第1話 (2)



 突然介入してきたデットの行動に対応しきれず呆然とした若い男の眼前に、手の大きさほどの炎が浮かび上がっていた。

「一度炎にその身を晒して、穢れた心を浄化してみるか?」

 デットはそう言いながら口元を笑み歪ませた。

「魔法士⁉︎」

 驚いている若い男の酔いは、デットによって吹き飛ばされたようだ。

 戦士の数に比べると魔法士の数は少ない。実際に魔法を自分に向けられたのは初めてなのか、若い男は身動き一つできずにいた。男の目の前にはいまだ炎が揺らめいている。

「そこまでにしといてくれ」

 緊迫していた空気は、嗄れた店主の一声によって薄まった。

 いつの間にか現れていたこの店の主は、年齢を重ねてはいるが、かつては戦士だっただろうと思わせる長身に見合う体躯をいまも保ち、多くの戦士の仕事を捌く斡旋屋としての重厚な貫禄も備えていた。

 店にいる皆が注目する中、デットがゆっくりと掴んでいた若い男の腕を解放すると、揺らめいていた炎は一瞬で消え失せた。

「出て行け」

 まだ呆けている若い男に、店主が静かに告げる。反論を許さぬ硬いその声に、若い男は慌てて店から姿を消した。

 その後、店内は前より賑やかになった。いまの出来事を話題にしているのだ。あの男がこの店に姿を見せることはないだろう。ここにいる皆が、あの愚か者の顔を覚えた。

「大丈夫か?」

 デットは少年に声をかけた。その瞳には温かさがあった。

 少年は傷んだ自分の腕を抱え、デットを羨望の眼差しで見上げている。デットの顔の位置は成長期の少年よりもまだまだ上にある。その長身としなやかな肉付きの恵まれた体躯を羨ましく思っているのかもしれない。

「ありがとう」

 少年はデットに礼を言うと、店主に顔を向けた。

「すみません、迷惑をかけました」

「気をつけることだ」

「はい……」

 店主の素っ気なく聞こえる言葉に、少年は神妙にうなずく。

 デットは少年の座っていた隣の席に腰を下ろすと、店主に新しい酒を注文し、少年が座り直したのを横目で見やる。

「馬鹿をわざわざ挑発してどうする。考えてから言葉を選べ」

「はい……あの、あなたは? 俺はエルといいます」

 下町の無学な子供の装いのはずの礼儀正しいエルに微笑ましく思い、デットは名乗った。

「デットだ。ああいう輩はどこにでもいる。これからは気をつけろよ」

「はい、気がまわらなくて。あなたは、魔法士なんですか?」

 少々ためらった様子でエルは訊いてきた。

「一応な。自慢できるほどの腕ではないけどな」

 デットの言葉に少し驚いた様子でエルは訊き返してくる。

「あんな炎が出せるのに?」

 デットは軽く苦笑する。

「精霊のことはわかるな?」

 エルがうなずく。

「五精霊の力をそのまま呼び出すのは、初心者でもできる基礎魔法だ。褒められるようなものじゃない」

「でも、あなたは呪文を言葉にしなかった」

 デットはあの状況でも物事を見極めようとしていたエルの観察眼のよさに感心した。

 火精、水精、風精、地精、樹精、これら五精霊の力を借りて魔法を発するためには、人は呪文によって精霊に意思を伝える必要がある。エルはそのことを知っているのだ。

 さて、どう説明するかな。

「まあ、普通ならそうだな。ちょっとこれを見ろ」

 デットは自分の短剣を鞘ごとエルに見せた。

「こいつには魔法の術がかかっている。鞘から抜いたときに炎が出るように。ま、ハッタリ用だな」

 見た目はなんの変哲もない、地味な短剣だ。鞘に施された飾りは唯一、柄の根元に紅玉が一つ嵌め込まれているだけだ。

「抜いてみるか?」

 差し出された短剣を前に、エルは首を振った。

「そうか」

 デットはすぐに短剣を腰帯の定位置に戻した。あの説明を少年が信じたかはわからないが、実際にそういう魔法細工を施すことも可能であるため、とりあえず嘘ではない。

 知りたかったことを聞いてもう用はなくなったのか、エルは前を向くと言葉を発しなくなった。

 変わった子だなとデットは思った。

 エルはこれまでの会話の中一度も笑わず、痛い目にあっても悲鳴も上げなかった。この年頃の子にしては喜怒哀楽がないように思う。

 デットは自身の子供の頃はどうだったかなと思い耽っていたため、少年の変調にすぐに気がつくことができなかった。

 ふと横を見ると、額にうっすらと汗を浮かべたエルは、いまにも倒れそうな顔色だった。

「どうした?」

 声をかけると、エルの体がぐらりと傾いだ。デットはとっさに腕を伸ばし、座面の高い椅子から落ちそうになった細い体を支えた。

 エルはすでに意識を失っていた。

「店主!」

 鋭い声でデットが呼ぶと、他の客を構っていた店主はすぐにやってきた。デットが両腕に抱えた少年を見るなり「奥を使え」と店から奥へと続く木戸を指差し、自ら案内してくれた。

 エルを寝かせたのは、簡素な寝台と一揃えの机と椅子しかない小さな部屋だ。店主はいったん部屋を出ると、水の入った桶と清潔な布を持ってきた。デットが受け取り、エルの額の汗を拭ってやる。

 エルの腕は、あの愚か者に掴まれたときにひどく傷んでいたようだ。衣服の袖をまくって見ると肌のその部分が酷い色をしていた。

「我慢をするにも程があるな」

「治せるか?」

 店主はデットが癒しの樹精使いであると確信しているわけではないだろうに訊いてきた。

「やってみるさ」

 デットは寝台の横に椅子を置き腰を下ろすと、自分の手の平をエルの腕の患部に覆い、目を閉じた。店主に聞き取れない言葉を小さな声で呟くように発する。ふたたび目を開け、真剣な眼差しでそのまま手をエルの腕にかざし続ける。

 どのくらいの時が経ったか。

 デットはエルから手を離して一息つくと、立ったままそばにいた店主のほうを向いた。

「大丈夫だろう。まだ熱は下がらないだろうが。店のほうはいいのかい?」

「任せてきた。ちょうど一服しようと思っていた」

 店主はそう言うと射抜くような視線をデットに向けてきた。その瞳は百戦錬磨な熟練の戦士のものだ。

「おまえ、歳のわりにいい腕を持っているようだな。何者だ?」

 デットの年齢に見合わない魔法の実力と受け取られたようだが、身のこなしで戦士としての腕も見抜いたのかもしれない。

 デットは少し悩んで、この店主には誤魔化しは効かないかなと諦める。

「休暇中の、少しは腕のある魔法士さ」

 デットの言葉をそのまま受け取りはしないだろうが、店主はそれ以上の追求をしてこなかった。

「仕事をする気になったら、いつでも言ってこい」

 戦士の腕を見極め仕事を依頼する斡旋屋の店主にデットは認められたのだ。

 少し呼吸も落ち着いた様子のエルを見つめ、デットはいままで気になっていたことを店主に訊ねた。

「この子は、なぜいつもこの店に来てる?」

 店主は老いてなお大きな引き締まった体躯を壁に寄りかからせると、この少年について語ってくれた。

「“炎獄”を探している」

 デットはゆっくりと店主のほうを向いた。

「あの、“炎獄”か」

 魔法を操る戦士を総じて“カドル”と称する。

 かつて、二つ名“炎獄”と名付けられたカドルがいた。傑出した剣の腕と火精使いとして彼が活躍したのは、いまから二十年以上前のことだが、もう一つの理由により、さらに“炎獄”の二つ名が世間に知られるようになった。

 いま現在、現役のカドルとして最も有名であるのは“迅風”のレイグラントという人物だが、このように二つ名と個人名は対となって世間に知れ渡るものだ。だが、“炎獄”の場合は、あるときを境に、人々が彼の名前を口にすることができなくなった。わずかに書物に書かれていたものも、なぜか汚れていたり破損したりと、判読は不可能だった。

 この世には人には計り知れぬ不可思議な力が働き、ときには傲慢な人間が矮小に思えることがあると思い知ることになった出来事だ。

 いまでは伝説のようになったその“炎獄”を、少年は探しているのだという。

「半年くらい前だったか。どこでこの店のことを聞いてきたのかは知らんが、“炎獄”が来ることはないかと訪ねてきた。彼の姿を見る者がいなくなってずいぶんと経ったが、どの戦場でも彼を見たという話は聞かん。いまでは彼の容姿でさえも人の記憶からは薄れつつあるのかもしれん。俺は彼を実際に見たことはないし、この辺りで仕事をしたと聞いたこともない。彼がよくいたのは北方だしな。ともかく、こいつには彼が来ることはないと言ったが、諦める様子もなく、ほぼ毎日ここに来ている」

「なぜ、彼を探してる?」

「事情は知らない。万が一にでもここに仕事を受けに来ることはないかと期待をしているんだろうな。この町で一番の斡旋屋だと認識してくれているらしい」

 実際その通りだ。この“穴熊”は、この店主の元、戦士の休息地としても知られているこのナカタカで最も信用のおける戦士の斡旋屋とその筋で知れ渡っている。

「彼が来たら教えることになっている」

 来るはずもない人物を探し続けている理由は、いったいんなんであるのか。

 デットはさらにこの少年に興味を持った。

「どこに住んでるのかな?」

「さてな」

 店主がしばらくこの部屋を貸してくれるというので、デットは少年の回復を待つことにした。

 しかし、熱が下がるのにはまだ時間が必要だろう。魔法で外傷を治すことはできるが、病気などには効きにくいため、これ以上処置をすることができない。

 結局、一日が過ぎても少年の意識は戻らなかった。


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