夜の道とシャワー

 

「んんぅ……もう飲めない……」


「なんてコミックな台詞なんだ……やっぱりワザとか?」


 あれから俺達は、再び宴席に戻り何事もないように飲み食いした。幸い誰にも(エリアナ以外)気付かれてない。

 合コンで抜け駆けし、逢引していたかのような気まずさがある。合コンも逢引も経験ないんだけど。


 エリアナの生暖かくて意味深な視線をずっと感じていたが、無視してミルクババロアに集中していた。野生の猿では無いが、目を合わせると危険なことくらいすぐ分かる。

 メリーベルがエリアナと同じ卓について何かを話していたから、先ほどの事が広まることは無い……と思いたい。後日、俺も釘を刺しておこうと思う。


 それで結局、メリーベルはすっかり酔い潰れてしまった。テーブルに突っ伏し、呂律の回らない舌でムニャムニャ言ってる。

 酒に弱い訳では無いが、自分の酒量を弁えずにハイペースで飛ばしたのだから当然ちゃ当然。初飲み会で潰れてしまう新成人のようだ。


「さて、そろそろお開きだな。じゃあ二次会に行く奴は俺に着いてきな」


 タフだな……まだ飲むのか。しかも団員のほとんどがジョエルさんに着いていくらしい。


「すいません、自分はお先に失礼します」


 その中でアザンさんは極少数の例外であり、宴席を辞去する。後に聞いた話だが既婚者であり、妻と幼い娘がいるらしい。

 小さく頭を下げる彼に、団員達が退席を惜しみつつお疲れ様でしたと口にしていた。


「じゃ、副団長はハイヤさんが送って行って下さい。どのみち本部に戻って、退去の身支度をしないとならないでしょう?」


 二次会に行くらしいエリアナ嬢が、信じがたい提案を寄越してくる。酔った若い女を若い男に押し付けるのは、信頼では無く無頓着というもの。

 そういう関係の男女ならともかく、俺とメリーベルは違う。


「あのなあ……行き先が同じだからって、乗り合わせの馬車タクシーじゃないんだから。出来ればエリアナかレスティアかにお願いいたいんだけど……」


 お互いの為やんわり断るのが正解だ。無論、放置という選択肢も無い。したがって同性に任せるのが一番だ。

 そこまで言うとエリアナは何故か怖い顔になり、俺へ詰め寄ってきた。

 そして囁くように俺へ耳打ちする。


「ピヨピヨ。せっかくお膳立てして上げるんですから、しっかりして下さいよ!」


「おい雑ヒヨコこら」


 面白がってんじゃねーぞ。

 俺はレスティアに助けを求めようと視線をそちらに向ける。


「私もすぐに本家に戻らないとなりません。父と母に、狩猟祭勝利の報告をしないとならなくて……」


「そりゃお疲れ様だけど、今日の内に?」


「……父がささやかな祝勝会の準備をしていまして……私はそっちをすっぽかして来たわけですから、顔くらいは見せないと」


 父が拗ねてしまいますとレスティアは結んだ。

 聞けばリリミカも今日はクノリ家の屋敷に帰り、泊まってくるのだという。これはレスティアも何だかんだと理由をつけられて、泊まるパターンだ。

 B地区に来るまでは一人暮らしだったし、父親も娘に会いたいのだろう。


「ムネく……ハイヤさんなら心配ありません。副団長をよろしくお願いします」


 なんて情けない信頼なのでしょう。


「じゃあせめて、本部まで一緒に……」


 二人に随伴を求めた辺りで、腰に妙な力を感じた。振り返ると、メリーベルが手を伸ばし俺の服の裾を掴んでいる。


「……眠い、帰る……」


「お、おうそうか。今エリアナとレスティアに頼んでるから、もうちょっと待っててくれ」


「嫌だ。二人で帰りたい……」


「!?」


 ご指名ですか!?

 まぁ♡ という顔をしているエリアナに色々言ってやりたいが、むんずと掴んだメリーベルの手がそれをさせない。


「ピヨピヨ、これはもう送っていくしか無いですねぇ! いいなー! 私も素敵なカレシ欲しーなー!」


「茶化すな! そんなんじゃ無いって! ほら、副団長もワガママ言わないで下さいよ……」


 メリーベルは顎を机に乗せたまま、半目で俺を睨んでくる。顔は真っ赤で瞳は潤み、いつもの眼力の一割未満だ。


「……きさまー……重ければ、自分が持ってやるって言ってたじゃないかー……今日はもう体が重いんだ……」


「いや、あれは剣の事であって……」


「わたしと、すぴきゅーる、どっちが重いと思ってるんだー?」


「そりゃあ……まあ、剣だって軽くは無いだろうけど、人体と比べたら……」


「ぅぅう~! 私が太ってるって、言いたいのかー!」


「言ってないだろそんな事!」


 酔っぱらい面倒くさいな!


「だったら良いだろー……」


「いやだから……」


「……私と、帰るのはイヤか?」


 ……その殺し文句はズルいぞ……。

 助けを求め視線をさ迷わせるも、有るのはエリアナとジョエルさんのニヤニヤした顔と、レスティアの目を大きく見開いた顔と、団員達の鬼のような形相だった。


「おいムネヒトォ……てめぇ副団長泣かせたらマジでぶち殺すからなぁ!?」


「第二騎士団全員でボコボコにして大森林に埋葬してやるぞボケが!」


 怖いな!?


「副団長幸せにするって誓えー!」「式には呼べよ!」「泣かすんじゃねぇぞハゲ!」「団長への挨拶考えとけ!」


 双子騎士を皮切りにアチコチから父性の暴走ゆえか、物騒な脅し文句が飛んでくる。

 ほぼ100%の酔っぱらい集団にあっては、酔いの浅い俺こそが異端。酒量を弁えて正しく飲んだ筈なのに、その俺が悪酔い連中の的にされるのだから、何とも不条理だ。二日酔いになっちまえ。


 結局俺は押し切られ、メリーベルを背負って帰る事になった。


 ・


「ありがとう……ムネヒト……」


 星の降りそうな夜だ。『酔い醒まさず亭』から最短で本部に帰るため、俺はメリーベルを背負い人気の無い路地裏を歩いていた。


「良いって。初めてのお酒で酔っぱらうなんてのは、別に珍しい事じゃない」


 大通りの喧騒や人の作った灯りが、いくつか建物を隔てて別世界のように遠い。

 体感気温が人の密度と比例するとは限らないだろうが、ここは幾分ひんやりしていた。

 アルコールに火照った頬に風が心地いい。


「いや、まあそれもだが、色々とだ」


 天井の星空は路地裏の形に切り取られ、密度の薄い天の川にも見える。この世界の星達に名前があるのなら、いつか誰かに訊いてみたい。


「剣が抜けたのは……お前のおかげだ。本当に、何と御礼を言ったらいいか……」


 頭が冷えてきたのか、まだ夢の世界にたゆっているのか、メリーベルの言葉は独り言か否かの判断もつかない。


「どういたしまして……と言いたいところだが、きっと違う。俺の血なんかが理由にふさわしいとは思えない」


 俺としては『頑張ったから剣が振り向いてくれた』という、少女の一途な片想いが実った的な展開だと思っている。少女漫画なら王道の展開だ。


「メリーベルがずっと大切にしてきたから、スピキュールもお前の事を好きになったんだろ」


「――……!」


 ありきたり? 面白味の無い? 報われるってのは、そういう物で良いじゃないか。

 繰り返すが、俺に真相を確かめる術など無い。俺の考えを誰かに押し付けるつもりだって無い。

 けど神に逢ったからとか血を浴びたからとか、メリーベルの頑張りと無関係な理由だとは思いたくはなかった。


「俺がそう思いたいんだ」


 つまりは俺の願望だ。俺にとって都合の良い事実を、俺の真実として解釈しているだけの事。


「意外に……ロマンチストなんだな……」


「なんだ、からかう気か?」


 囁くようなリアクションに苦笑いで応じる。

 たまにはシンプルに思考し、ロマンチックに想像しても良いだろ。


「…………」


 回された腕に力がこもる。断崖でも高所でも無いが、ぎゅうと強く密着してきた。自然、メリーベルの柔らかい熱が伝わってきた。

 霊峰マウント・メリーベルが俺の背中で標高を低くしていく。特に深い意味は無いが暗くて良かった。


「……寒いのか?」


 声が震えなかった事を誇りたい。足はガクガクだが、今の酔ったメリーベルなら多分気付かれまい。


「いや、暖かい…………」


 それっきり彼女は静かになってしまった。寝てしまったのだろう、無理もない話だ。


「お疲れ、メリーベル」


 星白い道を二人分の影を連れて歩く緩やかな時間は、今日一番の贅沢だった。


 ・


「ちょっとシャワーでも借りよう……」


 宿舎に帰りメリーベルを部屋のベッドに寝かせる。

 買ったばかりらしいこの服はどうしたものかと考えていると、メリーベルがムニャムニャ言いながら脱ぎ出したので慌てて退出した。身に付いた習慣とは頼もしくも恐ろしい。


 酔ったメリーベルと二人きりという事実に何となく居たたまれなくなり、シャワーを借りて頭を切り替えようかと思った次第だ。

 どのみち明日、もしかしたら今夜中にはココを去らねばならない。長いようであっという間だった更正騎士生活。終わってみれば何となく名残惜しい。


(お勤め終了の手続きってのは、レスティアが行うんだろうか? それとも――)


 本部のシャワー室は一般的なビジネスホテルのそれより広い。タイルが敷き詰められ部屋の真ん中をカーテンで仕切ってあり、その内側にシャワーヘッドがある。椅子もある。銭湯の洗い場を切り取った感じだ。

 細かい原理は不明だが、水を地下から吸い上げ火と風の『魔石』でシャワーにしているという。水路設備、シャワー、銭湯、水洗トイレなどは初代クノリの布いた物らしい。

 湯を頭から浴びながら物思いに耽っていると、コンコンとドアを叩く音がした。幽霊とかではない限りメリーベルだろう。


『……ヒト、ムネヒト……』


「メリーベル、起きたのか。すまん、シャワー勝手に借りてるぞ」


『…………』


「…………?」


 ノックの主が急に黙ってしまった。実はでっかい寝言だったのか? と思い始めたところで、再び俺の名を呼んだ。


『…………一緒に入っても良いか?』


「ブフォッ!?」


 俺も悪酔いするレベルで飲酒していたらしい。幻聴が聞こえるもの。


「げほげほげほ! お、おまっ! 何言ってんだ!? シャワー浴びたいのなら、すぐに出るからちょっと待ってろ!」


『か、勘違いするな! 特にイヤらしい意味ではないぞ!? 古来よりお互いを良く知るには裸の付き合いがあるというらしいから、それを実行しようとしているだけだ!』


「まだ酔ってんじゃないだろうな!? 酒の入った身でお風呂は危険だから、色々な意味で止めとけ!」


『なら大丈夫だ! 酒は一滴も飲んでいない!』


「何でそんな直ぐバレる嘘を付くんだ!?」


『嘘じゃない! それに…………』


「……それに?」


『お前は……明日には居なくなってしまうのだろう?』


「――……」


 サーッというシャワーの音だけが響いてた。言葉の意味を図りかねたワケではない。不意に湧いた寂寥感は、水の流れよりも頭の芯を平静に近づけていく。

 裸の付き合いという手段はともかく、メリーベルなりの歩み寄りだと思うと無碍にするのも気が引ける。


『少し話すだけだ。……ダメか?』


「んんん……ぐぐぐぐぐ……!」


 苦悶、逡巡、葛藤。


「……分かった。良いぞ……」


 そして決断。

 返事を受けて、ドアの向こうで布の擦れる音が聞こえてきた。俺は水の勢いを強くして、その音を掻き消した。

 俺さえしっかりすれば良い。目を瞑って会話すればあるいは耐えられる。場合によっては自分の乳首をつねって、スケベ心を経験値として還元してしまえば済む話だ。

 江戸時代の銭湯じゃ混浴が主流だったというから、ある意味これは原点回帰。そう思えば何の事はない。無いのだ。


 やがてガチャと、後ろのドアが開く。無意識に振り返りそうになった首を力で抑え、俺は何事も無いように湯を浴びていた。

 ヒタヒタと気配が歩み寄ってきて、シャッとカーテンが空いた。


「初めまして。第二騎士団団長、ガノンパノラ・ファイエルグレイです。娘がお世話になっております」


 古代ギリシャ戦士の彫刻みたいな男が素っ裸で立っていた。浅く日焼けした肌に赤茶色の髪と同じ色の瞳、一年二年では作れそうに無い重厚の風格を纏っている。


 ここでお父さん!? 今お父さん!?


『では父上、私は先に休みます。ムネヒト、今日は本当に良くやってくれた。お前もゆっくり休んでくれ』


 一緒に入っても良いかって、お酒を一滴も飲んでいないって、父親の方か!? 乳じゃなくて父かよ! これ異世界初日にもやっただろチクショー!

 返せ! 俺の苦悩とか覚悟とか磨り減った理性とか実は期待していた男心とか、色々全部返せ!


「ご一緒しても?」


「あ、ウス。どうぞッス」


 彼、第二騎士団団長のガノンパノラは隣の椅子に腰掛けた。


「……」


「……」


 いや、何故に?

 銭湯とかならともかく、狭いシャワー室に野郎二人でイン? 王都では普通なの? アナザー・カルチャー過ぎではありませんか?


「申し訳ない。娘でなくてガッカリしたかな?」


「へぁッ!? いやいや、お構いなく!」


 心臓に悪い冗談(?)は止めて下さい! と叫びたくなるのを必死で我慢しつつ、何となく水を使いすぎているかもと、どうでも良い心配から蛇口を絞る。

 そこでふとシャワーヘッドが一つしかない事に思い至り、少し悩みながらも年長者に譲るべきかなとそれを差し出した。


「あ、えっと……先に使いますか?」


「構わない。私は既に共同浴場に入ったきた」


 じゃあ何で入ってきたんだよ!?


「何故入ってきたか、合点が行かない顔をしているね」


 娘に『父親とシャワー浴びて』と言われて、すぐ納得できる方が問題では? とは口に出さない。


「実は前々から君と話したいと思っていた。肩書きも身分も年齢も関係なく、メリーベルも言っていた通り裸の付き合いというヤツでね」


「はあ、それはどうも……」


 実はこの親子って天然じゃなかろうか? 対話の場にシャワー室を……しかも初対面でチョイスする?


「だがまずはそうだな……」


 そう言って彼はさっと向き直る。メリーベルより若干茶色掛かった赤色の瞳を、真っ直ぐ俺に向けてきた。なるほど確かにメリーベルの実父だ。鋭い眼力に遺伝を感じる。


「第二騎士団団長として、また一人の王国民として貴殿に謝罪と感謝を申し上げたい」


 俺が身構える早く、彼は深く頭を下げた。瞳と同じ色をした頭の旋毛までハッキリ見えるほど、その面を下げた。


「サルテカイツ家の暴走を食い止め、狩猟祭において比類ない活躍をしたと聞き及んでいる。どれも本来は我々のみで為すべき責務だというのに、貴殿に多大な迷惑を掛けてしまった」


「……――」


 頭を上げて下さいと言おうとして止めた。

 団長には団長の責任があり立場があり、また父親としての思いもあるのだろう。彼の苦悩も苦労も一切分からないが、決して楽なものではなかったくらいの事は理解できる。

 だから、彼のいう謝罪と感謝を受け取るべきだと感じた。

 その場その場の流れに身を任せてばかりだったが、俺のしたことが誰かの為になったというのなら重畳。喜ばしいことだと思う。


「……顔を上げて下さい。俺は色んな人に助けてもらいました。メリーベル……さんにも、団員の皆さんにも」


 俺は最後の方にちょっと手を貸しただけのことであり、それだけで主演男優を語るつもりなどない。それまでに至る道程の中で、彼らが積み上げてきたものこそが尊い。

 もちろん俺だって頑張ったし、良い事したのではと密かに自分を誇ったりしているが、俺個人で成し遂げられたことなど少数、というか皆無だろう。


「運がよかっただけ……とは言いませんが、俺が全ての成果の中心に居るわけではないです。俺が関わってこれたのは皆のお陰……つまり、ええっと……」


 酒の魔力だろうか、それとも本当に裸の付き合いとやらの影響だろうか。やけにクサいことを言ってる気がする。吟遊詩人と揶揄されても、もう文句は言えないかもしれない。


「俺が皆の手伝いをしたかったんです。良い人ばっかりだったから、力になってあげたかった」


 俺は聖人君主ではない。右頬をぶたれたら左頬を差し出せという精神に至るには、何百年生きたって足りないだろう。

 出逢った人々が気持ちの良い連中だったから俺が手を貸した。傲慢な言い方をすればそういう事だ。

 逆にパルゴアも土人形も第一騎士団の副団長も、気に喰わなかったから殴った。カロルをやったのはメリーベルとクモ公だったけど。


「第二騎士団という良い人の縁に恵まれました。だから俺からもお礼を言わせて下さい」


 そこまで言うと彼は顔を上げ、幾分穏やかになった赤錆色の瞳を向けてくる。


「人の縁か……ならば娘も、メリーベルも君にとっては良い縁だったのかな?」


「勿論。彼女ほど魅力的な女性に出逢えたことこそ、人生最大級の幸運ですよ」


 嘘では無いが、随分良く回る舌になったものだ。

 下手すれば黒歴史に認定されそうな台詞を吐く俺。しかも父親の前で。本人には恥ずかしくて言える筈もない。

 後々思い出して、シーツと枕に暴力の限りを尽さんばかりの恥かしい言葉の雨あられ。温シャワーではなく冷水シャワーで頭を冷しておくべきだった。


「ふふ……そうか、そう思ってくれるか……」


 小さく俯き笑った。メリーベルと似ている、いや、メリーベルが似ている笑い方だ。俺も釣られて笑いそうになったところで、団長は顔を上げた。

 その顔、真面目な表情だが何かを思いついた顔に、俺は何故か背中に冷たい物を感じた。

 嫌な予感がする。そして大体、予感というのは嫌なモノの方が当たる。


「どれせっかくだ。背中を流そう」


「!?」


 この人の距離の詰め方変じゃない!?


「戦い抜いた勇士の背を流す誉れを私にくれないか? おや、タオルが無いな……」


「あ、じゃ、じゃあ、結構ですよ……団長殿のお手を煩わせるわけには――」


「仕方が無い、では素手で良いかね?」


 俺は牧場まで逃げ出した。


 ・


「はて、何か無礼をしてしまっただろうか……」


 ガノンパノラとしてはちょっとした冗談のつもりだった。だがジョエルやバンズに堅物といわれる自分の、自身でも珍しい冗談は盛大に空振ってしまったらしい。

 彼は早口で謝辞を述べ、この部屋に置いていた少ない荷物も置いたまま髪も乾かさず走り去ってしまった。

 まさに疾風のような足の速さで第二騎士団の本部を後にした。あれはほとんど逃亡だった。

 悪い事をしてしまったかもしれない。だが自分の冗談の何がそんなに悪かっただろうかと、内心頭を捻る。後日、ジョエル辺りに聞かせてみて反応を見ようと思う。


「む……メリーベル、まだ起きていたのか」


 髪をタオルで乾かしたガノンパノラは、シャワー室の前で座っている自分の娘を発見する。彼女はドアのすぐ近くの壁を背に、膝を抱えて俯いている。

 話し声が聞こえなかったから、ムネヒトもメリーベルに気付かずに走り去ったらしい。


「どうした、気分でも悪いのか?」


 返事の無い娘重ねて声を掛けるが、メリーベルは膝に顔を埋めたまま何度も横に振るだけだ。意識はあるらしい。ならば一体どうしたというのだ。慣れない酒の酔いが抜けていないのだろうか? そう言えば耳が真っ赤だ。

 水でも持ってきてやるかと思案したところで、メリーベルは酒精のせいにしては真っ赤すぎる顔を上げた。


「……父上――」


 しかしその声色は、酔っているとは思えないほど明瞭な物だった。


「――お話が、あります」

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