第5話「最後の質問」

「ここまでのやり取りに、特に問題はありません。次の質問の返答次第で、箱の所有者は貴方になります。逆に言えば、もし購入を取りやめたいと思うなら、今が最後のチャンスです。本当に購入でよろしいですか?」


 言葉こそ警告の形だが、やはり彼女は、僕に箱を所有させたがっているように思える。ならば何も遠慮することはない。正直にいこう。


「相場師は人間のクズですが、絶対にやらないことが一つだけあります」

「なんですか?」

「一度、成立した注文は、絶対に【なかったこと】にはしない事です。その一点においてのみ、彼らを尊敬しています。平気で約束を反故にする堅気の方が、よっぽど怖いと僕は思ってる。だから、その点についてはご安心ください」

「わかりました」


 僕の返事に苦笑しながら、彼女はそう答えた。最初は冷たさしか感じなかったが、少しばかり人間味が増してきているように、僕には思えた。


「では、改めて問います。貴方が望もうと望むまいと、箱の力は必ず貴方に権力をもたらします。貴方はこの箱の所有者となって、一体何をしたいのですか?」

「……」


 僕は権力を得る事には興味がない。尊敬する師匠の遺品を手元に置いておきたいだけだ。それでも敢えてこの問いがあるという事は、その気持ちだけでは、所有者たる資格がないという事だろう。


「その答えを明かす前に、少し昔話をしても構いませんか? でないと、回答が真実であることを、信用して頂けないと思いますので」


 僕はそう言葉を継いだ。久しぶりに師匠の夢を見たことには、何らかの意味があると思ったからだ。


「どうぞ。この質問が一番大事ですので」

「ありがとうございます。ところで、もう一つお願いなのですが、貴女のお名前を教えていただけませんか? 偽名でも構いませんので」

「では、源五郎丸げんごろうまる 洋子ひろこでお願いします」

「げ……げんごろうまる?」

「私の本名です。清和源氏の流れをくむ由緒正しき名字ですが、何か問題がありますか?」

「それは、そうなのかもしれませんが……」

「冗談です。もし名前が必要なのであれば、私のことは、ユキとお呼びください」

「ありがとうございます」


 とりあえず、源五郎丸さんと呼ぶ最悪の事態だけは避けられた。


「ユキさんは、僕と師匠の馴れ初めについてはご存じですか?」

「いえ……。貴方が剣乃氏の最晩年の側近であったことは存じていますが、具体的には何も知りません」

「では、質問に答える前に、その事を少し話させてください」

「わかりました」


 ここからが勝負だ。


「僕が師匠に師事するようになったのは、僕がニッパチ屋に預けてしまったお金を、剣乃さんが取り返してくれたことがきっかけです。ニッパチ商法というのはご存じですか?」

「いえ、存じません」

「では、信用取引はどうですか?」

「それは分かります。証券会社からお金を借りて、株を買う事ですよね」

「その通りです。まだ、店頭でしか株が買えなかった時代、信用口座は地場の証券会社でも五百万、大手だと二千万は持ってないと開設できないものでした。勿論、お金を持ってるだけじゃダメで、現物取引で実績を積み重ねてからじゃないと作ってもらえなかったんです」

「株取引に熟知した人間でないと、開設できなかったという事ですね?」

「その通りです。取引の方はともかく、当時、学生だった自分には、五百万の金を用意することは不可能でした」


 文字通り、あれは【信用】口座だった。会社を所有してるのと同じように、信用取引が出来ることが、個人投資家のステータスだった時代が確かにあったのだ。


「それはそうでしょうね。で、その話とニッパチ商法には、どんな関係があるのですか?」

「ニッパチ屋は、【信用取引みたいなもの】を商売にしてるんです。購入代金の2割を現金で入金すれば、残りの8割をニッパチ屋が融資して、彼らの口座で代わりに買ってくれるんですよ」


 僕がそういうと、ユキさんは少し間をおいてからこう答えた。


「真っ当な金利であれば、特に問題のない行為のように思えますが、どこに問題があるのですか?」

「僕も最初はそう思いました。問題なのは、ニッパチ屋の9割は実際には株を買ってないってことです」

「??」

「買ったことになってますが、実際には買ってないんです。お手製の売買報告書は、ちゃんと来るんですけどね」と言って、僕は笑った。ユキさんはまだピンと来てないのか、何も返事をしなかった。


「要するに、ニッパチ屋っていうのは、入金されたお金を全部呑んでしまうんです。彼らはお金を預かった後、危ない株をどんどん勧めて、客が全部すっ飛ばすまで、ずっとそれを続けます」

「実際には売買しないから、入金されたお金は、そのまま彼らの手元に残るという事ですか?」

「その通りです。勿論、表向きには買ったことにして、金利はちゃんと取るんですけどね」

「それは、ひどい商売ですね」

「そうですか? 騙された僕が言うのもなんですが、僕はそれほどひどいとは思いません」

「何故ですか?」

「ニッパチ屋は銘柄を勧めるだけで、どのタイミングで売買するのかは、客の方で決められるからです。自分で裏を取ることもなく、情報に飛びついて株を買う人間は、結局いつか破滅します。その金が悪党の手元に残るか、そうでないかだけの違いです」

「なるほど。でも、売買を自分で決められるなら、勝つ人だってたまには居るんじゃないですか?」

 

 ユキさんはやはり、頭の良い女性だと思った。普通の人間なら、何で僕が「それほどひどくない」という結論に至ったのかを、直ぐには理解できない。


「そこに気づいてもらえて嬉しいです。当時の僕がまさにそうでした。ですが、いくら勝ったところで、彼らは絶対に返金しません。『担当者が辞めてしまった』とか、『大物本尊が玉仕込みしてる株があるから、今のうちに絶対買った方が良い』とか言ってね」

「結局のところ、相当に負けが込むまでは、絶対に返金はしないという事ですよね?」

「その通りです。ですがこれも、結局はそんな業者を使う方が悪いと思います」

「何故ですか?」

「計算してみてください。5倍のレバレッジで、借金して株を買う奴なんて、その時点で頭がおかしいですよ。ストップ安のパーセンテージは価格帯よって違いますが、最低でも14%です。低位株だと30%以上の事もザラにあります。一回でも喰らったら、全財産が飛ぶ計算です」

「それはそうですね」

「仕手株でも掴んで、二連続でストップ安になれば、実際には買ってない株で借金をこさえて、ヤクザに追い込みをかけられることになります。呑まれるだけで済んだ人間はまだマシです」

「……」

「元々、入金された金は呑んでるんだから、回収できなくてもニッパチ屋は損をしません。もし回収してきたら、半分ヤクザに渡したって大儲けですよ。そういう阿漕あこぎな商売が昔は普通にあったんです」

「何と言って良いのか分かりませんが、想像以上にひどい業界のようですね」

「はい。まだネットが普及してなかった時代とはいえ、恐ろしい話です」


 今となっては笑い話だが、ニッパチ屋の実態を知った当時の僕は、顔面蒼白だったのだ。


「たかが百万とはいえ、当時の僕にとっては大金です。まったく遊ばずに八ヶ月も塾講師を続けて、ようやく溜めた金でしたからね。勉強代として勝ち分は諦めるとしても、元本だけはどうしても回収したかった」

「何故、警察に相談しなかったんですか?」と、ユキさんが僕に尋ねた。


「勿論、警察にもいきました。だけど、たかだか百万円の話だし、向こうが実際に買ってないことを証明できないから、まるで相手にされませんでした。それで僕は必死になって、色んな人に相談したんです」

「それから、どうなったんですか?」

「僕が困ってる話が周りに回って、僕の大学の先輩である剣乃さんが、相談に乗ってくれることになった訳です」

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