似ている君は今日も笑む
テルミ
第1話 わたしたちは、そんなカンケイ
私達のルールその1。この関係のことは誰にも話してはいけない。
私達のルールその2。この関係はあくまでも形だけ。必要以上に踏み込んではいけない。
私達のルールその3。私達の関係は期間限定で、それはあなたが本当に大切だと思える人と出会うまで。
私達のルールその4。必ず幸せになること。
――人生は自転車レースのようなものだ。 待ち時間は長く、たちまち終わる。 チャンスが来たら、思い切って飛び込まねば
映画「アメリ」で、画家の老人が主人公に向けて放った言葉は上映後、ホールを出てからもわたしの胸の内に強く残り続けた。
わたしは映画が好きだ。2時間と少し分の満足感だけでなく、自分の人生をほんの少し豊かにする言葉をくれるから。
忘れないようその言葉を書き記してから外に出ると、風は薄ら寒く、日も既に落ちていた。けれどそこかしこで明かりが灯る街のせいなのか、昼よりも眩しくて、星のひとつも見つけられない。
そもそも、見上げても目に映るのはビル、ビル、そしてビル。
来たばかりのときは新鮮だったけど、1年も似たようなものを見てると流石に飽きがくる。かと言ってビルも何もない田舎に帰りたいとも思わないけど。
「わたしも都会に染まっちゃったなぁ」
誰にも向けたわけでもなく発せられた言葉は風に乗り、街の喧騒に飲み込まれるようにして消えていった。
鞄から取り出したスマホに目を落とすと時刻は20時と少しを指し、その下には最近になってよく見る名前とともに添えられたメッセージがぶら下がっていた。
――
映画を見たらいつもすぐに帰っていたけど、今日はもう少しこのまま。
”待ってるね”とひとことだけ返信し、入り口近くにはられたポスター横、大スターと肩を並べるようにして彼女を待つとことにした。
「……忘れるとこだった」
スマホを鞄にしまうのと同じくして取り出したのは7号のリング。純銀のソレ自体は安物で何も意味をもたない小さな指輪。けれどひとたび薬指にはめてみるとソレはなにか特別な、値段以上の価値があるように思えてしまう。
けれどソレはわたしを無理やり大人に仕立て上げようとしているようで、けれどそれだけでわたし自身に染みつく幼さは変えられず、どこかちぐはぐで不格好に見えてしまう。自分でも気付いているのだから多分、ほかの人からはもっと変に見えているんだろう。
それでもつけているのは
「魔除けため……だもんね」
「まよ……? ねぇそんなことよりもさ、お姉さん今、ひとり?」
「えっ?」
誰に向けたわけでもない言葉に返答があった。
喧騒という枠から抜け出して、明らかに私に向けて掛けられた声が聞こえた。聞こえてしまった。
顔を上げると案の定、見知らぬ人だった。灰色のワイシャツにブランド物のネックレス、色を合わせたピアスと小綺麗には見えるけど、その発言がすべてを台無しにいていることに気づいていなさそう。この人もどうせわたしの顔しか見てない。突然話しかけてくる男の人なんて、だいたいそんなもの。
「……ただし、効果は個人差あり」
困った顔をして見せても、咳き込むふりをして左手を見せても相手は引いてくれなかった。それどころか、こちらが何もしないとわかると一秒毎に彼はどんどん寄ってくる。物理的に迫られても、心の距離は遠ざかるばかりなのに。困ったな。
かの映画の中ではヒロインを救っていた大スターは隣のわたしに手を差し伸べてくれないし、魔除けの指輪もいまやただの7号リングでしかなかった。
「なんだか悩んでるみたいだけど、俺に話してみない? きっとスッキリするからさ」
「悩みの種にそんなこと言われても……」
それに、スッキリするのはあなただけじゃない。言いたいことは山ほどあるけど、こういうタイプに対話の隙は与えてはいけない。隙だらけのわたしだけど、これだけは積みたくもない経験を無駄に積まされたおかげで身に付いた考えだ。
「ご、ごめんなさい、あのですね、そういうのは……」
「すみません、生憎彼女には先約があるので」
喧騒のなかからもうひとつこちらに向けられた音を聞いた。さっきのとは違って聞き覚えのある、低くて落ち着きのある透き通った声。彼女の輪郭を縁取っているそれのおかげで、顔を上げずともそこに誰が立っているのかわかった。
卯月さんだ。
答え合わせをするように顔を上げると、やはり彼女だった。月夜を閉じ込めたように鈍く光る瞳は心なしかいつもより鋭い。目を合わせることも逸らすことも許されない雰囲気に、わたしも見知らぬ彼も蛇に睨まれた蛙でいることしかできない。
「薬指のそれの意味が分からないわけ、ないですよね」
左手はわたしの意思なくして目の前に動き出したように見えた。卯月さんがわたしの手を取っていたことは伝わる微熱が教えてくれた。
「……んだよ、彼氏持ちかよ」
それだけ言うと、バツの悪そうな表情を浮かべながら見知らぬ彼は街行く人の波に呑まれ姿を消した。え、その指輪ってそれ以上の意味持ってるんじゃないの?
「照美《てるみ》さん、大丈夫? 変なことされてない?」
「えっと……う、うん。おかげさまで。ありがとう」
「おかげさまって言われても、ちょっと声かけただけなんだけどね。でもよかった」
冬の夜空みたいに澄んだ笑顔を浮かべる卯月さん。「さ、行こうか」と言い踏み出したところで繋いでいた手のことを思い出したのか、笑みに少しの照れを混ぜながら口を開く。
「ごめんごめん、ずっと繋いだままだったね」
指から熱がすり抜ける感覚に、思わず強く手を握り締めてしまった。
「ま、また変な人に話しかけられても嫌だから、しばらくこのままじゃダメ、かな」
きょとんとしながら羽根のように長いまつ毛を2回、3回と揺らす彼女。少し困ったような表情を浮かべながらも、「お店につくまでなら、いいよ」と言ってくれた。
「ねえ、今日はどんな映画を見たの?」
「アメリ。って知ってる?」
「名前だけ」
街行く人波に向けて歩き出す。ビル風で不規則に揺れる彼女の短い髪からは、かすかに檸檬の香りがした。
そろそろわたしも欲しい、彼氏とか。
照美さんがそんなことを言い出したのは、彼女の前へ5杯目のカクテルが置かれたころだった。
「いや、とかってなにとかって」
「大切だと思えて、大切だと思ってくれる人が欲しいの。べつにそれが男の人じゃなくてもいいってこと。だって顔しか見ないんだもん、あの人たち」
「恋に恋してるっていうかなんというか…… というか照美さんさ、それ何杯目?」
カウンターに置かれた杯を見つめる彼女。
「まだ1杯目」
「5杯目だよ。どうしたの今日は、いつもはお酒弱いからちょこっとでとか言ってるのに」
私はストレスで食が細くなるタイプだけど、彼女はストレスで食欲が増進するらしい。彼女の口からそう聞いたわけではない。見ていればすぐわかる。よくそんな小さな体に詰め込めるなと、口には出さなかったが胸の内で小さく呟いた。
そんなに飲んだっけ…… と言いながら指折り数える照美さん。ちょうど薬指に触れたところでなぜか動きを止めていた。
「ねえ」に「はい」と返す。「この指輪、一度も役に立ったことない気がするんだけど、これって指輪のせいなの? それとも色気のないわたしのせいなの? 」
多分後者だと思う。と言うとまた面倒なことになりそうだったので「指輪がいけないんじゃないかな。男の人ってそういうとこ見なさそう」と、伝えた。
「じゃあわたし、今日から指輪外す。卯月さん、わたしに良い人ができるその時まで預かってて」
強引に私の薬指にはめようとしてくる照美さんを軽くあしらい、化粧ポーチの中にしまった。まあ、いいか。
たしかに女目から見ても彼女は可愛く見えるし、外見しか見ない人に捕まることが多いのは、仕方ないって言ってしまえば仕方ないとは思うけど……
「……まだ卯月さんが彼氏だったらわたしも楽なのに」
私を巻き込むな。外見は可愛いけど、内面は可愛くない。飲みっぷりも可愛くない。
それにしても本当に今日はよく飲む……それだけ鬱憤がたまっていたんだろうか。
「アイリさん、あっちの子にお水お願いします」通りかかったマスター、アイリさんに声をかける。
「今日はあの子、ペース早いんだね。夕さんの方は大丈夫?」
「セーブしてるので。多分送っていかなきゃいけないだろうし」
「気が利くのね」飲み終えたグラスと入れ替えで水が差し出される。
「ごゆっくり」と言うと、アイリさんはまたカウンターでお酒を混ぜはじめた。
なんだかお隣が静かだったので視線を向けてみると、水をマドラーでぐるぐるかき混ぜながらこちらをじっと見ていた。
「え、えと……」
私、何かした?
「そういうとこだよ。内面もそう。どうしてそんなに優しくしてくれるの」
「心配だからだよ、照美さんが」
実際、照美さんは他人に流されやすくてタイプだ、それに加えて、いろんな人が彼女に寄ってくる。私もそのうちのひとりなのかもしれないけど。危なっかしい子だから、だから私が、そうか。
――私が照美さんの恋人のフリをすればいいのか。
私にとってはたいへん不名誉なことだったけれどつい先刻、彼女の彼氏だと勘違いされたことを思い出す。指輪なんて小さいものをつけていたって男の人は気づきもしない。それだったら、彼氏のように見えてしまう私が隣にいれば、それだけでだいぶ面倒ごとは減るんじゃないだろうか。
なんて、何考えてるんだろ。私。
「お互い話したいことも話せただろうし、そろそろ帰…… 照美さん?」
照美さんは固まっていた。口は半開きで、頬は徐々に徐々に赤みを増していくようで、火照る熱がゆっくりとグラスの氷を融かしてした。
「人生はね、自転車レースなの」
「はい?」
ついにおかしくなってしまったか。
「 待ち時間は長く、たちまち終わる。 チャンスが来たら、思い切って飛び込まなきゃ。掴まなきゃいけないの。わたしも卯月さんと恋人のフリ、したい」
「何言って……」
もしかして、知らないうちに思考が口に……? 取り返しのつかないことをしてしまったと、今になって嫌な汗が全身に流れ出してきた。
考えろ、考えろ私。
「た、ただし、私たちのこの関係にルールを設けます」
「ルール? 」
そう、というと
「私達のルールその1。この関係のことは誰にも話してはいけない。特に同じ学科の人には、絶対ダメ」
取り返しのつかない失敗の一番厄介なところは、取り返しのつかないところだ。だからこれからすべきことは、どうすれば最小限の損害で抑えることができるか。
「私達のルールその2。この関係はあくまでも形だけ。必要以上に踏み込んではいけない。あくまで、恋人のフリだからね」
「私達のルールその3。私達の関係は期間限定で、それはあなたが本当に大切だと思える人と出会うまで」
この関係は決してダラダラと続けていいようなものではない。安心はマンネリとなり、ぬるま湯は泥沼へと変わっていく。
「私達のルールその4。必ず幸せになること。漠然としてるけど、これが一番大事。わかった?」
「恋人なら名前で呼び合いたい」
「はいはい。いいよ」
「うん、じゃあそれでいい。それがいい」
本当に理解してくれたかどうかは疑問だけど、とりあえず予防線は張れた…… 気がする。大なり小なり私の生活にも変化は起こるだろうけど、平穏が脅かされるまでにはならないだろう。
「帰ろっか。今日はうちに泊まっていきなよ」
ふたり分の代金を置き、「また来ます」と告げると私は大きな荷物を抱えて店を出た。
足取りはふらつきながらも家路を行く。自分の発言を刻むように一歩一歩踏みしめていると、酔っていたのは照美さんだけではなかったと、その足音に思い知らされた。
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