小さな物語達

佐藤太郎

不幸な僕と歪む僕

 僕はなぜ不幸なのだろうか。

 そもそも僕は不幸な人種なのだろうか。

 

 僕は孤独だ。誰一人として僕のことを好いたり、気にかけたりしてくれない。理由は分かっている。けれど、信じたくなかった。

 なぜなら僕は、どうやら感情の起伏が薄いらしいのだ。


 僕には、感情を上手く言葉に出したり、表情に現すことは出来ない。それ故に、交友関係も成就せず、親の期待にも応えられなかった。

 僕は母に嫌われている。


『あなたは不出来な何の価値もない息子。いや、自分の子どもだというのも気に障る。あなたのような能力のない子どもが家のいるとね、迷惑なのよ。ご近所さんからは、お兄さんは優秀なのに、弟さんはあまり勉強は得意ではないのですね。なんて、言われるとね、耐えられない。折角、あなたに幼い頃から塾や習い事を惜しげもなく、投資してきたというのに、なぜあなたはそんなに不出来なの。高校を卒業したら、一人でどこか遠くへ行きなさい。二度と家族には近寄らないで』

 

 そんなことは日常的に毎日のように言われているけれど、僕はあまり辛くはない。

 理由は明白。

 僕は確かに未来永劫、価値のない人間だ。

 そんな人間に明日は来ない。


 僕には一歳年上の高校二年生の兄がいる。 名を泰河と言う。

 僕の兄は、幼い頃から学業において、高い評価を得てきた。中学校は近所のどこにでもある平凡な中学校だったけれど、いつも学年五位以内の常連であった。運動神経にも秀でており、兄の所属するテニス部では、三年生の先輩を追い越し、部内一位の戦績を残した。全国大会でもベスト8に入り込むほどの実力者だった。それから兄は、高校は地元でも最難関と謳われる進学高に、スポーツにおいても学業においても、高いクオリティをキープしたまま入学した。所謂エリートだ。

 

 しかしそれに比べて僕は、偏差値五十にも満たない凡庸な高校に通っている。別に僕は受験勉強を怠ったわけではない。でも、僕は他の人と比べて覚えも悪く、要領を得ない。はっきり言って使えない人間だと揶揄されても仕方がない。

 

 そうやって割り切って生きてきた。

 だからこそ、僕は許せなかった。

 兄が落ちぶれていく様が。


 

 兄は一週間前、ある不祥事を起こし、強制的に保護者同伴で学校に連れ出された。どうやら、コンビニでいくつかの菓子を盗んだことが店側にばれ、それは学校側にも知らされたようだ。窃盗は一回くらいであれば、学校には、知らされないはずだったろうが、どうやら兄は、計四回もの窃盗を犯していたようだ。一回目はスーパーで、二回目は中古ゲーム屋、三回目は友達とコンビニで。そして、今回四回目もコンビニでの窃盗で計四回。三回目でコンビニでの盗みが成功したことが、仇となり失敗した。どうやらもう一回くらいなら成功するだろうとタカを括ったことが原因らしい。

担任教師やその他学年主任など母と兄の三者面談で出た答えは、一週間の停学だった。本来ならば、より多くの停学期間を設けるはずだった。しかし、兄の場合、日頃の態度が良かったことが功を奏したらしい。

正直僕は、一回くらい痛い目にあって欲しかった。具体的には、退学とは言わないけど、せめて停学3ヶ月くらいの刑には処されて欲しかった。けれど、そんな望みは果たされなかった。

 

 それから一週間が経ち、兄は平常通り、学校へと登校した。しかし、その日妙な異変を感じとった。

 僕は兄が外出する時、いつもある癖があることを知っていた。恐らく僕しかそれは知らないらしかった。その癖というのは、指鳴らしだ。但し、指鳴らしと言っても、ただの指鳴らしではない。通常の指鳴らしなら指の部位を正確に決めて鳴らさない。ただ人によりけりだ。が、兄は決まって人差し指だけを執拗に折る癖がある。しかし、停学明けの兄はそれをしなかった。ただそれだけのことだけど、僕はなぜだろうか、無性にそれが気になった。悪い予感然としたものが確かに僕の心の中で息を潜めいていた。ただの勘違いだろうかと思った。けれど、その不安は的中してしまった。

 その日兄は自転車に乗り、学校へと向かっていた。兄は自転車で毎日通学をしているのだが、自転車事故を起こしたことはなかった。でも、その日事件は起きた。兄は事故で死んだのだ。それも、猛スピードで、自転車を漕ぐ兄は信号をしっかり確認せずに走っていたらしい。その時だった。トラックは歩行者用信号が赤の時にろくに確認しなかった兄の漕ぐ自転車と衝突した。トラック運転手は必死に急ブレーキをかけたが、既に時遅し、骨がカチ割れるような重音響かせ衝突した。兄は身体中を緋色に染め、道路に横たわっていた。ただ静止した人形のようにただ横たわっていた。トラック運転手は慌てて兄を放置したまま逃走した。


 

 それから数十分前後、倒れ伏せた兄を偶然発見した人が救急車を呼んだことで、事態が発覚した。兄は急遽、大病院に搬送された。それを聞きつけた両親は、わらをもすがる思いで兄に擦り寄った。僕はというと、一応その場にはいたけれど、別に何も思わなかった。僕が兄をあまり好いていなかったかったからだろうか。両親が溺愛する兄が凄惨な状態に陥っているからだろうか。それとも、僕の心は既に壊れてしまった後だからだろうか。兄は集中治療室で医師らによって治療が行われた。扉の前でただ祈るしかなかった両親はただ両手を合わせ、顔を俯かせ、まるで神に兄を殺さないでくださいと必死で懇願しているように見えた。僕はただ真顔で、鉄扉前のベンチに座っているだけで、手を合わすなどという何の意味も脈略もない行為には及ぶ気などなかった。


 集中治療室の点灯していた赤ランプは突然消灯した。それから間もなく鉄扉は開いた。そこから現れたのは、兄の手術を担当した男の医師が一人と助手らしき女一人だった。医師は神妙な面持ちでおずおずと両親にこう告げた。


 『我々も最善を尽くしたのですが、病院に搬送された時には、既に息を引き取る寸前でした。賢明に治療したのですが、既に手遅れでした。』


 最初僕は彼が言っていることの意味が分からなかった。意味が分からなかったというのは、言葉の意味が分からなかったという意味ではなく、ただそれが真実なのかどうかが判然としないということだった。両親はただ目を白黒させて動転もせず、ただその場に直立していただけだった。それから数秒後、お母さんは医師の肩を引っ掴み、


 『家の息子をよくもよくも。どうしてくれるんですか。これから兄は良い大学に入って、大手企業に就職して同じくらいのスペックの女性と結婚して子どもを生み、順風満帆な生活を送るはずだったんですよ。なんで、なんでこんなことに』


 それから母は地に膝を付けてただ呆然とした。父もただ呆然と立っていただけだった。

人は本当にショックを受けた時、動転したり、泣いたりするのではなく、茫然自失の状態になるんだと納得した。けれど、その現実離れした情景を直接目に入れても、僕はそれでも何とも思わなかった。ただ兄が死んだことは少しばかり驚いたが、特段驚愕するものではないと感じた。そんな感情の起伏の薄い僕を見て、お母さんは突然こう呟いた。


 『泰河じゃなく、あなたが死ねば良かったのに』

 

 僕はその言葉を訊いて、心の中で何かが壊れた。その瞬間僕はお母さんの首元を締めていた。なぜそんなことをしてしまったのか自分でも分からなかった。ただ兄の代わりはお前には務まらないと進言されたことにショックを隠せなかった。ずっと心中で自分は兄の代わりにはなれないと理解していたはずだった。頭では理解していたのに、自尊心なんてとっくの昔に捨てた筈だったのに、僕は母をただ殺したいと切に思った。すぐに父が止めに入ろうとしたけれど、僕は父を残っている左足で蹴飛ばした。幼い頃、空手を三か月間だけ習っていた経験が無意識に働いたのだった。父は他の病室のドアノブに後頭部を強く打ちつけたらしく、すぐさま気絶した。集中治療室の前にまだいた医師は、咄嗟に僕を止めに入った。もう一度足蹴りをくらわせてより強固に母の首を締め、窒息死させる予定だった。けど、その医師は僕の足蹴りを間一髪で避けた。それから猛スピードで僕に突進してきた。思わず勢いで僕と医師は地面に勢いよく倒れ伏した。助手は急いで近くの固定電話に百円玉を投入し、119番をダイヤル入力しようとしている。僕は体勢を整え、性急に番号を打ち込む助手を止めようとした。しかし、足元をすくわれた。まだ医師には意識があった。医師の両手が僕の右足を力強く絞め付け、思わず僕は平行感覚を失い、再度地に伏した。なんとか足に密着する医師から体を解こうともがくけど、先ほどよりも強固に体をロックされた。僕たちの事態を訊きつけた他の医師らは、手の空いていた助手に事態を説明したことで、二人のガタイのよい医師が、手足を拘束。僕にかけられたロックはより剛力になった。

結局、数分とも待たずにパトカーのサイレン音が聞こえ、ついに僕は全ての力を解いた。もう逃げられないと悟ったからだ。それから、大勢の武装した警官が、押し寄せて来た。事態を先ほどのように説明を受けた警察は、僕の両手を縛った。現場の証言、そして僕がお母さんに力任せに絞めた首元を注視して、証拠万全になり、手錠を両手首にかけられた。僕は二人の警官に腕組みをされながらパトカーに向かった。その時も僕は何も感じなかった。周りは騒然とはしていなかった。他の病室で寝ている病人を起こすわけにはいかないと判断したらしい。全く賢しい人たちだと思った。


 僕は病院の外に出た。

 もちろん警官に連れ出されてだ。他人よりも僕は、後悔や恐怖を顔ににじますことはなかったと思う。いつもそうだったから。けれど、最後に後ろにいた母の一喜一憂した顔を見た瞬間、僕の顔は多分想像を絶するくらい、歪んでいたのだろう。

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