なのかと言い返すと、彼女は怒り狂うユリアナを鼻で笑った。


『二流どころか、三流以下よ。あんた、男を道具としか思ってないでしょ? 一流の女っていうのはね、男の背中に風を吹かせてやるものよ。そうやって男の価値を上げてやることで、女も価値も上がってゆく。男を発奮させるために、自分を磨くことを怠らないのが一流の女ってものじゃないか。自分を磨かず、男を引きずり落とすしか能がないあんたは、女じゃない。ただの『牝』さ』


 そうして追い出されたユリアナは、他の高級店でも同じような状況に追い込まれた。見た目の美しさで採用されても、自分より劣る容姿の女性たちを追い抜くことが出来なかった。

 問題を起こしては解雇される彼女は、段々と店のランクを落とし、とうとう場末で糊口をしのぐ、見た目がいいだけの安い女に堕していた。

 彼女が利用できるのは、上流階級には程遠い三流の男たちばかり。

 ――こんなの間違ってる。

 それが彼女の口癖になった。

 不満を抱えた彼女は、ある時、最初に勤めた店でナンバーワンだった女性を見つけた。彼女は高級店で身なりのいい紳士に付き添われながら、ユリアナには手出しの出来ない宝石をプレゼントされていた。

 ――こんなの間違ってる。あんなの間違ってる。

 ユリアナは彼女を付け狙い、ついに刃物を隠し持って襲いかかる隙を伺うようになっていた。

 そして、幸せそうな顔で産婦人科へ通うようになった彼女を襲う機会が訪れた。

 包丁を隠し持って近付こうとするユリアナだったが、そんな彼女の前に一人の男が姿を見せた。


『◯、◯◯◯さん……ひ、久しぶりですね……』


 男は、ユリアナがかつて利用し、飽きて捨てた男の一人だった。

 どこか、身体が悪いのだろう。土色の皮膚をして、病人特有の甘い臭い……麝香を漂わせている。

 卑屈な笑みですり寄ってくる、名前も忘れた男に、ユリアナはいいことを思いついたと笑い掛けた。

 ――ねぇ。ちょっとあの女を消してきてよ。

 ちょうどいいタイミングで姿を見せた道具男に隠し持っていた包丁を渡し、あの女を殺してこいと命令する。

 ――あの間違いを消してきて。そうよ、あの女みたいな間違いがなければ、私は最初の店で成功していた筈なのよ。私がこんな間違った立場に置かれるのは、私を妬む女たちの妨害のせいだわ。間違いを排除すれば、私が成功しないわけがないのよ。

 包丁を渡された男は、ぼぅ、と夢見心地の顔で反応らしい反応を示さない。

 ――さっさと消してきなさいよ、役立たず! 死にかけのアンタをまだ使ってやろうって私の慈悲が分からないの!?


『…………わん』


 男は鳴くと同時に、包丁をぶすりとユリアナの腹に突き刺した。

 ――は?

 よろよろ後退り、腹を押さえると、手は血ででったりと濡れていた。


『……わん。わんわん……わぉぉおおおおおっ!!』


 男は包丁を振り回してユリアナを切りつけた。

 腕に防御創が刻まれ、痛いと屈めば背中を切り付けられる。ユリアナはあっという間に血みどろになってゆく。


『わんわん! わんわんわわーん!!』


 言葉すら失ったようになく男は、恐ろしいことに笑顔だった。

 すでに人間を止めた男の心など推し量る意味もないだろうが……彼は怒りや憎しみでユリアナを殺そうとしているのではないようだった。

 彼はただ、宝物を守ろうとしているだけ。命すら失いかけて最後の最後に残った宝物を。

 それが例え……メッキの剥がれた偽物だったとしても。

 ――こんなの間違ってる……

 ユリアナは必死に逃げた。男が追いかけて背中を切り付けてくる。

 ――誰か助けて……助けなさいよ、このクズども!

 助けを求めたが、誰も遠巻きにするだけだった。誰がどう見ても痴情の縺れの果ての犯行だ。誰が見ても自業自得だ。誰もが、ユリアナを憐れみの眼で見ていた。

 その中には、ついさっきまでユリアナが殺そうとしていた女性も含まれていた。

 ユリアナが間違いと断じた女性が、ユリアナを憐れみの眼で見ている。

 ――私を、憐れむな……! 私は、敗者なんかじゃない……! 私は……

 よろよろ車道に迷いでた彼女は、衝撃で吹っ飛ばされて地面を転がった。トラックかバスか、大型車両に追突されたようで、身体が吹き飛んだみたいに感覚がなかった。

 横映しになった視界で見た最期の映像は、彼女を殺そうとしていた男が満足そうな顔で自分の首に包丁を突き立てる顔だった。満足そうな……宝物を守りきった誇らしげな顔で、男は血を撒き散らして死んでいった。

 ――こんな、の……間違って……

 ずっと思い通りに生きてきた。ずっと思い通りに男を動かしてきた。ずっと思い通りに女を踏み躙ってきた。これからも、ずっと思い通りの幸せを享受する筈だった。

 なのに、なんでこんな風に死ななきゃならない?

 なんで、こんな風に惨めに死ななきゃならないのだ?

 ――次は、絶対に間違わない……

 それが、ユリアナの前世の最期。あまりに惨めすぎる死に様の全てだった。



「……わん」

「わんわん! わおぉぉ~~ん……」


 そして、今もまた、言葉を失い鳴くことしか出来なくなった狗が二匹。

 道具男の成れの果てが、夢見るように微笑みながらユリアナを追いかけてくる。


「……間違ってる……こんなの、間違ってる!」


 前世で何度も繰り返した言葉が口を突いて出る。

 ユリアナはぱっくり割れた頭の傷を押さえながら森の奥へ逃げる。


「間違ってる……間違ってる……次は絶対に間違わない……そうよ、間違わなければ幸せになれるんだから! 私が幸せになれないなんて間違っているんだから!」


 ユリアナは森の奥の奥、真っ暗闇の暗黒へと逃げ込んでゆく。

 世の中をゲーム感覚で享楽に耽ることしか知らぬ女は、何一つ気付かず、何一つ掴めず、何一つ認められないまま、何も見えない闇の中へ消えていった。


 ※   ※   ※


 後日。

 人為的な魔物の襲撃を受けた騎士団が混乱から回復して追跡した先で、男二人と女一人の足跡が大きな森――魔物の生息地の奥へと消えていったのを確認した。

 ユリアナ・リズリットと、その逃亡幇助を行ったユニオン・クレセントとイリウス・ブライドの三人は、限りなく死に近い行方不明として処理された。

 死を確認した方が良いという意見もあったが、それも形式的な提言に過ぎなかった。

 もう、どうでもいい。

 肉体的に生きてようと死んでようと、世間的に死んだ人間にこれ以上関わるのは時間の無駄だ。

 ユリアナ・リズリットという身の程知らずの勘違い女は、やがてすぐに人々から忘れ去られていった。

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