バッドトリップ
水汽 淋
第1話 Francfranc
カオスの理論に満ちた外世界から帰ってくると、机の上にはFrancfrancの観葉植物と税金の書類とボールペンと冷めたコーヒーと食べ残されたインスタントグラタンと隙間に葡萄ワインをこぼした染みが見えて、ラディオが置かれてあった。
フラストレーションとルサンチマンに汚れたスーツを愛液の匂い立つベッドに投げ捨てて、唯一の神聖な祭壇だったことを思い出したから、仕方なくハンガーに掛けてしまおう。
ラディオの赤色のボタンを押せばノイズとノイズが鬱憤のように押し出してくるので、何も考えずに済む仕様になっている。これは取り扱い説明書のどこにも書いておらず、カスタマーセンターへ連絡しても誰も知らないようなことだ。
「人生の意味とは、というのは、まるで魅力的な題材の様だけど、その実陳腐だよなぁ」
私の鬱憤は煙となって蛍光灯近くを覆い隠す。煙草の煙から故人の顔や感傷に浸るものを思い起こすのはとても難しい。期待できる効果は肺癌へのよりよい近道を知る方法だけだ。これはコールセンターよりも街角の浮浪者の方がより詳しく知っていて、パッケージにも書かれている。喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。喫煙は、あなたが歯周病になる危険性を高めます。
「陳腐だって、一体、なにがだよ」
「俺は常々最近の流行りに疑問を覚えているんだよ。若者のブームはYouTubeとTikTokだ。たった数分で娯楽を供給でき、スナックを買うように感動でき、自ら選択せずともオススメだけで満足できるんだ」
ニトリで買った若草色のドレープカーテンが通すのは、倦怠だの我武者羅だので、外と中の境界がひどくあやふやだ。窓を閉め切って玄関を締め切って生まれたばかりの状態でいるのに、ここはどうしてか子宮たりえない。まだ私を救い上げないでくれ。大声で泣く覚悟は出来てない。臍の緒がこの立ち昇る煙だというのなら、断ち切られないよう切らさないまでさ。
「それのなにが問題なんだい。ラッキーな時代に生まれたもんだね」
「さらに知ってるかい。若者向けのアプリや商品を発売するとき気にすべきなのは、即効性と非選択性ってことだよ。Amazonのようにワンクリックでお手軽に頼んで検索上位を注文しておけば満足できる時代なんだ。それに慣れてしまったから、自分から探して長く続けることになりそうなのは歓迎されないのさ」
「はぁんなるほど、つまり君は、現状に満足してないというわけだな。物語とは重厚に、世界観はしっかりと作り込み、ご都合的な展開は……」
「違う違う! そういったわけじゃない、好きじゃないけど、嫌いなわけでもないさ、ただ……」
午前三時が最も息苦しくないのは誰もが遠慮して過ごすようになるからだ。午前四時まで起きていると世界に申し訳なく感じてきてしまう。部屋の時計は壊れていて、秒針が十とその次の点の間をカタッカタッと行き来している。灰皿の煙草は数週間分の灰が溜まっていた。
「そうやってお手軽に物語を摂取した結果、僕たちは人生の意味を考える暇も余裕もなくなっちゃったんじゃないかと思うだけさ。暇な時間は無くなって、今更そんな題材は誰もが希求しなくなった。身近に小さな満足が転がっていて、それは永遠に供給され続けるんだから!」
臍の緒が消えて栄養が途切れてしまったので、私は外に出る。
※※※※※※※※※
マンションを降りると門に電光パネルが置いてある。
「行き先はコンビニ?」
歩道を歩いていると隣家の壁に張り紙がある。
「この先信号。ここから見えた色が青なら、もう走ったって無駄さ、歩いていきなよ」
信号は青だった。私は歩いて行く。赤になったことで広告が流れてきた。ホログラムで流されるCMは視界を覆い尽くして、さまざまな指向性を伴った動画が流れてくる。迷路を走る鼠。映画のヒーローが迷ったらこれを飲もう! と宣伝する。隣のリーマンの音漏れしたイヤホンからは女の声が聞こえてきて、「キッコーマンの醤油を買ってきて」という言葉になにを買えばいいんだ! と激昂する姿が見える。
青信号になると車側にも動画が表示されて、それは次に渡れるまでカウントダウンしてくれる時計だった。次アクセルを踏むまでの手順が注意書きとして流れていく。
私はコンビニへと辿り着く。
「コンビニのルールその1 店員に従うこと。
コンビニのルールその2 欲しい商品は自分で探すこと。
コンビニのルールその3 発言は許可をもらってからにすること。
コンビニのルールその4 なにをすればいいか分からなくなったときは、ルール1を参照のこと」
この張り紙はこのコンビニの全店舗の自動ドアに貼られてあり、急激に支店を増やしたことでニュースになっていた。創業者が言うには、「決められたルールを守ることが一番の幸せなんです。今の人たちは、自分で考えるよりもなにかのルールに従った方が楽だということを知っているんです」
私は店内を見渡して、欲しいものがレジの後ろに並んでいることを確認する。
レジに立つと、店員がなにか御用ですか、と聞いてくる。
「許可を」
「認めます」
「煙草を」
「オススメは」
と店員が口を開く。
「中国産の濁り煙草です。タール八。ニコチンは零五です」
「ではそれで」
会計は五百二十円。
「私は会計を待つ間なにを考えていれば」
チャリーン。カタカタ。チルチル。
「人生の意味について。それではこちらレシートとお釣りです」
店内の客は誰もが目的のためだけに行動している。
※※※※※※※
ノイズとノイズが流れてくる。ただ車が走っている間は、部屋よりも外界と遮断されたような気分になる。ここは私の神聖な場所。まだ私にとって新鮮な場所。
「はぁーーいどうもこんばんはぁ。マルナカラジオでぇす。ラジオの意味って何か知ってる? いや、語源とかじゃなくてね。そうさ懸命なリスナー諸君。君達の生活にちょっとした彩りを、そんな使い方をするべきだ! 当ラジオは君達がどんな態度で聞くべきか、そして一番のオススメから順に話していくから安心して聞いてくれ。ラディオは時代遅れさね」
山の頂上で車を止める。パーキングをしてサイドブレーキをかけると、車内音声が流れる。「ライトは消しましたか? 窓は閉めましたか? 外へ出るときは……」
ライトを付けて窓を開け放つ。ラジオは消した。スマホの電源も落とした。
今日はなにもないところで煙草を呑もう。朝日を迎えるまで。私の時間は、まだまだある。
バッドトリップ 水汽 淋 @rinnmizuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます