文芸部
毎週金曜日の放課後には、文芸部の定例会議が開かれることになっている。もっぱら会議は空き教室で開かれていて、それというのも文芸部の部室は、会議を開くにはあまりにも倉庫然としていすぎていたからだった。
*
ようやっと金曜日の放課後になって、ここ数月ほどの恒例の会議の開催場所になっている空き教室に向かう途中、渡り廊下を歩いていると、向こうから見知った顔の人影が小走りでこちら側に近づいてきていた。前髪を左に流したショートボブで、鞄にアニメのキャラクターのラバーストラップをつけている――。
――森峰先輩。
文芸部の先輩だった。とっさに気づかないふりをしようとしたものの、バッチリ目があってしまった。
胸中に嫌な焦りがせりあがる。
お疲れさまです、こんにちは、だろうか。
それとも会釈だけして済ませるべきか? 三つの選択肢が同時に脳裏によぎり、そのままその三つを取った後それぞれの状況を脳が検討し始めると、気づけば先輩と視線が交わされたまま既に数瞬が経過していた。
「あっ……あ……」
思考がショートして、言葉にならない声を漏らしてしまう。
「あっ……、おっつー……」
森峰先輩はとても良い人なので、不審な挙動をする僕に、それでも曖昧に片手を持ち上げてくれた。顔が引きつっている。僕も強張った笑みを返す。そのまま僕たちはすれ違う。
たった数秒なのに、これ以上ないほどに空気が冷え切ってしまった(あるいは僕がそう感じているだけかもしれない)。
足音が遠ざかっていく。
振り返る勇気も沸かず、頽れたい気持ちのまま、僕はそのまま空き教室に向けて歩き続ける。
*
「最大騎士力! へっへへ……ボクの勝ちだ」
「ああああっ!! 負けたーーっ!!!」
「はーくん強いね〜〜ヨシヨシ」
「………くっ」
僕が空き教室に到着したとき、教室の前方あたりで、すでに先んじて到着していた先輩たちが四人でボードゲームに興じていた。四人のうちボクっ子――もちろんキャラ付け――の先輩がちょうど勝ったところらしく、負けたらしい二人が演技っぽく悔しがって見せており、後ろで観戦していた一人がボクっ子先輩の頭をなでている。
僕はできるだけ気配を消しながら教室の後方を横断し、窓際の席に陣取った。定例会議が始まるまでの間、いつも通りに本を読んで時間を潰すことにする。
――するものの、本を読みつつ、教室の前方ではしゃいでいる先輩たちの様子がどうしても気になってしまう。
混ざりたい。
全員が集まるまでにはそこそこ時間があるので、会議が始まるまでの間は、こうして先輩たちがボードゲームをしているのか恒例だった。できるなら、先輩たちと一緒にボードゲームで遊びたい。入部当時はそんな情景を思い描いたりもしていたけれど、すでに先輩五人――今ゲームに興じている四人と、森峰先輩――で完成しているグループに新たに加わることは、あの頃の僕の気の小ささでは無理だった。今も無理だ。
混ざりたい、けれど、タイミングを逃してしまった。だからもう無理なのだ。もういいんだ。僕は一年間、一人で過ごすことが確定してしまっているのだ。それが部活もそうだというだけで、諦めてしまえば、今更別段どうということはない。つらくない――。
――でも、もしかしたら、今話しかけに行けば。
気付けば、ずいぶん前から手元の小説のページをめくる手が止まっていた。誰にともわからないが、取り繕うように僕はページをめくった。
残すはあと二人、先ほど渡り廊下ですれ違った森峰先輩と、顧問の岡野先生が加わるのをただ待つのみ。彼らさえ到着しさえすれば、この苦しい逡巡の時間もタイムリミットを迎える。
*
会議が終わると、窓の外はすでにだいぶ暗くなっていた。蛍光灯の明かりが窓に反射して、外の様子はほとんど判然としない。
結局今日も、一言も言葉を発することなく会議が終わってしまった。
メモ帳を畳んで教室を後にしようとすると、「し、篠崎さん」背後から声を掛けられた。心臓が嫌な跳ね方をする。
おずおず振り向くと、森峰先輩が緊張したような笑顔で立っていた。
「あのね、このあと皆でご飯食べに行くんだけど、篠崎さんも行かない?」
「あっ、え……」
ご飯。
ご飯……?
ご飯、というと、おそらく――そうだ、おそらく学校の近くにあるファミレスに皆で行くということだろう。焦りで鈍った思考が、先輩の発した言葉と意味を繋げるのにいくばくかの時間を要した。混乱する思考の中で、ふと思い出す。入部当時も、先輩たちが――特に森峰先輩が――僕のことをよく帰宅しなのファミレスに誘ってくれたのだった。気の小さい僕は、そのたびに何かと理由をつけて断ってしまい、ファミレスには結局これまで一度も行かずじまいだった。
いつしか先輩たちが僕のことを誘ってくれることはなくなっていた。
*
「す、すみません。用事が、あるので……」
どれくらい逡巡していたのだろう。いつか僕はそう口にしていた。口にしたのち、僕はぺこりと頭を下げた。
「そ、そう……。残念、また今度ね……」
どこかほっとしたような顔。僕もまた、心のどこかで安堵していた。
*
失意の中で昇降口に向かう途中、渡り廊下を歩いていると、向こうから見知った顔の人影が小走りでこちら側に近づいてきていた。長い前髪が伏し目がちな目に掛かっていて、どこか体を動かすのが苦手そうに、重そうな荷物を運んでいる。じたばた、と、そんな形容詞が似合うような足運び。
――川瀬さん。
川瀬さんだった。とっさに気づかないふりをする。川瀬さんも気づかないふりをしていた。
川瀬さんが気づかないふりをしていることに、僕は気がついていた。たぶん向こうも気がついている。相手が気づかないふりをしていることに、互いに気がついていて、それでもあえて示し合わせたように、互いに気がつかないふりをして、そしてすれ違った。
すれ違い、やがて足音が後方に遠ざかっていく。
辺りは再び静寂に包まれた。冷たい夜気と、ブン、という蛍光灯の音だけが再び周囲を満たした。
*
これだ。
そう、これなのだ。
これなのだ。今、この瞬間、すれ違う瞬間わずかでも、僕たちは通じ合っていた。ぼっち同士の、互いに気づかないようでいて、でも互いに気づいていて、それでも互いに気づかないふりをすることこそが今互いのためになるということがわかっているからこその、無言の配慮。無言の交信。無言のプロトコル。
川瀬さんに気づかないふりをされた。
それ自体は悲しい。悲しいが、その悲しさと同時に、僕たちは今、心が通じ合っていた。そんな実感が、不思議とどこか薄暗い喜びとなって、しばらくの間僕の心を切なく満たしていた。
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