引きこもりの超人、あるいは幽霊

Mr.K

引きこもりの超人、あるいは幽霊

 私が初めてそれを聞いた時、私の中に湧き上がった感情は困惑の一色しかなかったのを今でも覚えている。


「えっ、引きこもり?」

「そうなのよ……」


 やや濁すような口ぶりでそう話したのは、引きこもりになった友人、郷本きょうもとの母親。

 訳あって数年振りに実家に帰省した際、懐かしむように近所を散歩していたところ、偶然彼女と再会したのだ。

 そして、色々と会話をしたり――あるいは濁したり――していく中で、私が郷本の


 郷本とは、かれこれ二十年以上も前からの長い付き合いになるだろうか。それこそ、幼稚園よりも以前、保育園からの関係だったと記憶している。そして、私の中で最後に彼に会った記憶は、二十歳の成人式の時。

 根っから騒がしい他の友人とは違い、彼はそんなにグイグイ積極的に来るタイプではなかったが、かと言って一人でいたわけでもなく、多少は周りの友人と談笑したりしていた。

 そんな彼が引きこもりになったと聞いて困惑したのは、一重にそうなるような人間だとは思っていなかったからだ。

 特に根拠があっての思考ではない。それこそただのイメージに過ぎないが、しかしそんな影を感じさせるような人間ではないと、恐らくは私以外の他の友人も思っているだろう。

 決して付き合いの悪い人間ではなく、寧ろ仲の良い相手なら(特に用事がない場合に限り)積極的に誘いに乗ってくれたものだった。

 能動的に誰かを誘う事はないが、しかし一度誘われれば、誰かと一緒に楽しむ事はできる。それが彼という人間なのだ。


 そんな彼と、引きこもりという言葉が紐づかないというのが、私の正直な感想だった。

 私が知る限りの彼は、何かを押し隠したりするような事は無かった。本質的に弄られやすい性質の人間だからなのか、周囲の友達が彼を弄ったりする事はままあったが、不平不満があればストレートに「やめろ」と言うし、なんなら怒ったりもした。根の部分が真面目だったというのもあるのだろうが、自分から誰かを馬鹿にするようなタチでもなく、寧ろ友人達が過剰に弄りだすのを見て止めに入るぐらいには、少なくとも周囲の同級生と比較すると善良な人間だった。

 そうやって忌憚なく感情を発露させてきた人間が、何かを押し殺すように引きこもる。不思議に思うのも無理はない、と思いたい。


 その日は散歩する以外特に何かしようと思っていなかった私は、二つ返事で承諾し、早速彼の家に向かった。

 一軒家である郷本家は多少のリフォーム等がされてあったが、概ね記憶の中にある家の姿とそう変わらない姿のままで、酷く懐かしさを感じた。

 郷本の母親に先導され、久々に彼の家に足を踏み入れる。最後に入ったのはいつだったろうか。彼の部屋が元々そんなに広くないのもあって、時が経つにつれて別の友人の家や外のどこかで遊ぶようになり、彼の部屋を訪れる機会が徐々に減っていったのだ。少なくとも、別の学校に行く事になった高校時代ではないのは確かだ。

 玄関から見える景色もまた、私に懐かしさを感じさせるには十分過ぎた。そうだ、この感じだ。リビングの方へ行く事は終ぞ無かったが、この廊下を通って行ったのはよく覚えている。……そして、彼の部屋の場所も。


 その部屋の前に立った時、私にはその部屋に引きこもっている人間なんていないように思えた。

 何と言えばいいのだろうか。中を見た訳でもないのに、その部屋がただの物置であるかのような、そんな雰囲気があるのだ。

 そう思い至った時、この部屋がかつて物置部屋だったというのを、他ならぬ郷本本人から聞いたのを思い出す。

 まさかと思いながらも、二回ノックをする。

 何も返事がない。私は郷本の母親と顔を見合わせ――その表情が何とも言えないものだったのを、此処に記載する、そして恐る恐るドアノブに手を掛けた。


 妙に軋むような音を出すドアノブを捻り、中を覗いてみる。

 そこに広がっていたのは、懐かしくもあり、どこか違う郷本の部屋。

 昔からあった本棚に、昔からあった小型テレビ。机に関しては新しいものになっており、そこに並べられた本もまた、見覚えのある漫画だったり、見覚えの無い小説だったりと、時の経過を感じさせるラインナップになっていた。

 郷本はと言えば、部屋の隅に置かれた折り畳み式ベッドに、シーツも被らないまま横たわっていた。

 不意に過った嫌な考えを振り払いながら、私は彼の元に辿り着き……寝息を立てているのに気づき、それが杞憂だった事にホッとした。


「郷本、起きろよ。真っ昼間だぞ」


 私は彼の肩を揺すった。

 彼が目を覚ますまで、そう時間は掛からなかった。


「あ……? 十文字?」

「よ。久しぶり」


 久々に見た十文字は、太っているでもなく、かといって過剰に痩せているわけでもなく。髭や髪も手入れしているのか、無造作に伸びているという事も無く。

 どこかやつれているように見えて、それでいて生き生きとしている、不思議な雰囲気を纏わせていた。

 奇妙な事があるとすれば、何故か彼の着ているスウェットが、異様にボロボロになっているように見える事だろう。

 よくよく見てみると、その灰色のスウェットの肩の部分等に破けたような跡があり、それを裁縫で縫い直してあるのだ。


「……じゃあ、十文字君。ゆっくりしてってね」


 郷本が起きたのを確認した母親は、どこか気まずそうにしつつも部屋の扉を閉めた。

 ……その時、私は初めてそれに気づいた。異様な形に変形しているドアノブを。

 例えるなら、棒状の粘土を力一杯握ったような、そんな形になっていたのだ。

 勿論、アレは間違いなく金属製だ。だが、金属のドアノブが何故そんな風になってしまうというのか?

 単なるそういう形のインテリアかオブジェという可能性もあるが……それにしては、食い込み具合と、微かに見て取れるヒビが生々しい。


「……あぁ、ごめん。こんな格好で」


 一人密かに冷や汗を流す私を他所に、彼は乾いた笑みを浮かべ、手を立てながら頭を下げた。


「……いや、別に気にしないって。自分んちなんだから、ラフでも構わんだろ」

「サンキュー」


 そう返す私は、実にぎこちなかった事だろう。にも関わらずそれを意にも介さず謝意を述べたのは、彼なりの優しさなのか……あるいは、彼が抱え込んだ何かによるものなのか。そこまでは分からない。

 とりあえず、その空気をどうにかする為に、私は会話を切り出す事にした。主に私の近況や、私の知る限りの他の友人の近況報告だ。と言っても、私については本当に最小限の情報ではあったが。「ちょっと実家に帰ろうと思って帰ってきた」と、それぐらいしか話さなかった。……その時の私は、どこか彼に対して後ろめたさがあったのだと思う。当時の私は、そこにコンプレックスを抱いていたから。


 そこから、静かで気まずい時間がほんの少し流れた。


「……その、さ」


 先に口を開いたのは、意外にも郷本だった。


「母さんに言われて来たんだろ?」


 いきなり核心を突くその発言に、私は少し息を飲み、一拍置いて「そう」と肯定した。


「なんか、悩んでんのか?」


 私のその問いに、郷本はあの乾いた笑みを浮かべ、「いいや」と返す。


「今は、何も」

「今は?」


 妙に含みのある言葉だ。


「ちょっと前までは、そうでもなかったんだけどさ……今は違うんだ。ちょっと物足りないところは、あるけども」


 そう言いながら、郷本は口元を少し、ほんの少しだが歪ませた。それがどういう感情の発露なのか、私には分からなかった。


「……何があったんだ?」


 私も意を決して、彼に尋ねてみる事にした。今にして思えば、我ながら非常に勇気ある発言だったと思う。良くも、悪くも。

 何故なら……彼に起きたのは、予想以上にとんでもない事だったのだから。





「……俺さ。なんていうか、超人になっちゃった、みたいでさ」





 また、場が静寂に包まれる。

 私はと言えば、開いた口が塞がらなかった。


 ――超人、って言った?


 そう言いだしたかったが……ふと、彼から目を逸らし、チラリと背後の扉を……まるで手で握りつぶされたかのような形に歪んだドアノブを見やる。

 その、一見して平凡そうな部屋の中で際立って異質な部分を意識してしまうと、そんな短絡的な言葉は出なくなる。


「……あのノブも、まさか」

「ああ……俺がこの身体になって、初めてやっちゃったのが、アレ」


 郷本は苦笑いを浮かべながらそう言った。





 郷本に訊いてみたところ、それは突然の事だったらしい。

 いつものように起きた彼は、妙な目覚めの良さに首を捻りながら、自分の部屋から出ようとした。その拍子に、ドアノブを握りつぶしてしまったのだという。

 これが寝ぼけていたのなら、握りつぶした時の変な感覚にも気付かず、ドアノブがそのまま外れてしまって詰んでいたとは、郷本の談だ。

 とりあえずこれが夢かどうかを、『自分の頬をつねる』という定番の方法で確認した彼は、扉を叩いて呼ぶのを思いとどまった。彼の考えが正しければ、今の状態で叩けば扉が破壊されかねない。

 なので、彼は声を出して母親を呼ぶ事にした。

 呼ばれてきた母親は、当然彼の異常な様子に困惑し……ドアノブの惨事を見て、表情を引きつらせた。

 そして、ひとまず母親が彼を病院に連れて行こうとした、その瞬間。


「……俺、それを断ったんよ」

「断った? なんで?」

「気づいたんだよ」

「何を?」

「病院に行ったら、なんか……面倒な事になりそうだって」


 面倒な事とは何か。そう問いかけようとして、そこで思いとどまった。

 成る程、確かに突然そんな身体になったのだ。良くて門前払い、悪ければ病院経由で……と、何かしら「面倒な事」になりそうな想像はつく。

 彼が本当に超人になったのかの真偽は、その時点においてどうかはさておいて。


 それから、郷本は自分の身体を使って、様々な事を試してみたという。

 その中で少なくとも分かったのは、凄まじい怪力に脚力、恐ろしく頑強な皮膚に、幾ら息を止めても苦しくならない程の心肺機能。それに、暗視もできるとか。

 曰く、「頑張って誰にもバレないように、小学校近くにある山とかに行って確かめてみた」との事らしい。

 しかし、そうして実験をしていた途中で、彼は力の検証を辞めてしまったのだという。その理由もまた、病院の時と同じで。


「……漫画でさ。力を得た奴が調子に乗って色々するのって、あるじゃん」

「あるな」

「……そういうの見てて、「うわ、やな奴」って思ってたんだけど。この身体になって、気づいた。「本当に、なんでもできちまうんだ」って」


 「なんでも」が意味するのが何か。その時の私は言葉通りの意味で捉えていたが、今なら分かる。


「でもさ。俺、そういう事やる勇気なかったっていうか。そんな勇気いらねって思ってたからさ。いや、アレに関しては、思い止まれた自分を褒めてやりたいっていうか」


 そう言った彼の顔に浮かぶのは、やっぱりあの乾いた笑みで。


「……俺がこの身体になったのさ、仕事辞めてから何ヵ月かしてからでさ。あ、愚痴ってもいい?」


 構わない、と私が促すと、「悪い」と一つ謝罪を挟み、ぽつぽつを語りだした。


 とある大学を出た彼には、夢があった。英語の映画や小説、漫画作品を翻訳するという夢が。しかし、その道はあまりにも険しかった。加えて当時の彼の家は、経済的に厳しい状況にあった。母親まで働かなければならなかった程に。

 その為、彼はアルバイトをしながらも、何とかすぐに金を稼げる職を探そうとした。当然、翻訳の仕事ではない。もっと別の、それこそ彼が全く関わる事の無かったであろう方面の仕事を探さなければならなかった。

 最終的に知人の紹介もあって、彼は全く未知の分野の仕事へと身を投じる事となった。

 どのような仕事かは此処では伏せるが、かなり体力を使い、色々と高価な物に触れる機会の多い仕事であったと記載しておく。

 とにかく、そういう事もあってなのか、給料は良かったそうだ。……が、問題はそれ以外だった。

 経済的問題に加え、当時父親が病気で倒れていた事から一人暮らしが実質出来ない事で、電車でそれなりに時間が掛かる距離を通勤しなければならなかった彼は、最初に会社で話を聞いた時、「誰でも出来る簡単な仕事」だと聞いていたのだ。

 だが実際に働いてみると、その言葉が本当か怪しく思えてきたのだという。

 何せ、前述した通り「かなり体力を使う」仕事なのだ。


「知ってるだろ、俺が運動、そんなに得意じゃないの。シャトルランで三回走ったらもうゲロっちゃうぐらいだし」


 郷本が懐かしげに苦笑いしながらそう口にする。実際、私もそれを覚えていた。緊張しやすく、なおかつ緊張に弱いという性質もあるからなのだろうが、マラソン大会でも序盤で吐き気を催し、すぐに脇の方へと避けていった事もあった。私は参加しなかったが、周りの同級生がそれをネタにからかっていたのも、よく覚えている。私が覚えている限りでは、結局最後まで体力の無さからくる状況が好転する事は無かった。

 根本的に体力が長続きせず、しかもどれだけ運動しても体力が付きにくい彼の事だ。その仕事を「簡単」だと宣う連中に合わせる事すら、必死にやってもままならなかったのだろう。

 また、筋力も無かった彼は、当然のように重量物を運ぶ作業も苦手としていた。その事で上司や先輩に色々言われる事も少なくなかったという。

 それでも彼が頑張ろうとしたのは、経済的苦境にあった家をなんとかしようという想いからだった。


 ……けど、と彼は続ける。


「本当にそうだったのかと聞かれると……正直、分からなくなる」


 俯きながら、彼は続ける。


「大変な仕事を続けてるとさ、ストレスが溜まるだろ? で、そのストレスを解消したくて、娯楽で本とかゲームとか買いたくなったり、何処かに出かけたくなるだろ? でも俺の場合、家にも金を入れなきゃいけないし、奨学金の返済にも充てなくちゃならない」


「で、給料はそれなりにあるから娯楽にも使って……まぁ、そんな悪循環に陥ったら、当然金は貯まらないわな」


 彼の口から溜息が漏れる。


「本当に家の事を思ってるんなら、そんな風に金を使ってていいのかって、働きながら何度考えたか分かんねぇよ。……でも、何かで気を紛らわせないと、自分がどうにかなっちまいそうだった」


 聞けば、仕事の都合や何かしらの用事で、かなり早い時間から起きなければならない日が何日か続くのも、然程珍しくなかったという。

 その上でハードな仕事をやるのだ。体力のみならず、精神的な疲労が溜まるのも、当然と言えば当然だ。


「でもさ。周りの同僚だとかは、俺と違ってそんな環境でも普通にやってるんだよ。そんなところで弱音とか吐いたところで、受け入れられないって自分でもわかってて。結局、言いたいのを我慢して仕事するしか無かったんだわな」


 弱弱しくそう呟く彼を見て、私は何も言えなかった。


「そりゃあ、そういう時は辞めればいいって、皆は言うだろうよ。……けど働いてて、気づかされるんだよ。「俺は普通じゃない」って」


 普通じゃない。その言葉が含む意味が肯定的なものではないのは、今の彼の様子を見ていれば容易に察しがついた。


「これは持論なんだけど、今の社会が求めてる人間ってのはさ、ある基準のラインに達してる人間……つまり、世間一般で普通って呼ばれてる人間なんだよ。で、俺の場合、その基準のラインを遥かに下回ってるってわけ。だから、その会社でも順応できなかったんだって思うんだよ」

「そいつは……ちょっと言い過ぎな気もするけど」

「そうかもな。でも、実際俺は順応できなかった。金欲しさにどんだけ頑張っても、周りに全然追い付けなくて。終いには後輩にまで追い越されてさ。しかもあっさりと。笑えるだろ?」


 それに、と矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。


「その基準に達する為には、人間関係の事も含まれてて、俺にはそれすら難しくてさ。飲み会だって行きたくないような奴だったし。よしんば少しは話が出来ても、自分の事で精一杯になって最後には置いてけぼりになっちまったりするし」


 そんな事はないだろう、と、当時の私はそう彼に言葉をぶつけたが……今にして思えば、無責任な言葉だと思えてくる。

 私は、彼ではないのだ。私の視点では普通に会話が成り立っていると思えていても、彼の視点ではそうではない。私の基準では普通の会話であっても、彼にとっての会話とは、ハードルが高いものだったのだろう。


「それに俺、意識せずに相手の精神を逆撫でするような事言っちゃうみたいでさ。それで何度怒られたか。……まぁ、そういう事を自覚できるようになると、余計にさ。分かるだろ?」


 確かに、かつての彼は不平不満があれば率直に口に出てしまう人間だ。恐らく、それが悪い方向へと導いてしまったのだろう。昔もそうだった。そうして口に出した結果、相手と口論になった挙句、殴り合いの喧嘩になったのは一度や二度ではない。流石に成長してからは殴り合いなどしてはいないだろうが。

 それはそれとして、成る程、彼の気持ちも分かる。

 何かを失敗しないようにする為に取れる行動というのは、主に二つある。一つは、シンプルに改善に努める事。そしてもう一つは……何もしない事だ。


「……まぁ、実を言えばさ。そうやって下手に喋って話を拗らせるのって、昔からあったんだよな。お前は覚えてないかもだけど。……だから多分、これはどうしても直らんやつだって、そう思い込んでさ」


「まぁとどのつまり、下手打つかもしれないなら、黙ってた方がいいと思って……そしたら、それはそれで色々言われるわけよ」


 さもありなん。「自分の意見をしっかり主張しろ」という説教は度々耳にするが、口下手な彼にとって、それがどれ程困難な強要だったのか、恐らく私を含めた周囲の人間には想像もつかないだろう。ひょっとすると、苦痛とすら感じていたかもしれない。


「まぁとにかく、ヤなもんだったよ。仕事だってままならないし、喋るのだってままならないし。それでも、なんとか皆の役に立とうと思って頑張ろうとしても、結局は裏目に出るし、逆にやらかさないように上手く引き気味に立ち回っても結局駄目だし、それでますます「俺は社会不適合者なんじゃないか」って自己嫌悪が激しくなるし……」


「それに、時間も気にしながらっていうのも、辛くて辛くて仕方がなかった。学校のテストですら辛かったけど、あっちは目の前の問題と時間の二つだけだった。けど、仕事はそうじゃない。時間以外にも技術的にもある程度正確さが求められるし、それを持続させられるだけの体力と辛抱強さだっている。正直、あの瞬間は「皆すげーなぁ」って関心したわ。心の底から」


「でもって、誰も俺が自己嫌悪に陥ってるなんて、そんな事考えもしないんだろうな。自分の言いたい事を色々言ってきて、怒ってきて……まぁ、他人にそんな風に気遣う余裕が無かったからって言われれば、何も言えないんだけど」


 自嘲気味にそう言う彼の姿は、中肉中背な容姿以上に小さく見えた。

 そしてふと、少し前に久々に会った友人が仕事の事で愚痴る姿を思い出す。

 内容は曖昧だが、大雑把に言えば後輩が出来ない奴で、といったものだったと思う。頑張ってはいるのだが、何度叱っても直らないだとか、曖昧な返事しかしなくなったとか、そんな事を言っていた。

 その時は「そうなのか、大変だな」と友人に同情したが……こうして郷本の話を聞いていると、友人のみならず、その後輩にも同情したくなってしまう。

 友人の主張も分かるが、それはあくまでも友人の主観でしかなく、その後輩がどう思っているかまでは分からないのだ。「だったら主張しろ」と、その友人なら言うだろう。だが、それが出来ればきっと苦労しないし、そもそもそんな姿を見せる事も無かっただろう。あくまで推測でしかないが、その後輩も、裏では苦しんでいたのではないかと、そう思えてしまうのだ。


 そうして考えていて、気づくのだ。世の中の人々が、如何に他者に「普通」である事を求めていたのかを。他ならぬ私自身も同様に求めていたのを。


「……長々と話したけど、つまり言いたいのは、他人の言う普通を鵜吞みにすべきじゃなかったって事。皆が簡単って言ってるからって、その基準を他人にまで押し付けるべきじゃないって事。どんな奴にだって、向き不向きってのがあるのを理解しなきゃならないって事。それから……ストレスって奴は、予想以上に身体に影響があるって事」


「だから……結局俺は、腸の病気に掛かって。多分、鬱病にもなってた、と思う。そんで、辞めた。どの道あのまま続けたところで、ぶっ倒れてそのままポックリいってたかもだし」


 郷本は、少し下唇を噛むと、再び口を開く。


「……母さんは俺に「そういうのは負けん気で頑張るもの」とかなんとか言ってたけど……アドバイスにしちゃ、あまりにも精神論過ぎて、そん時の俺にとっちゃ正直見当違いもいいところだし、何より外野のくせして分かったような事を言って来るのが、物凄く腹が立った。なんせ、人生で初めてだったんだぜ? 自殺しようなんて考えたの」


 「まぁ、そんな事出来るわけなかったんだけど」とあっけらかんと言いながら、郷本が笑う。


「……よくニュースとかで見たりするだろ? 誰かが首を吊ったとか、真面目だった奴が事件を起こしたとか。変な話だけどその時さ、そいつらがそういう風になった理由、ちょっと分かったんだよ」


「……そういう連中と、周りの奴らに、どれ程の違いがあるのかも。あいつらは、何も分かっちゃいないんだ。そういう行動をしようと思う人間の事なんて、何も……何も……」


 そこから先の答えは、何も言わなかった。私も、何も言えなかった。

 そう口にした彼の目には、確かに底に沈んだ泥の如き、淀みきった感情が伺えたから。


「……それからは、なんというか、酷いもんだったよ。一年半ぐらい働いたけど、結局有給も使わせてもらえずで、そのまんま。でもって、これまでの苦しい家計だとかに加えて、病院通い。そんなに貯金が無かったのが、更に苦しいのなんの」


「……そんで、唐突に考えるんだ。俺、何がしたかったんだっけって」


 仕事を辞めた彼を襲ったのは、どうしようもない程の無気力。どれだけ頑張ろうと、どうにもならない事への絶望感。

 いや、あるいは。


「元々、そういう人間だったのかもって」

「つまり?」

「どうしようもなく、根っこの部分が怠惰だったんじゃないかって」


 郷本は、強く下唇を噛み締める。


「仕事やってた頃も、休みの日に何度か翻訳をやってみようとして。……でも、全然進まなかったんだ。そんな自分が嫌で嫌で、それで仕事辞めた後にまた、やってみようって」


「……ダメだったよ。四年以上勉強したのに、そのほとんどが頭から無くなってて。辞書引きながらならなんとかなるかなとも思ったけど、どうしても違う感じになっちゃって」


「また勉強しなおすのも考えたさ……他に取柄とか無かったし。けど、全くやる気が起きないんだ。ただひたすらに、現実逃避したかったっていうのもあるけど」


 数秒、間を挟む。私はただ、黙って彼の言葉に耳を傾ける。


「……ずっとさ、声が聞こえて来るんだよ。そんな気がするだけかもしれないけど、確かに聞こえて来るんだ。俺を責め立てる声が」


「最初は、前職での嫌な思い出とかだった。それから、ずっと昔の記憶に遡って……自分の失敗の記憶が、どんどん甦ってきて」


「で、最後は俺自身が、俺を責めるんだ。「お前には何もない」だとか、「お前はただの怠け者」だとか……そういうのがあるせいで、全然眠れなかった日もあった。唐突に思い出す事もあった。なんやかんやでほぼ毎日だった気もする」


 「まぁ、惨めなもんだったよ」と。

 そんな彼の告白に、私はどう反応すべきなのか悩んだ。

 多分、彼の内なる声は間違っていないのだろう。他ならない、彼自身の自己嫌悪から来たものなのだろうから。

 そういう自己嫌悪は、私にも覚えがあった。


「それでも、仕事の面接行こうかとか、色々考えたさ。面接に関しては実際行って。……結局、全然受からなくて。バイトも……すぐ別の仕事に就くつもりだったから、なんやかんやでやろうとすら思えなくて」


「……思えば、単純に誰かと関わるのが怖くなってたのかもしれない。失敗なんて当たり前なんて、そんな事は分かってるけどさ。それ以上に、誰かに怒られたり怒鳴られたりっていうのが、嫌で嫌でたまらなかったんだ」


 だが、そんな日々を送っていれば、当然彼の両親は何かしら言うだろう。

 七つの大罪、という概念がある。私も専門家ではないから、ネットで調べた程度の事しか知らないが、それでも怠惰という概念が、古き時代から人間にとって忌むべきものとして捉えられていたのは知っている。


「そんな、傍から見たら――いや、俺自身もそうだと思ってたけど――自堕落な日々を無駄に送り続けて……親にも色々言われて……俺の気持ちなんてこれっぽっちも考えてないあの親が、嫌で嫌でたまらなくて……」


「……それで、ふとした拍子に思うんだよ。「俺、何の為に勉強とかしてきたんだっけ」、って」


 「努力が足りなかったとか、そう言われればそれまでだけどさ……」と、彼がそう口にした時、心なしか涙ぐんだ声だったような気がした。


「そうやって腐ってたらさ、突然だったんだ。この身体になったのが」


 聞けば、そうなる予兆も何も無かったらしい。

 こういうのは、何かしら前兆だとかがあるイメージだったが、思わずそう口にしてしまった私を、「それこそ漫画やアニメぐらいだ」と、彼は今日の中では珍しくケラケラと笑った。


「別に、実は生まれが別の星だったとか、遺伝子改造された生き物に噛まれたとか、そういうの一切ナシ。マジでガチの唐突な出来事ってやつ」


 そうなった後の話は、さっき郷本が話した通り。

 そんな力を得た彼は……結局、こうして引きこもっている。まるで、社会から己を隔離するかのように。


「なんでって思うだろ? ……一応、理由はあるんだ。この力、というか腕力なんだけど……全然、加減とか出来ないんだ」


「……ああ、わかる。おかしいよな。すげぇ脚力があって、それで普通に歩く事はできるのに。何かを掴んだり、触ったり。そうしようとしたら、あっという間に壊れるんだ。勿論、加減する訓練をしようとはしたけどな。全然駄目だった」


「……面白い事、教えてやるよ。どうもこの身体、汗とかも全然かかないし、病気にもならないんだ。この身体になってから、腹が痛いのとかも一切無くなってさ。昔から悩まされて来たのに、変な感じだったわ、全く」


 言われてみれば――彼の纏うスウェットはともかくとして――、彼は引きこもりとは思えないぐらい、妙に清潔感がある。それすらもまた、肉体の変質によってもたらされたというのか。

 正直、俄かには信じがたかったが……実際、彼は風呂に入る事すらままならないのだという。他ならぬ、その加減の効かない圧倒的な腕力のせいで。


「ある意味、これが俺のただ一つの弱点ってやつなんだろうな。俺にはスーパーマンにとってのクリプトナイトみたいなのはないけど――いや、探してないだけでもしかしたらあるかもしれないけど――、その代わりに人間社会から隔離せざるを得ないような、そんな不便な身体になってんだ」


 もしも、その力の加減を自由に調節できたとしたら。

 きっと彼が活躍できる場は沢山あるだろう。力が必要な現場での作業どころではない。災害や何やらが起きた時、彼の力があれば人助けにも大いに役立つだろう。


 ――しかし、加減が出来なければ、それも夢のまた夢の話である。


 まるで力の加減が効かないという彼を、もしもそういう場面に放り込んだら。

 瓦礫を退かすのはまだ出来よう。下手をすれば、瓦礫があらぬ方向へ吹っ飛んだ挙句、誰かが怪我をするかもしれないが。

 それに、彼自身の手で人間を救助しようとしたら。それこそ言わずもがなの悲劇が起こる。


 過剰すぎる力がある故に、彼の存在は核兵器と肩を並べる程の危険因子と捉えられかねないのだ。


 そこまで想像して、思わずごくりと喉を鳴らす。

 そして……郷本はそんな僕の考えを見通したかのように頷きながら――何故かまた、笑みを浮かべた。


「……けど、逆に言えばそういう事なんだよ。この力があれば、どんな奴だって怖くない。酷い事言ってきたやつを、残らず叩きのめす事もできる」


「……いや、それどころか、国一つぐらいどうにでもできるかもしれない。確証はないけど……そんな気がする」


 そう一拍置いて口にした彼の言葉に、私は思わずぎょっとしてしまう。

 内容の突拍子の無さもそうだが――はたして、これが伝わるのかどうか分からないのだが――彼を見て、言葉を聞いていると、それがどうしようもなく真実味を帯びているような、そんな感覚に陥るのだ。

 きっとこれを読んでいる者は、そんな私を笑い飛ばしたり、何を言っているんだと困惑したりするだろう。だが、こればかりは彼と直接対面した人間にしか分かるまい。

 真実かどうかは、分からない。だが、これを書いている今でも、あのドアノブと共に強く印象に残っているのは確かなのだ。


「……? なんだよ、その顔……あぁ。本当にやったとか、やろうと考えてるとか思ったか? 心配すんなよ。結局、考えるだけで何もやんなかった」


「……いや、仮に出来たとしても、出来る筈なかったってか」


 彼は、手をひらひらと振り、口元を軽く歪め――しかしながら眉尻を下げながら――そう言った。


「……生憎と、精神の方は相変わらず、ストレスを毛嫌いしてるって感じでさ。そんな事やってヘイト向けられて、どうにか対処は出来たとしても、心が死にそうだろそんなの……」


「そりゃさ、この身体になってから病気にすら掛からなくなったけど……それでもよ、ストレスはヤだろ、誰だって」


 そう語る彼の姿は、確かにそんな事をしようとする人間とは程遠く。

 同時に、私の疑念が単なる偏見である事にも気づき、心の中で反省した。

 創作において、元々普通の人間だった者が何の目的も無く突然超人にさせられると、最初だけかあるいは全編通してかという違いはあれど、基本的に自分の思うがままに力を行使しようとするケースが多い。

 それが人間の精神は脆弱で信用ならないという共通認識によるものなのか、あるいは一周回ってそうなるという確信と、ある種の信頼があるからなのか、それは分からない。

 だが、その脆弱な精神故に何も行動を起こさないという可能性もあり得るのだと、彼を見ていて思う。

 まぁ、圧倒的に優位な立場にあって、自らの手で相手を叩きのめしたとして、結果グロテスクな光景が出来上がってしまったらと考えると、道理と言えば道理ではあるだろうが。少なくとも私は、そんなものを進んで見ようとは思えない。


「それに……きっとそんな事をしようとしなかったのはさ、俺のこの、怠け者の部分のおかげって風にも思えてさ……変な話してるのは分かってっけど、そうとしか思えなくて」


「……ぶっちゃけた話するとさ。人間の命一つ奪うなら、こんな大層な力が無くたって、刃物一つ――それこそ、身近にある包丁とか――あれば事足りるんだよ。不意打ちなりなんなりして」


「そう、誰だって出来んだよ。その気になりさえすれば。警察の厄介になりたくないとか、色々やらない理由はあんだろうけどさ。結局のところ、その為のやる気がないからだって、そう思えてくんだよ」


 聞く人によっては、拒否感の出るような理屈かもしれない。人の情や善性への考慮など何一つない、いわば損得勘定の上で考え出された暴論だとも言えよう。

 或いは、「怠惰を良いように言うな」と、そう言う者もいるだろう。

 しかし……私には彼の言説を真っ向から否定する事など、出来る筈も無かった。

 彼の力への恐怖心も、勿論ある。だが……それ以上に彼の乾ききった姿が、私にその主張を否定させないのだ。


 誤解のないように書かせていただくが、他者の命を奪うという理不尽は、間違いなく許されざる行いであり、恐らく彼もそれを肯定はしないだろう。

 だが……ならば、この世の大衆はそんな凶行に及ぼうとするのを未然に止められたのかと、そう問われたら。

 人格的に問題がある犯罪者もいる。だが、全てがそうではない。そうせざるを得ない程に追い詰められた人間は、一体どうすればいいというのか。

 いや、他人の命ではなく、自らの命を絶つ者にしてもそうだ。この世に絶望しきった彼らは、しかしながらこの社会ではほとんどの場合、一般大衆の中で苦しみながら生きる一人一人に過ぎない。

 そして、そんな中で苦しみながらも生きられるだけの活力を持った人間が大多数を占める。多数側にとってはそれこそが当たり前故に……少数が抱えるそれに、完全に寄り添う事が出来ない。

 現実を生きる人間は、全てが青春ドラマの登場人物のように情熱と理想で立ち直れる程、単純ではないのだ。

 だからこそ、「楽になりたい」という一心で、あるいはこの世の中にうんざりして、自身や他者の首に刃を添える。

 それこそは、現実逃避の究極形と言えよう。


 ただ……私の推測でしかないが、彼の場合は最初からどちらを選ぶまでも無く、その気力が失われていた。

 底の抜けたコップが実質空っぽであるように、本来であれば彼の中で積もり溜まる筈だったもの――気力のみならず、怒りや悲しみといった感情まで――全てが、己の中にあると自覚した瞬間には消え去っていたのだ。


「……まぁ、色々ぶっちゃけたけどさ。とどのつまり、今の俺は腫物みたいなもんなわけで。皆にとっても何もしない方が喜ばれる、そういう存在なんだろうなって」


「ま、今じゃ何の楽しみも味わえねぇんだけどもな。本を読もうとしたらページどころか本がバラバラになるし。ゲームは言わずもがな。テレビだって、一々他人の手を借りなきゃ見れねぇときた。食事だってそうさ。腹も空かないし喉も乾かないせいか分かんないけど、食欲も湧かねぇときた。前までは台所から魚を焼いてる臭いとかだけでも食欲が湧いてたってのに」


「……そんな身体だから、俺に関しては生活費とか掛ける必要が無くてよ。だって、ずっと此処でぼんやりしてるだけなんだから」


 「……まぁ、母さんが時々、ここを掃除しに来るけど」と付けたしながら語る彼に、私は思わず眉を潜めた。


「……まさか、そんな生活をずっと?」

「そうさ」


 俯きながら即答した彼に、私は……その時どんな感情を抱いたのだったか。

 酷く驚愕したような気もするし、驚愕を通り越し、彼を憐れんだような気もする。


「そんな生活……嫌にならないのか?」

「……最初はな。それこそ、会社辞める少し前みてぇに、馬鹿みたいに泣いたよ。もう二度と、自分の好きな事、何もできないんだって」


 けど、と彼は顔を上げた。


「……自分でも知らなかったけど、意外と図太い精神してたのかもな。何日かしたら、そんな生活にも慣れてきて。「ああ、仙人ってこんな感じなのかな」とか考えたり、起きずにずっと寝てたりしてたら、不思議とどんどん時間が経っていくんだ。気づけば、睡眠する事が一番の楽しみになってたりしてよ。眠気が無くなると逆にがっかりすんだ」


「それに何より……もう心を擦り減らす事はないって、そう考えると心が楽になるんだよ」


 飲まず食わずで、誰かと会う事も無く、ただ部屋で何をするでもなく過ごす。成る程、確かにある意味で超人的であり、彼の言う通り仙人のようでもある。


 ……だが、それ以上に私が思ったのは――





 私が覚えている会話は、そこまでだった。それから何かしら話した気もするが、あっという間に時間が過ぎ、日も暮れるかどうかというところで郷本が気づいたのだ。

 彼の言葉に甘え、私は帰る事にした。


「じゃあな。ちょっとの間だったけど、楽しかった」


 きっと彼は、友人と話をする機会が無かった故に、心の底では会話に飢えていたのだろう。久々に私と話した事で満足感と寂寥感を覚えたのか、私を見送る彼は、少し寂し気であった。


 帰り道、私は少し振り向き――電気の点いていない彼の部屋を見る。

 結局、私は彼が力を振るう姿を見なかった。それ故に、彼が本当に超人になったかどうかは、あのドアノブを信じるかどうかでしか判断できない。

 それ以上に……彼の姿を見ていて想起したのは、幽霊の二文字だった。


 ホラー映画や怪談話において、力を持った幽霊の存在というのはさして珍しいものではない。

 そうした霊は大抵人々に恐れられ――時には除霊しようとする者もいるが返り討ちにされ――、祟られまいという精神でその場所を放置、あるいは墓のように丁重な扱いをしたりする。

 こと日本においては、そうした目に見えない力ある存在を、様々な事象と結び付ける事で実在を証明するという話も少なくない。

 もっとも、現在では科学技術の発展により、かつては大衆の側にあったオカルトも、いつしか少数の側に追いやられる事となったが。


 閑話休題。


 私が彼にそんな印象を抱いたのは――彼にあまりにも活力が無かったのもそうだが――彼の母親が最大の要因だったと思う。


 私が郷本の家から出る、その直前に、私は見たのだ。

 笑みを浮かべる彼の背後で、暗い表情で私を見送る彼女の姿を。


 あれが真に意味する所を、私は知らない。少なくとも私には、彼女が恐怖を抱いているように思えた。

 誰に? それこそ言わずもがなであろう。


 思うに、人間にとっての超人と幽霊は、紙一重の存在なのだと思う。

 人が空想する超越した力を持った何かという点でもそうだが、同時にそれらは、基本的に人から恐れられる存在という共通点もあるのだ。


 考えてみて欲しい。もしも、人類を超越した力を持った存在が、何もせずにただそこにいたとしたら。

 ここで肝なのは、何もせずに、という部分だ。

 多くの人々がそういった存在に安心するには、その存在が善良であるか、あるいは管理された存在であるかのどちらかだ。この内、後者は限りなく難しく、出来たとしてもそれは人類が抱える傲慢さに基づいた幻想であると私は考える。

 文明を発展させる程の知能の高さ故に、自らを生態系の頂点、あるいは万物の霊長と考える人類は、しかし同時に恐ろしく儚い。象のように強固な皮膚を持っている訳でもなく、ゴリラのような剛腕を持っている訳でもなく。それらを技術によって補う事は出来てもなお、クマムシのような強靭な生命力を持つまでには至らない。

 傲慢でありながら卑屈。それ故に、己よりも強い存在への疑心を持ちやすい。ここで述べる強さとは即ち、命を奪う、あるいはそれに匹敵しうる危害を与えられるかどうかだ。

 そうした命の危機に対し、人間は知を凝らし、対策という形で危機を回避しようとする。他者に危害を加えた者に罰を与える秩序の存在も、その産物の一つだ。

 それらが及ばない、言い換えれば人として持ちうる力も、人としてのモラルも完全には通用しない超常の領域に、俗に超人や幽霊と呼ばれる者達が位置する。

 彼らが善良な態度を取り、善行を為す者であれば、人々は彼らを――多少なりとも反感はあるだろうが――受け入れるだろう。もしくは、大なり小なり悪行を行えば、人々は彼らを排斥するか、規模の次第では彼らに媚びへつらう事だろう。

 しかし、何もしない場合はどうか。善良であるかどうかも判別できない場合は、どうすればいいのか。

 腫物のように触れず、というのも一つの正解だろう。全員がそれに同調するかと訊かれれば怪しいが。

 疑心と同時に好奇心が強いのもまた人間。もしも学者が彼の存在を知れば、何をしようとするか分からない。それが却って、争いを招く可能性すらあるのだ。

 彼が病院に行くのを辞めたのも、そういった理由があるのだろう。

 だからこそ、彼は自らの部屋に閉じこもる事にした。誰とも争わないように……自分を守る為に。

 故に、彼が自らのテリトリーを脅かされたら――もしくは、彼の怨みの念が頂点にまで達したら――一体どうなるか皆目見当がつかない。

 あくまでも他者を傷つけないようにするのか、それとも祟りの如く人々を脅かすのか。


 彼が悪人でないのは知っている。だが、全てにおいて善良であるかは、分からない。きっと、彼に善良かを問うても否定するだろう。

 物語のヒーローのような善性の精神があれば、己の力と向き合い、その力を善き事に使おうとする。悪党であればその逆に。


 では、そのどちらでもない彼はどうか。


 私が知る限り、この世に彼のような超人はいない。そんな中で生まれた、たった一人の超人。彼が善を為せば、世間は彼に期待を寄せるだろう。彼が悪行を為せば――もしくは、故意でなくともやってしまったのなら――世間は彼を糾弾するだろう。

 そのどちらもが、彼のような人間の精神を追い詰めるのは、想像に難くない。


 寄せられる期待には応える事しか出来ず。

 正論を突き付けられたなら、それから逃れる術を知らず。


 どちらにせよ精神的な負荷が掛かる事を知っているから、彼は何もしない。何かをして賛美され、一時的な幸福感に包まれるよりも、何かをして罵倒され、長きに渡り心を蝕む痛みに苛まれるよりも、そっちの方がマシだと信じて。

 孤独に何もせずいる方が辛いように感じられるだろうが……彼にとっては誰かと関わる方が辛くなっていたのかもしれない。郷本との短い時間の対面の中での推理でしかないが、事実、彼はあの時、一切母親を視界に入れようとしなかった。家族と何かを話す事すら避けていたのかもしれない。

 それでも、友人であった私と話をしてくれたのは、彼に残った人間性の残滓だったのだろうか。あるいは……距離感として、友人と話す方が気が楽だったか。

 何れにせよ、世間の言う貢献せよという声から逃れた彼が世の為に何かをするというのは、目の前で子供が死に掛けているといった光景に出くわさない限り無いだろう。

 同時に、己にストレスを過剰に掛けてくるような者が現れない限り、誰にも危害を加えない。

 生きながらにして幽霊のようではないか。


 ……ここまで書いていて、ふと思う。


 郷本は言った。「人間を殺すなら、刃物一つあれば事足りる」と。

 そんな郷本に母親は恐れを抱いているようだったが……それは、彼が超人という理解の範疇の外の存在と化したからだと思っていた。


 ならば、彼が超人になるより以前からはどうだったのだろうか?


 彼が超人になるより以前は――勿論、彼自身はそんな事をするつもりはなかったであろうという前提での話だが――彼女は自分が刺されるかもしれないと、そんな可能性に思いを馳せていたのだろうか?


 僅かばかりの邂逅では、推測する事しかできないが……少なくとも見た限りでは、郷本と母親の心の距離感はかなり離れているように思えた。

 そうなったのは恐らく、彼が超人になった後だろう。

 郷本の言葉を信じるなら、そうなる以前は彼の両親は彼に色々と口を出していたのだから。

 そして、郷本はそんな両親を快く思っていなかった。

 もし郷本が、乾ききっているどころか荒んだ心になっていたら、ニュースで報じられているような凶行に及んだ者達のように、何かしらの行動を起こしていたかもしれない。

 自身の親に殺意を抱いたかもしれないし……あるいは、自分の首を絞めていたかもしれない。

 だが、少なくとも彼の両親は、彼がそうなるとは思わなかったのだろう。

 そして、彼が超人になった後恐れるようになったのは……はたして、彼の事をどう思っての恐れだったのだろうか。

 ただ異質な存在だから距離感を掴みかねているのであれば、まだいい。

 だが、もしそれが自身の命の危機を感じての事だったなら――なんという皮肉であろうか。

 生きるという事は常に死と隣り合わせにある。ちょっとした出来事が切っ掛けで死ぬ事だってままある、そんな世の中だ。人々は成長していく中でそれを認識していくが……困った事に、それが人間相手になると話が変わっていく。

 余程用心深かったり、相手に嫌われまいとする精神の持ち主であるならともかく、多くの人々は他人の心の移ろいには非常に鈍感だ。

 例え善良な人間が相手だろうと――あるいはそう認識している相手だろうと――たった一つの言動や行動から、後に響く程の嫌悪感を抱く事もある。些細な切っ掛けから関係が拗れるという光景を、私は幾度となく見てきた。

 そうした拗れは、時として殺意を生み出すのだ。

 だが、悲しいかな。人というのは相手の心情を、言葉や表情から読み取る生き物。しかもそうして読み取った心情の推察ですら、己の心次第でいくらでも変容する。

 結果、己にとって大したことではなくとも、相手にとっては殺意を抱かせるに十分という認識の差が生まれてしまう。自殺を選ばざるを得なかった人と、その周囲の人々の場合にしてもまた然りで、そこには必ず、決定的に埋めがたい溝が存在するのだ。


 多くの人々は、そうした出来事をテレビや新聞といった媒体を通して知り、しかし心のどこかで、自分とは程遠い世界の出来事として捉え、話のネタにしながらその日を過ごす。

 だが、そんな場所にもいるかもしれないのだ。人知れず絶望を抱いた人間が。


 あれから私は自宅に戻り、こうして執筆しながら日々を過ごしているが、郷本がその後どうなったかは聞き及んでいない。

 少なくとも、あの日会った彼は人生に絶望しながらも、その超人の力を他者に向かって振るおうとはしなかった。それが怠惰さ故か善良さ故かはともかく、害を為さないという時点で十分マシと言える。

 だが――もし明日にでも、あるいは数秒後にでも誰かに牙を剥くような人間が近しい場所にいて、突如として彼と同じように超人と化したら?

 ただそこにいるだけの幽霊でなく、モラルの壁を壊す程の怨念を湛えた存在だったら?


 我々とて、そうならないという保証はない。


 今はただ……彼があの部屋で平穏で暮らしてくれるよう、祈るだけだ。

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引きこもりの超人、あるいは幽霊 Mr.K @niwaka_king

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