第3話 (1)
滞在する宿に戻ったデットは、ミーサッハに提案されたことを考えていた。
エルを供とし、旅に出ることはべつに構わない。デットも彼のことは気がかりであるし、外見は育っていても、まだ子供である身で復讐を糧に生きているエルは不憫だ。まだ出逢って数日しか経っていないが、彼になることならばなにかしてやりたいとは思う。
見ず知らずの子供に手を貸してやりたくなった理由を考えてみたが、思い浮かんだのは、エルの真っ直ぐな眼差しだった。
特異な状況に置かれているにもかかわらず、エルの眼は、澄んで真っ直ぐだ。まだ汚れのない瞳。苦痛の色は見えるが、復讐に凝り固まった澱んだものではない。しかしあのままでは、彼の心は壊れていくだろう。
救ってやるには、いまの環境を変えてやることも一つの手ではあった。ミーサッハも同じ考えであのような頼みごとをしてきたのだろう。
問題があるとするなら、“炎獄”の件だ。デットには、エルがかのカドルを見つけることができないだろうとわかっている。それでも、デットはエルと旅に出る未来を疑いはしなかった。エルがどう成長していくのか、見届けてみたくなったのだ。
デットがエルと次に会ったのは、彼を家に送り届けた二日後のことだ。
デットはいつものように“穴熊”に夕食をとりに来ていた。エルと初めて言葉を交わしたあの日、「この町にいる間は必ず顔を出せ」と店主に言われたせいもある。店主にはおおいに気に入られたようだ。店主とはその後特別言葉を交わすことはなかったが、あいかわらず無表情ながらしっかりと注文を受けてくれる。食事はうまいし、デットも言うことなく居心地よく過ごしていた。
エルはデットが食事を終え酒杯に手を伸ばしたところに現れた。
いまではこの時間のデットの定位置となった長卓の左端の席、その隣に、エルは黙って腰をかけた。視線はデットに向けられておらず、正面をややうつむき加減で見ていた。エルに気づいた店主が無言で水の入った杯を少年の前に置く。
デットは黙って酒杯を傾け、エルの言葉を待った。
あれからしっかりと家で療養したのか、横目で見やったエルの顔色はよかったが、その瞳の精彩は欠いていた。
デットが二杯目を飲み干したころ、エルはようやく口を開いた。まだたっぷりと水の入った杯を両手で包み込むようにし、視線は前にうつむけたまま、抑揚のない声でぽつりと言った。
「どうしたらいい?」
デットに判断してもらいたいがためではない。自分の意思を自身で確認するようなものだ。
ともかくデットは言葉を返した。
「おまえはどうしたい?」
意地が悪いと思ったが、エル自身に覚悟がなければ共に行くことはできない。
エルはまたぽつりと言った。
「わからない」
エルの迷いを把握しているが、デットはあえて告げた。
「行くか、行かないか。答えは一つ。なにを迷うことがある? おまえは兄の敵討ちをしたいんだよな? だったら、答えは決まっているはずだ」
エルはまだ答えられない。
互いに前を向いたままの二人の後ろで、男たちの語り笑い合う声が響き渡る。
時間をかけて三杯目を飲んだデットは、前を向いたまま、ゆっくりとした静かな声でエルに話しかけた。
「おまえが兄の仇を討ちたいのは、おまえがそうしたいからだろう? おまえの兄が頼んだわけではないし、姉が勧めているわけでもない。姉と、兄の子と共に暮らしていくならば、それが兄のためで、姉のため、そうだろう? 彼らはおまえが復讐をすることなど望んでいない。どちらの人生を取るもおまえの自由だが、その先はいったいどうなっていく? しっかり考えて答えを出すんだな。まあ、いまのおまえだったら、どちらを取っても後悔するだろうけどな」
エルはゆっくりと顔を動かし、デットの横顔を見つめた。その瞳は、ただただ真っ直ぐだ。
「“炎獄”を見つけ出して彼の師事を受けたいというのは本心か? この世にいるのかもわからない人間を探すのに、どれくらいの年月が必要になるのか、俺には想像もつかん。それまでなにもしないつもりか? “炎獄”だけが優れたカドルじゃない。いま俺たちの後ろに名のあるカドルがいるかもしれないぞ? なぜ、他の可能性に目を向けない。兄の子が誕生し、成長を見守る、それもおまえの選ぶ道の一つだろう。だが、ここでただ待ち続けても彼が現れないことは、本当はおまえもわかっているんだろう?」
デットは言葉を切り、ようやくエルのほうへ顔を向けた。
瞳を合わせると、はっきりとした口調でエルに訊ねた。
「おまえは、なにを望んでいる?」
エルはデットの瞳を見つめたまま沈黙し続けていたが、ふいにその瞳から透明な雫が転がり落ちた。
「この苦しさから、抜け出したい」
声はかすかなものだった。
デットも穏やかな目でエルを見つめ返した。
「なぜ、苦しい?」
「もう、この世に、兄が、いない。死んで、しまった」
エルのまだ幼さが残る頬を濡らす雫はこぼれ続ける。
「なぜ死んだ?」
デットはエルに感情というものを呼び起こしてやりたかった。
エルのつたない声がこぼれていく。
「殺された。強かったのに。誰にも負けない人だったのに。たった一人で、人混みで、たくさんの、奴らに、囲まれて。逃げられなかった。逃げなかった。周りの、関係のない人を、巻き込まないために。相手は、戦士じゃなかった。自分たちを盾に、何人も同時に、武器ごと飛び込んできた。腕を斬られた、足を、斬られた。膝を、ついたとき、背中から矢が。向けてた剣は、弾かれ、胸を突かれた。それでも、まだ、抵抗しようとしてた。起き上がろうと、したとき……首を、斬られた。あいつら、にいさんの、からだ、ひきずってっ!」
やがて嗚咽で言葉は途切れ、エルは深くうつむき、強張る体を震わせた。デットはエルの背中に軽く手をあて、柔らかく撫でてやった。
この子はいまも苦しんでいる。大切な人が目の前で死んでしまう苦しみは、デットも経験し痛いほど理解している。
ましてエルの兄の死に方は、戦士にとっても尋常なものではない。話を聞いただけで鮮明に場面が思い浮かぶような、少年が目にすべきではない凄惨な嬲り殺しといえるものだ。それを目撃したエルは、泣くに泣けず、一人で苦しんでいる。
デットは、その苦しみを取り除いてやりたかった。
「俺が力を貸してやる。おまえがここに残るなら、ここにいよう。おまえが“炎獄”を探したいなら、一緒に行ってやる。だから、いまは、ただ泣いていろ」
声を出さないように必死で堪えている細い体は大きく震え、それでもデットに縋るでもなく、エルは一人で行き場のない感情を持て余していた。
二人の様子に干渉せずにいてくれていた店主が無言で、エルの前にとっておきの葡萄果汁の杯を置いた。
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