第9話 (3)

 


 イグニシアスは疲労の極致にあった。

 相手はただの術者ではなかった。相手の繰り出してくる魔法に対し、先ほどから後手に回り、なかなか状況が進展していなかった。傍にいるビルトランでさえ手を出せない状況にあった。

 そこはフォルッツェリオ国首都エクスエリスから郊外にほど近い、自然信仰を基に魔法士を育成するための入門所といった施設で、協会には属していない魔法士が講師となり、精霊への敬いを教え、自然とのふれあいを勧める慈善活動を主にしているところだった。法を犯して国家兵団長の屋敷に侵入するような輩とは無縁そうな場所だが、馬車の中からイグニシアスが精霊の力で行く先を指示しながら、この最終地点へと辿り着いていた。

 馬車内でイグニシアスが感じた、あの強い魔法力を包有する凄まじき闘気は、魔法の修行をある程度までしている者ならば感じ取れたはずだ。それを隠れ蓑に利用し、賊の拠点と思われるこの施設になんなく足を踏み入れることはできた。相手に気づかれることもなかったはずだ。それだけあのときの闘気は、遠くにいたイグニシアスも一瞬身が竦み、誰かに縋りつきたいと考えてしまったほどだ。動揺を抑えられたのは、近くに動じぬビルトランがいたからだ。

 捕縛計画では、ビルトラン配下の兵士たちが先行し施設内に侵入、ビルトランは施設の敷地のやや外から部下の動きを指示し、“女術者ニース”はビルトランの近くに待機していればいいはずだった。国家兵団長直々の捕物であり、部下たちも精鋭揃いで、何人もの捕縛者を生んで成果はまずまずだった。彼らへの尋問は兵舎へ戻ってから行われることになっていた。

 問題が起きたのは、施設の奥、責任者のいるらしき部屋へ入ろうとしたときだった。

 重厚な木製扉を開けようと、一人の兵士が石造りの扉の取手に手をかけようとしたとき、突然その石造りの取手から巨大な火魔法が放たれ、幾人も怪我人が出た。その頃にはビルトランは施設内に入っていて、イグニシアスもその後ろについてきていた。部下の報告を聞いたビルトランが走り出し、イグニシアスはあとを追い、場面に遭遇した。

 魔法は、あらゆる種類が繰り出されていた。放っている者の声は扉向こう、部屋の中からかすかに聞こえてくるが、どんな指示を精霊に語っているのかがわからない。並の魔法士や精霊を一種類だけしか身につけていないカドルでは、高度のあらゆる魔法を繰り出している姿の見えない相手に応戦は厳しい。イグニシアスはこの状況を把握すると、自ら前へと進み、放たれてくる相手の魔法を打ち消す魔法を次々に精霊に伝えていった。

 イグニシアスは、魔法力を最大限に鍛え上げた魔法士に匹敵する能力を持っている。幼い頃からの修行の賜物であり、それがなければ術者にはなれない。だが、そのイグニシアスでさえも、ここまで実戦的な逼迫した状況での魔法の応酬は経験がなかった。

 相手は実践経験豊富な者と思われた。高度な魔法の連続放出に迷いがない。魔法士が一番能力として備えていなければならないのは、魔法力そのものよりも、精神力。その次が制御力になる。相手はそれが特に優れていて、後手に回っているイグニシアスは心内で何度も舌打ちしていた。

 相手の繰り出してくる魔法の効力を最小限に留めるよう精霊に命じ、己の出す魔法で消滅させる。イグニシアスはずっとこれを繰り返していた。当然精霊への指示は言葉であり、休みなく喋りっぱなしだ。魔法を出すために息を吸う暇が惜しいし、喋りっぱなしで呼吸が苦しくなってくるし、息が荒くなれば体温が上がり、額から汗が滴り落ちてくるのを拭う暇もない。

 第三者が簡単に割り込める状況ではなく、近くにいるのに手を出せないことにビルトランが苛立ち始めているのを、イグニシアスは魔法を繰り出す意識とは別に感じていた。

 このままじゃ、ちょいとまずいな。

 そう思いながら、気にしていたのは、エルのことだった。

 先ほど感じた闘気は、おそらくレイグラントと、もう一人のものだ。あちらがどのような状態であるのかわからないが、とにかくイグニシアスは自分のことで手一杯だ。あちらのことはデットに任せるしかない。

 また魔法を一つ打ち消し、イグニシアスは一つ大きく息を吸った。もはや女性の声音を作ることはしていなかった。

 それにしても、しつこい。

 この部屋の扉の石の取手には、あらかじめ魔法媒介の術がかけられていたのだろう。魔法を媒介する素材として、鉱物や鋼が適している。それでもその効力は魔法を放つ者の力の及ぶ範囲、大体は物理的な武器が届く距離に等しいが、相手はこれまでじつに効果的に攻撃を行なっていた。

 人の保有する魔法力には限度はある。ただし個人の保有量を知ることは難しい。数値として目に見えるものではないし、精神力、集中力、制御力次第で、精霊と自分の力を無駄なく発揮することができるからだ。

 埒があかんと、イグニシアスは腹を括った。

 精霊と言葉を交わしながらビルトランがいるほうの片手を横へ上げ、彼の視線から見えるように一度手を振った。それからその片手の指を使い、いろいろな形を作り出していく。苛立っていたビルトランの気配が落ち着き、彼の闘気が漲っていくのを感じ取る。

 イグニシアスが指を三本立て、二本、一本へと折っていき、全ての指をたたんだ途端。

 ビルトランが己の抜き身の大剣を地の魔法の放出と共に固い石の床へと突き立てた。

 建物が剣を突き立てたその場所から地震のときのように大きく揺れ動き、建物自体が鳴らす轟音や物が落ちる音が響くなか、自身の体も揺れ落ちながら手を床についたイグニシアスは、相手の繰り出す魔法が止まったこの隙に、揺るがぬビルトランが大剣を木製扉に向けて振り下ろした一撃で扉を割り破り、そこから部下たちが部屋に入っていくのを見ていた。勢い付いて床についた手は痛んだが、扉の石の取手に媒体としての力を封じる術をかける。

 部屋の中では兵士たちが初老の男を捕縛しようとしていた。男は手に持っていた短剣で己の喉を突こうとしたが、イグニシアスは鋭く声を発して短剣の刃を粗く砕き、ビルトランが最高の速度で走り寄って男の腹部に拳を入れ意識を失わせた。

 屋敷の揺れは収まっていた。部下に男の身柄を任せ、ビルトランはイグニシアスのほうに向かってきていた。

 ビルトランから声がかかる前に、イグニシアスはニヤリと笑う。

「上出来」

 ひとことそう言うと、イグニシアスは遠くなりかけていた意識をそのまま逆らわずに手放した。ビルトランが両腕で受け止めてくれるのを感じながら。



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