第2話 似ている君と、重なるあなた


 大学に入学してすぐはとりあえず何処かのサークルに入りたいと思っていたけれど、2年の秋にもなるとそんな気持ちは知らないうちに霧散していた。

 多分、不安だったんだと思う。知らない土地、知らない人達に囲まれた環境のなかで、自分の居場所と言えるものが欲しかったからなんだと。サークルに入らないと死んじゃう病に罹っていたのかもしれない。

 けれど、居場所なんてものは気持ちの問題なんじゃないかと最近は思う。わたしなんかはこうして今みたいな、空きコマに空き講義室の机に体を寄せ、隣に話し相手が居てくれる。そんな場所があるだけで十分だ。これ以上は望まない。


「教育実習ってさ、来年からだっけ?」

「再来年。春か秋で選べるけど、だいたいは春に行くらしいよ。秋は卒論もあるし」

「再来年の春かぁ……それで、その次の年にはもうわたし達、先生になってるでしょ? 」

「なれたらね」


 言うねぇ……と返しながらも、その言葉には棘も何もないことを知っていた。

 実際、わたしの所属する教育文化学部の全員が全員、先生になれるということはない。当たり前だけど。

 夕はわたしと違ってしっかりと現実を見て、事実を突きつけてくれる。その切れ味の良さに傷つくこともあるけれど、それでもわたしは彼女のあの性格が好きだ。夢ばかり見ている私と正反対で、だからこそ惹かれる。隣の芝だから青く見えているだけかもしれないけど。

 夢が夢のままで終わるのなら、それはどんなものでも等しく悪夢だ。

 ふと、この間見た映画のセリフを思い出した。彼女はまさにこの言葉を地で行くような人だ。

 けれど今日はなんだか、もう少し夢を見ていたい気分だった。


「そ、そういえばさ」


 何か思い出したように両手を合わせるが、実際何も思い出していない。きっかけが欲しかったのだ。今日は、厳しい現実から離れて夕とお話がしたい。


「どうして夕は先生になりたいの? 」


 口から出たのは、うちの学部の人なら自己紹介の次には必ずと言っていいほどする質問だった。けれど、これは夕について知らないたくさんのことの内のひとつ。彼女と知り合って数か月、勉強熱心な子であることは見ればわかるけど、特別教師になりたいということは聞いたこともないし、そんな様子も見たことがない。


「秘密。けど、照美が教えてくれたらヒントくらいはあげるかも」

「秘密にするようなものなの? 」

「言うねぇ……もしかして、カウンターのつもり? 」


 胸に痛み受けたような素振りを見せた彼女は、苦笑とまではいかない具合にその整った顔を綻ばせていた。わたしの方も別にカウンターのつもりでもなんでもなく、単に疑問に思ったから出てしまった言葉だった。

 お互い、ただ聞かれる機会がなかったから言わないだけだと思っていたから。無理に聞くことはないとも思ったが、本当に嫌ならあんな風に言わないと言い聞かせたのか、もしくはわたしの中にあった好奇心が抑えきれなかったのか、理由はどうあれわたしはわたしがここに来た理由を話し始めていた。


「理由なんて単純だよ。学校が好きだったから。本当にそれだけ」


 他の子みたいに大きな夢を持っているわけでも、大志を抱いているわけでもない。勉強の楽しさを知ってほしいとか、生徒に夢を与えたいとか、そんなことは考えたこともなかった。


「そこでは友達もできたし新しい発見もできた。毎日が新鮮で、帰ってからも早く明日にならないかなぁって思ってたの。そんな学校が好きだし、好きになってもらいたい。そんな子供がそのまま大きくなったら、こうなった」


 幻滅されちゃったかな。話した後になってそんな不安が頭をよぎる。静かな講義室にわたしの心音だけが鳴り響いてるみたいで、組んでいた腕は自然と身体を強く押さえ込んでいた。


「なんだか、照美っぽいよね」

「わたしっぽいってそれ、褒めてるの?」


 どちらとも取れる曖昧な返事に返した声は、少し震えていたかもしれない。


「褒めてるわけではないけど、貶してるわけでもないよ。けどね、芽生えたその気持ちを大切に持ち続けて育むことのできる照美が、私は好き。照美は今のままで、そのままの照美で居てね」


 髪から皮膚に、そして身体全体へと伝わる彼女の熱に、しばらく身を委ねることしかできなかった。

次の講義のチャイムが鳴るまでの時間、わたし達はひとことも交わすことなく過ごした。言葉を交わさずとも、お互いを理解できるような気がしたから。

結局彼女の秘密を聞くことはなかったけど、また次に会う口実ができたと考えると、これでよかったのかもしれない。




 大学生になってからはひとりで過ごす時間が増えた。実際に測っていたわけではないけれど、大学生活2年間で誰かと撮った写真の枚数が高校生活1年間のそれよりも少ない事実を突きつけられて、実感させられた。

 それはおよそ部活動と同じ立ち位置にいるであろうサークルに入らなかったからでも、クラスメイトと呼ばれるような隣人がいないからでもある。親睦を深めるようなイベントがあるわけでもないし、文化祭はサークル単位で出し物をやるから、ノンサーの私には何も関係がない。

 けれどひとりの時間も苦痛ではない。誰かのために自分の時間を必要以上に割くこともなければ、人間関係に疲れるということもないから。

 むしろ人間、適度に放っておかれるくらいが生きるにはちょうど良いんじゃないかなんて考えが浮かんでくるくらい、私の中では大事な時間になりつつある。

 何もしなくても友達ができるようなことはないし、交友の機会が提供されるなんていうこともないけれど、かえってそれが私に気楽さと心地よさを教えてくれたのかもしれない。

 けど、けれど。


「だったら私は、どうして照美と友達になったんだろう」


 いや、今は一応恋人…… だ。期間限定の。誰も居ないのに口に出てしまったのは答えが欲しかったからかもしれない。友達として受け入れた自分のことだというのに、自分のことは自分が一番知っているはずなのに、答えを出せないでいる。雨音も答えを急かすだけで、なにも教えてくれない。

 知り合ったのは蝉が鳴き始めたころだったということは覚えているけれど、きっかけすらも思い出せない。

 運命的な出会いをしたわけでも、忘れられないような出会い方をしたわけでもない。ひとつたしかに言えることは、きっかけは私じゃなく彼女にあったということだけ。

 ――そんな学校が好きだし、好きだと思ってもらいたい。

 ふと、空き講義室で聞いた彼女の声を思い出す。

 あの言葉を聞いた時、彼女が彼女である理由を知れた気がした。

 もしかして、私に何かを好きになってもらいたくて、話しかけたとか?


「いやいや、さすがにそれは自惚れすぎ」


 自戒という意味でも今度は自分の意志で声に出してみた。雨に濡れたら目も覚めるだろうか、なんて冗談を考えながら携帯を置いてキッチンに立つ。

 ケトルにたっぷりの水を注いでスイッチを入れると、湧き上がるまでにミルクの用意をした。沸いたお湯に映った私の顔はやっぱり眠そうだ。

 好きだけど通とまではいかないので、1袋300円ちょっとのものをスプーンで1杯、カップに入れる。安上がりな女だ、と自分でも思ってしまった。お湯に注ぐと肥沃な土と燦燦に降り注ぐ陽光の香りが鼻腔をくすぐる。外は雨だというのにこの部屋の中だけは快晴だった。

 ひとくち、またひとくちとそれが私の中に注がれていく度に、頭の中でかかっていた霧のようなものが払われていく。クリアになった思考で立ち返るとひとつ、引っかかることがあった。

 友達という関係は普通、どちらかだけでなく双方が歩み寄らないと成立しない。歩幅の大きさは違えど、少しずつ歩み寄ることが大事なのだ。

 それならば、ひとりが好きだと言っていた私はどうして照美に歩み寄ったのだろう。知り合ったからと言って必ず友達にならなければいけないということはない。それでも私が歩み寄ったのは


「あなたに重ねていたのかもしれないね、先生」


 携帯のアルバムにはかつての私達と今の私達の姿がある。先生と一緒の私と、照美と一緒の私。私は少し背が伸びたくらいでさほど変わらないけど隣は背丈も髪の長さも色も、何もかが違う。当たり前のことだけど。

 けれど、細かく見てみると似ているところはある。笑顔の癖とかピースの角度とか、ちょっと子供っぽいところとか……

 カップから立ち込める湯気が、誰も居ないはずの部屋にかつての面影を薄く映しているように見えた。

 頭の中で今と過去との間を行き来していた私を起こしてくれたのは、無機質な通知音。

 ――照美”雨の日の自然公園って行ってみたくない? 日本庭園みたいな感じで、雨降ってる時の景色がとっても綺麗なんだって! ”

 あの子はほんと、どんな時でも元気だ。カップに残ったそれを一気に飲み干してまたキッチンに立つ。ケトルに残ったお湯は水筒に入れて、何本かスティック状のものを鞄に詰め込んだ。

 雨の日は嫌いだけど、誰かと一緒にいる雨の日は好きになれるかもしれない。

 ワイシャツに合いそうなセーターを適当に見繕っていつもの鞄と大きめの傘だけ用意して、すぐに部屋を出た。

 ジメジメとした湿気も、倦怠感も、部屋に置いてきた。





 母曰く、わたしはとにかく雨の音が好きだったらしい。傘に当たる音とか長靴で水たまりを踏んだ時音とか。ぽつぽつ、ちゃぷちゃぷ、ぴちゃぴちゃ。

 あの頃はただ純粋に、いろんな音がいろんな方向から聞こえてくるのが楽しくておもしろかったからだと思う。今も雨の音は好きだけども昔とは理由が違う。

 ドーナツの穴みたいに、ビルに囲まれた都会の真ん中にポツンと建てられた自然公園は驚くほど静かで、驚くほどに綺麗だった。無造作に植えられたように見える木々も多すぎず少なすぎず、自然すぎず不自然過ぎない絶妙なバランスをとっている。

 街道を歩くたびに水の跳ねる音が響く。わたしが踏み出してすぐに、それに少し遅れてもうひとつ。ふたつの音、ふたり分の音。隣を見なくても、音で隣人を感じることができる。同じように聞こえる音でもこれは、安心できる音。


「なんだか地元に戻ってきたみたい」


 東北の片田舎出身のわたしはなにもない地元が嫌いだったけど、同時になにもないところが好きだったりする。


「少しわかるかも。けど地元の森はぼさぼさの髪の毛みたいな感じで、ここはスタイリストさんにセットしてもらった髪みたいな感じ、かな?」

「なにその例え~…… とか言えなくて、なんとなく理解できちゃうのが田舎者の性というか……」


 普段からどういうことを考えていれば、こんなわかる人にはわかる的確な例えが急に出てくるんだろう。


「あはは……」


 夕の顔は傘で見えなかったけど、苦い笑みを浮かべているのが声だけでなんとなくわかった。


「東屋があるね、ちょっと休憩していこうか」


 指差す方にはわたしの地元にあった東屋とはまた違う東屋があった。いや、そうは言ってもちゃんと手入れされてるかされてないかくらいの違いしかないけど。

 傘越しに伝わっていた雨を感じなくなるとそれをふたり入り口に立て掛けて、ひとり分間を空けて腰掛けた。

 軒先から零れる雨だれはその周囲を額縁のように囲っていて、閉じ込められたわたし達はまるで絵画の一部みたい。いや、その一瞬だけを切り取った写真のようにも見えるかもしれない。

 雨音や鳥のさえずりが聞こえる外と比べて、閉じ込められたわたし達の間にはひたすらに無音の空間が広がっていた。なにか話すわけでもなく、なにかするわけでもない。放課後の教室のようなぼんやりとした居心地の良さがある。

 願わくはこんな時間が、こんな関係がずっと続けばいいとわたしたちのルールに反して、そう思ってしまった。


「……あれからさ、いい人は見つかった? 」


 淹れてくれた飲み物で喉を潤してからしばらくすると、そう問いかけてきた。

 どう答えたものか。実はこの間の一件から男の人そのものに苦手意識を持った、なんてことも言えない。そんなこと全然考えてなかった、なんて言ったら怒るだろうか。

 時々忘れてしまうけどこれはあくまで恋人のフリであって、恋人じゃない。言い方は悪いけど、見つけるまでの代わりのようなもの。

 大切だと思えて、大切だと思ってくれている人。心当たりはあるけれどなんとなく自信がなくて、それでも受け入れてもらいたいとは、思ってる。


「ひとりだけ今、いるかも」

「そっか。勝算はありそう? 」


 声色から感じ取れた安堵がわたしを不安にさせる。やっとこの関係を終えられるとか、やっとひとりになれるとか。低気圧のせいかマイナスな言葉ばかりが浮かんでくる。


「どうだろ、わかんない。けど、受け入れてほしいとは…… 思ってる」

「良い報告、期待してる」


 他人事みたいに聞いてる夕を本気にさせたかったのか、心を追い越して身体が先に動いていた。


「じゃあ今、聞いてみる? 」

「照美……? 」


 わたしと彼女との間のひとり分の距離を埋めたくて、気づいたら指が動いていた。伸ばせば届きそうなところにいる彼女に向けて、少しずつ、少しずつ。


「照美」


 あと数センチの距離で、その指は届かなかった。まだ指は伸ばせたけど、彼女に止められたわけではないけど、伸ばせられなかった。


「な、何? 」


 と聞いたけれど、続きは聞きたくなかった。


「私達のルールその2。この関係はあくまでも形だけ。必要以上に踏み込んではいけない」


 忘れたわけじゃないよね? と言いたそうに見つめる彼女の瞳は暗い湖の底よりも鈍く、光という光を閉じ込めてしまうくらいの黒。飲み込まれてしまいそうなその黒にただ今はじっとしていることしかできなかった。


「いっつも手繋いでたよね」

「状況が違うじゃん……」


 強まった雨音の中でも苛立ち混じりの声は嫌なくらい聞こえる。

 そんなことはわかってるけど、だからこそその手をとってほしかった。


「私たちのルールその4。必ず幸せになること。今の私は君を、照美を幸せにはできない」

「そんなの。もっと一緒に居ないとわからないじゃん」

「知る必要なんてないんだよ。わからないままでいい」


 彼女の言葉は秋雨よりも冷たく、秋風よりも鋭く突き刺さった。


「ごめん、今日はもう帰るね」


 わたしの返事なんて待たないで、彼女は背を向けてひとり額縁の外へと飛び出していった。

 アレだけ近くに居たのに、あと数センチの距離を埋めることさえできない。彼女を世界で一番近いところから見ていたはずなのに、今は世界で一番遠くにいるようにも思える。

 止まない雨はわたしの頭を冷やすには十分すぎるほど冷たく熱く、頬を伝った。

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