月は裏を人には見せない

 

「シンシア、いつまでご依頼主さま抱っこしてんよー!」


「私たちにも代わって下さいよー! 独占は卑怯です!」


「だめだめ、ムネ様は今日はあーしのおっぱいを枕にしておネムするんだから! ふふ……なんかムネ様を抱っこしてっと、凄くリラックス出来んだけど、これも何かのスキル? ヤバいわコレ……」


「え、あれ……?」


 念入りに肌を磨き、お気に入りのフレグランスと勝負下着バトルランジェリーとドレスを纏ったコレットは、ムネヒトを皆で取り合う光景に出くわした。

 酒場コーナーの彼が座っていたソファーは、何十名での大渋滞している。

 そのムネヒトは、ほとんど露出したシンシアの乳肌に頬を埋め快げに寝息を立てていた。


「あ! ごっめーん! コレット待ってる間にが依頼主様と遊んでたら寝ちったわ!」


 戻ってきたコレットに、シンシアは言葉ほどは悪びれもせずに舌を出した。


「ちょ、ちょっとー! なによなによなによ! せっかくイロイロ準備してきたのに、それってずるくない!?」


 湯上りの彼女は、渋滞を掻き分けながらシンシア……正確には寝ているムネヒトに詰め寄った。

 完全に寝ていた。待ってるとか言ったくせに待っていなかった。

 ムっとした顔を今度はシンシアに向ける。


「ズルくないしー? 元はと言えばあーしの客だったし、あのまま行けばあーしに個別依頼を申し込んでいたに違いないし! ねー?」


 半分は嘘で半分は本気だ。自分がその気になれば、ムネヒトをベッドに誘うことなんて容易だったという自負が当然ある。


「うーん……むにゃむにゃ」


「ほらー! うんっつったしょ?」


「言ってないじゃんベタの寝言だよどう聞いても!? てか、いつまでも抱っこしてんの! その人は『とっととシャワー浴びてこいよ。抱いてやる』って言ったのよ!?」


「それこそ言ってねーわ! あちょ!? ムネ様のズボン引っ張るのは反則だし!? 脱げる脱げるって!」


 一人の男を奪い合う二人。シンシアはムネヒトの頭を胸に抱えたまま、コレットはソファーに投げ出されていた脚を掴んで引っ張った。

 ちなみにムネヒトは全く起きようとしない。

 このままでは彼の服が海老の殻のように剥けてしまうだろう。しかし誰も止めようとしない。皆でムネヒトのムキエビを待っていた。

 寝込みを襲うのは駄目だけど、事故なら仕方ないよね。ごくり。


「まったく、何をしてるでありんすか。みっともないから止めなんし」


 鶴の一声が発せられたのはその時だ。

 ギルドマスターの声を受け、シンシアもコレットも渋々といった様子でムネヒトから手を離す。

 不平を言おうと振り向いたコレットだったが、ディミトラーシャの姿を見てハッとする。


「ま、マスター! それ……!?」


 ギルドマスターの身体については『クレセント・アルテミス』の冒険嬢なら誰もが知っている事だ。

 彼女の境遇を知って心を痛めなかった者はいない。また、ディミトラーシャの身体を嘲って無事だった男もいない。

 だがどうしたことだ。

 いつの間にか彼女も湯を浴びていたらしく、白いバスローブだけをまとった姿だ。

 ただ、開かれた袷から見える肌には何の傷も無く、今にも零れそうな豊かな乳房には何らの欠点も無い。

 ディミトラーシャはコレットの呆然とした視線を受けて、面映そうに微笑んだ。よく見れば、目尻が赤く腫れていた。

 だが言葉としてではなく、酔って熟睡しているムネヒトの頬を撫でることでその返答とする。


「本当に、大したものでありんす……ジョエルにはお礼を言わないといけないでありんすね……」


 不意に彼女はムネヒトを抱き起こし、その胸に頭を抱える。ディミトラーシャくらいの実力者になれば、男の眠りを妨げることなく自分の身体に抱くことが可能だ。

 まだ湿っていた肌に張り付くムネヒトの黒髪を、むしろ愛しそうに眺める。両腕は背と後頭部に巻かれ、生半可な力では剥がせないだろう。

 冒険嬢達の顔に、うっとりと男を抱く彼女を邪魔してはならないという感情と、一つしかない財宝を独占されやや面白くない感情とがその顔に浮かんでいた。ちなみにコレットなどは後半の方が感情が強い。


「恩も、返さないとなりんせんねぇ……」


 時計の針が数周した時、ディミトラーシャはポツリと呟いた。彼女は目を細め周りの冒険嬢を見やる。

 皆が表情を改めたのは、彼女の顔が情婦からギルドマスターの物に変化していたからだ。


「ぬしら。この――ぅひゃぁっ!?」


 だがその変化は可逆反応だったらしい。


「あっ、あっ、こ、これ……まだ話中でありんすから……!」


 見ればムネヒトがモゾモゾと動いている。眩しかったのか眠りが浅い時間帯なのかは分らないが、彼はウンウン唸りながら、極上の枕に顔をしきりにこすり付けていた。

 唸りながらとはいうが、良い夢を見ているのだろう、ムネヒトの顔はとても幸せそうだった。

 急に完全に甦った彼女の乳肌は、男という物を懐かしいというよりも新鮮な刺激で感受していた。


「やめ、やめなんし……! あぁっ! そ、んな強くっ、グリグリって鼻を押し付けられたらぁ……!」


 彼女もモジモジくねくねと身体を震わせ、はだけていくバスローブをむしろ加速させているようにも見える。バスローブは既に肩から滑り落ち、己のバストサイズとムネヒトの頭で支えているだけになっている。

 じゃあご依頼主様を離したらどうですか、とは誰かが進言すべきなのだろうか。


「ふぅ、ふぅ……もう……しょうがない人でありんすねぇ……そんなにわっちのが欲しいでありんすかえ? でありんしたら、今からわっちの部屋でぬし様と……――はっ」


 ジトっとした冒険嬢の瞳に包まれていることに、ようやくギルドマスターは気付いた。

 おほんと一つ咳払いし、バスローブを羽織りなおすと取って付けたような真面目な顔になる。


「しょうがないでありんしょう!? もう五年以上ご無沙汰なんでありんすから!」


 だがその顔は赤かった。なんの言い訳だ。

 彼女はもう一つ咳払いすると、今度こそ表情を真剣なものに変える。


「この男、騎士にしておくのは惜しいとは思いんせんかえ?」


 皆の瞳に剣呑な光が走る。それは膝に媚態を作る猫から、獲物を襲う雌ライオンのものになるほど強烈な変異だった。


「ご依頼主さま……ムネヒト様を第二騎士団から頂戴しようと思いんすが、反対はありんすか?」


 場は騒然となった。

 この『クレセント・アルテミス』が出来てから約五年、男のギルドメンバーは一人として居なかった筈だ。

 別に男子禁制を貫いていた訳ではなく、今でもギルドメンバーになりたいという男が時々現れる。

 しかし男達の本当の目当てが、自分達の肉体にあるのは面接するまでもない事だ。仲間になれば、タダでヤり放題とでも勘違いしているのか。馬鹿にするな。


 実力も性格も、共に優れた人物というのは得難い。

 玉石混淆は世の常であるが、裏にはの方が多いように思える。

 全てという訳ではないが、表で何かしらの問題を起こしてしまい、裏に落ちてきたというのが一般的なので仕方ないのかもしれない。

 だからこそ、是が非でも良い人物とは良い縁を結びたいのだ。


「縁を、一夜限りの物にしてしまうのは余りに惜しいでありんす。このまま帰してしまうと、きっとムネヒト様はもう二度と此処へは来んせん」


 シンシアもコレットも他の冒険嬢達も、薄々は感づいていた事だ。

 酒宴を楽しんではいたようだが、あと一歩を踏み込ませない予防線のような物が見えていた。

 それは女の扱いに馴れた年長者の振る舞いではなく、家の中で嵐が去るのを待っていた者の考えに近い。


 彼女らにとって、美は武器であり財産である。しかしこの財産は年月と共に価値が失われていく。自分たちはエルフでもサキュバスでもないのだ。

 老化という残酷な真理は、悪魔のような勤勉さで女達を責めてくる。遅らせることはできても、止めることなど出来ない。ましてや逆行など。


 どれだけ丁重に扱われようと、彼女らの肉体は傷つき、痛み、消耗していく。若さのエネルギーを美に費やしてもなお、劣化からは逃れられないのだ。


 仮に『最上級治癒薬グレートポーション』が老化を癒すとしても、簡単に試せるはずが無かった。

 気持ちは分かるが「おっぱいが垂れてきたから『最上級治癒薬』を飲ませて下さい」という者など何処の世界に居る? 絶対の効果が保証されているワケでもないのに。


 だがムネヒトはそれが出来た。総勢78名の身体的悩みやダメージをことごとく癒し、皆見るからに肌艶が増した。

 特に自慢のバストなど、自分でも信じられない位だった。

 もし胸の膨らみ始めた頃の若さを、少しも失わずに保ち続けたらこんな胸になるのでは無いか。


 これはもはや治療でもアンチエイジングでも無い。奇跡だ。


 何としてでもこの男が欲しい。人の――女の夢を体現する彼と、どうしてこのまま別れることが出来ようか。

 ディミトラーシャはムネヒトをより一層の力で抱き締める。久しく忘れていた男の肌と、強烈な独占欲が彼女を燃え上がらせていたのだろう。


 急な話に戸惑う冒険嬢は多いが、それでも得られるリターンは遥かに大きい。

 ダンジョンへ挑む冒険者が、壊れることの無い剣を手に入れるようなものだ。その価値を理解していないものは、此所には一人もいない。


「ぬし様、起きておくんなまし、ぬし様……」


「んぬぅ……ー?」


 胸の間から返事があった。まだ半分以上は夢の中に居るらしいが、それはそれで好都合だ。


「ぬし様、おっぱいは好きかぇ?」


「……好きか嫌いで言うなら、死ぬまで共にありたひ……」


 好きか嫌いかで答えてなかったが、疑いようもない。


「くふふふっ! そうかぇそうかぇ。わっちもぬし様のような殿方は嫌いじゃありんせん。そこで、とっても、美味い話がありんす」


 スウ、とディミトラーシャの目が一際細くなる。


「ぬし様、この『クレセント・アルテミス』で働きんせんかぇ?」


「はちゃらく~……?」


「そう。もちろん金子はたんまり出しんす。それに、何時でも何処でも、わっちらの胸を味わって良い権利をぬし様には特別に与えんしょう。さ、どうでありんしょう?」


 寝ていても彼の潜在意識を刺激する単語があったのだろう、にわかに覚醒の度合いを増した。


「んー……いつでもおっぱい……夢のような仕事だ……」


「で、ありんしょう? ならば――」


「でも、駄目だ」


 呂律の回らない舌で、きっぱりと拒絶の言葉を吐いた。

 ディミトラーシャはやや目を見開き、簡単にコトが進むと思っていた自分の予想が早合点に過ぎない事を理解した。

 他の冒険者もまた、ムネヒトの拒絶に意外とする者が多かった。


「俺には、将来、迎えたい人が居るんびゃ……だから、彼女を、裏切るような事は……」


 彼は再び夢の中に戻っていった。

 別の女の胸で眠りながらの台詞は滑稽ではあるが、拒絶は拒絶だ。無意識に近い状態でも断るという事は、よほど固く決心しているのだろう。


「……そうでありんすか」


 そう言って、彼女はムネヒトを解放し自分の膝に乗せ変えた。彼の体温に暖まっていた乳房が、室温に冷されていく。

 いつだって、良い男や良い女がフリーなんてことは稀だ。

 分っていたことだ。欲しいと思ったモノが誰かのモノだったという事なんて、珍しくもなんともない。


「なら、仕方無いでありんすね……」


 呟き、彼の頭を一撫でする。そして流し目のまま周りの冒険嬢を見回した。


「ぬしら。恩を返すために、恩知らずになる覚悟はありんすか?」


 ギルドマスターの言葉に、誰もが慄然とした。

 彼女の瞳が、唇が、そこから覗いた舌が濡れたように光る。他に寒気を覚えさせるほどの妖艶な美貌は、男を魔の谷へと誘う月の光だ。


「想い人がいると、言いんしたね……」


 彼女と関係をもった者達が、争うようにディミトラーシャに高価な贈り物を繰り返し、実際に決闘にまで発展した例はいくらでもある。

 彼らもこういう気持ちだったのだろうかと、男心に一つ詳しくなった自分に対し小さく微笑んだ。

 言い寄ってきた男は山のように居るし、知らず知らずのうちに他の女から男を寝取ったらしい事もあったが、そういえば自分から迫った事は無い。

 たまには良い。追う側の気持ちになってみようじゃないか。

 この男にはどうやら、将来を誓った女かそれに近い存在があるらしい。

 けど。


「けど……そういう男を奪ってこそ、女というものでありんしょう?」


 そのどこまでも妖艶な笑みは、寝ているムネヒトには見えなかった。

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