第10話 (4)
(前話の最後を半端に分割して掲載していたため、前話最終行を追記しています。読了済みの方はご確認をお願いいたします。作者より)
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一頻りの涙が出尽くしたころ、力ない声でエルはデットに訊いた。
「姉さんは?」
「まだだ」
ミーサッハは産気づいてから長いときを苦しんでいた。
いまはもう夜も遅く、エルはデットの胸に寄りかかったままだった。エルは元来人懐こい性格ではないし、初めて会う者相手にはある程度警戒するが、デットは初めからエルに好意を示してくれたこともあり、いまは彼に懐いていると言ってもいいくらいにエルはデットを頼りにしていた。
エルから見たデットは、どこか兄を思わせる。外見や仕草はまったく違うが、心の在り方が似ていると思った。
弱い者に対して味方であること。懐深く受け入れた者には、どこまでも親切に、大切にしてくれること。
エルはいま人の温もりを感じていたかった。ありのままのエルを愛してくれた兄シリューズを亡くし、いまエルを愛してくれているミーサッハは予想以上の難産に苦しんでいる。エルがいま感じている不安感は、どんなに宥めようと努めても、一向に去ってはくれない。
さすが国王の居住する屋敷だと思わせる豪華な食事も用意されたが、胸が詰まるような思いのいま喉に通るわけもなく、エルはなにも口にしていなかった。
考えたくもないことを考えてしまう自分をエルは懸命に抑えていた。
「諦める、ということは、もうそこで終わりということだ。解決はしないし、後悔だってする。なにかを終わらせたいなら、ちゃんと見極めろ。それでいいのかと、考えろ。わかったか?ーーー」
そう言った兄の言葉を思い出し、けれど考えなくてはならない可能性があることもわかっていて、自分がどのような態度をすればいいのか、もうわからなくなっていた。
新たに、また涙をこぼしながら、エルはデットに訊いた。
「どうして、魔法では手助けができないの?」
「そうだな。樹精の癒し魔法とは、人間が本来持っている治癒能力以上のものを発揮することはできない。癒し魔法で怪我がなかったことにはできないし、自然に治癒する速度を早めるだけのものだ。大怪我ならば傷の治癒を完全にはできないこともあるし、傷跡だって残る。それを行なうのがどんなに優秀な魔法士であってもな。命を生み出すときに魔法で手助けするというのは、大きな自然の流れや摂理に反するということでもある。過去にやってみた前例はあるのかもしれないが、いまは魔法で出産を手助けしてはいけないと魔法に携わる者なら誰もが知っている。おそらく生まれてくる子供になんらかの悪影響があるのだろう。だから、出産時は魔法ではなにもできない」
出産時の苦しみが長く続くと、母体にも、子供にも、多大なる負担がかかる。最悪両方の命が危ない。
エルは待ち疲れ、泣くことしかできなくなっていた。そんなことしかできないなんてと思う余裕すらない。デットはときおりそんなエルを撫でて慰めてくれていた。
いまこの控えの間にはエルとデットしかいなかった。レイグラントもしばらくはいたのだが、長く職務を遠ざけることはかなわず、ミーサッハのことを気にかけながらも職務に戻っていた。フレンジアはずっとミーサッハの側についていて、若い年齢ながらも彼女ができることをしていた。
外ではいつしか雨が降り出していた。部屋の中はエルとデット二人きりで会話もなく、窓を背にその雨音をエルはずっと耳にしていた。
ふと気づくと、雨音は、強く、激しく、うるさいほどに鳴り始めた。
エルは顔を上げた。
目の前に、黒き精霊の姿が浮かび上がっていた。
自分を見つめてほほ笑むその姿に、予感がした。
エルは勢いよく立ち上がって早くと焦る足を懸命に動かし、扉を開け広い廊下へと出た。
ミーサッハがいる部屋の扉の前で立ち止まり、そこで待った。デットがそっと背後に立つ気配を感じた。
部屋の中から、声が聞こえてくる。
慌ただしくも、安堵に満ちた女たちの声が。
それに紛れて、泣いている赤子の声が、微かに、確かに聞こえた。
扉が開け放たれ、涙をこぼしながら現れたフレンジアが、扉のすぐ前で待っていたエルを見ると目を丸くし、次いで満面の笑みで破顔した。
「おんなのこだ! 女の子が、生まれた!」
フレンジアの喜びの叫びに、エルはあふれそうな感情を抑えて訊いた。
「姉さんは?」
「衰弱しているが、これからなら癒しの魔法もかけられる、大丈夫だ。おいで。新しい家族に、挨拶するがいい」
ここまでついてきてくれたデットは動かなかったが、エルは彼の手を引き、共に部屋へといざなった。
広い部屋の内部では女たちがそれぞれの役割を担っていた。新しく生まれ出でた命を湯浴みしている者のところへフレンジアはエルを案内した。あまり近寄ることは許されなかったが、遠目で見た小さな存在は、確実に命を刻んでいた。
エルの視界はなんだかぼやけ、その姿をしっかりと見ようと瞬いても、どうしても歪んで見えた。
熱い涙が止まらない。
心から嬉しいときには、こんなに熱い涙が出るんだね。
ここにはいない人に心の中で伝え、涙を腕で力強く拭い、エルはフレンジアに笑って訊いた。
「姉さんに、会えるかな」
「訊いてくる」
フレンジアは片足を少し引きずりながら、小走りでミーサッハのいる寝室へ向かった。すぐに寝室からエルのほうへ顔を見せると、満面の笑みで手招いた。
エルは鼓動が速く踊るのを堪えながら、努めてゆっくりと姉のもとへ歩いた。デットはその場に留まった。ここからはエルの家族の空間だった。
寝室に入ると、エルはあまり寝台には近寄らないようにして、遠いところからミーサッハの様子をうかがった。
寝台に横になったままのミーサッハは、肌掛け布団で顔しか見えなかったが憔悴した様子だった。戦士であるミーサッハがそれだけ消耗するほど、人が命を生み出すということは大仕事なのだとエルは実感した。母とは偉大だ。
憔悴しているミーサッハだが、エルはその姿を美しいと思った。自然と出た笑顔で、姉に声をかけた。
「ありがとう。きっと、兄さんはそう言っていると思う」
ミーサッハはまだ粗い息で声も出せない様子だったが、エルにほほ笑んだ。
「体に障るから、もう行くね?」
ミーサッハはうなずき、そっと目を閉じた。
寝台から戻ったエルにデットは声をかけてきた。
「これからが、大変だぞ」
笑って言うデットの顔は、エルをからかっているようだった。
問題は山積みだ。エルもそれはわかっている。兄の子はこれからが大切で、しっかりと育てなくてはならないし、兄の死の真相を追及もしなくてはならない。そして、エル自身の問題もある。
いろいろと思い考えていると、
「あら? ちょっと……」
赤子を産着にくるませ抱き上げていた女の緊張したような声が聞こえ、エルとデットはそちらを振り向いた。
二人は見た。
ほのかに透けている朧げな長いものが、赤子の頭上に浮かんでいた。
赤子よりも大きな“それ”は、まるで水中にいる生物のように、ゆらりゆらりと体を蠢かせている。本当の水中生物と違うのは、長い胴体の背には小さな両翼があり、空を飛ぶ生き物のように羽ばたいていること。
「水の、精霊王……」
デットが唖然としたように、それでも密やかにつぶやいた。
あれが?
エルも呆然とその光景を見ていた。
明らかにただの精霊とは違う姿の“それ”は次第に変えていき、どんどんと小さくなっていった。手のひらに乗るような可愛らしい魚のような姿になり、小さな口で赤子の額に口付けるような仕草をとると、その場で溶けるように透明になっていき姿を消した。
「これは、また、新しい問題だな」
デットの呆然としながらもなにかを楽しむような声に、エルは反応を返せなかった。
「精霊が親から子に受け継がれるという話は、さすがに、聞いたことがないな」
エルは少々頭が混乱しながら、デットの言葉を聞いた。
いま見たのはーーー。
「とりあえず、おまえの身は、五分の二は安泰となったぞ」
やっぱり、そういうことなのか。
これは喜ぶべきことのかな?
エルは困惑気味に曖昧な笑みでデットを見上げた。
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