第33話 先生の告白

翌日、教室に入ってきた優斗は、目をきらきらさせていた。自席にも寄らず、鞄を持ったまま沙耶の席まで来ると、席の傍で身を屈めて、どうだった? と問うてきた。昨日からずっと聞かれるだろうとは思っていたのだけど、なんと答えたらいいのか決められなくて、沙耶は結局曖昧に笑うことで結論を告げた。


「え…、なんで? あんまり好きじゃない人だった?」


優斗は更に沙耶の耳元で、こそこそっと聞いてくる。でも、決して悪い人ではなかったので、余計に返答に困ってしまった。


「…そういう訳じゃないけど……」


「だったら、なんで?」


ますます疑問らしい優斗は、曖昧に笑うだけでは引き下がってくれない。沙耶は幼馴染に対して、心の底から謝った。


「……ごめん…。今は、言えない…」


それが精一杯だった。沙耶の困った表情に、優斗も詮索をやめる。立ち上がった優斗は、明らかに沙耶に対して訝しげな視線を寄越してきていた。




その日以来、優斗は手紙の話に一切触れてこなかった。ただ、何気ない会話をしていても、どこかに、どうして? という雰囲気が漂っている。…このままずっと、黙っていなければいけないだろうか。出来れば、沙耶が優斗のお付き合いを微笑ましく見るように、優斗にも沙耶と先生のことを、微笑ましくとまではいかないにしても、否定はしないで欲しいと思う。もう、どうしても手放したくない、大切な気持ちなのだ。そこを、分かって欲しい。


(…無理、…なのかな、やっぱり…。…大人の人だし、担任の先生だし、……)


クラスメイトの中でも、優斗は特に崎谷先生に対して否定的のような気がする。…沙耶のことを心配してくれているのがその理由なのだったら、このままでは先生と優斗の間は険悪になるばかりで、沙耶とのことも分かってもらえないような気がする。


どうしたらいいのだろう。自分はただ、崎谷先生のことが好きなだけなのに…。

そんな思案に耽っていたら、一日の授業が終わってしまった。窓の外は雨雲が敷き詰められていて、陽の光は届かない。教室には電気がつけられ、白い光の中でクラスメイトがざわざわと帰り支度をしていた。


前の方の席の優斗は、部活があるので今日も手早く教科書を鞄の中に詰め込んでいた。こんな日にも練習って大変だなあと思う。でも、ラグビーは試合のときも天気は関係ないそうだから、練習も自ずとそうなってしまうのだろう。鞄に全てを仕舞いこんで席を立つと、沙耶の席の方までやってくる。沙耶はぎこちなく優斗と目を合わせて笑ってみせた。


「じゃあ、また明日な、沙耶」


「うん。部活頑張って」


「ありがと」


最近はいつもこんな感じになってしまう。でも、優斗も去り際に笑ってくれて、どうにか今日も一日の終わりを何事もなく締められそうだった。教室を横切り、優斗が教室を出ようとしたときに、扉から芽衣が顔を覗かせた。


「なんだ、芽衣ちゃん」


「あれ、優斗くん。これから部活?」


二人は教室の扉のところで立ち話をした。今日も練習に励みますよー、という優斗に、芽衣も頑張れーと声をかけてやっている。


「…芽衣ちゃん、こっちの教室に、なんか用事?」


「あー、沙耶にね。今日、一緒に勉強する日だから」


「あ、そうなんだ。じゃあ、芽衣ちゃんも頑張って」


ありがと、と芽衣が応えている。そして二人で笑いあって、優斗は教室の外へ出て行った。


芽衣はそのまま教室に入ってくる。そして沙耶のところまで来て、空いた席に鞄をとん、と置いた。そのまま椅子を回して、沙耶の机に肘を付く。教科書を片付けようとしていた沙耶と目が合って、芽衣が沙耶の顔を覗き込んできた。


「…沙耶さ、最近元気ないね」


芽衣が首を傾げながら、心配そうに言ってくれる。そうかな? と元気そうに取り繕っても、芽衣は引かない。


「そんなの、分かるよ。友達でしょ? どうしたのよ」


そこまで言って、芽衣はちょっと声を潜めた。…まだ、教室には五人ほどの生徒が残っている。


「…先生と上手くいってない?」


そんなことはない。ちゃんと普通に授業も受けるし、放課後の補習の後、芽衣が先に帰った後なんかは、少し話したりもする。先生はちゃんとやさしくしてくれているし、沙耶はほんの少し話せるだけでも嬉しいから、全然不満なんてない。


「なら、どーしたのよ」


いつの間にか、残っていた生徒も教室から出て行ってしまっていた。芽衣と二人で、補習のために来てくれる崎谷先生を待つ。


「…なんでもないわ」


どうやって相談したらいいのか分からなくて、沙耶は言葉を濁した。芽衣と優斗も友達同士だから、沙耶のことで揉め事に巻き込むのは良くないような気がする。


やがて教室の扉ががらっと開いて、崎谷先生が入ってきた。始めるぞー、という声は、いつもと変わりない。沙耶と芽衣は席を教室の一番前に移動して、そうして補習が開始した。


先生が教科書を片手に、今日も問題やその解き方、公式などを板書していく。沙耶たちはそれを丁寧にノートに写し、考え方のヒントをもらい、問題集の問いを解いていった。その進みは授業のときよりもやはりゆっくりなので、沙耶たちも安心して問いに一生懸命になることができる。


何問目かに取り組んでいたとき、ふと沙耶は崎谷先生の様子に気が付いた。いつもは沙耶たちが問題を解いている間、教卓から二人の手元を覗き込むようにして見ていてくれるのに、今日は教卓を離れて、窓際から外の景色を見ている。…もしかして、雨が降ってきているのかもしれない。


「…降ってきましたか?」


沙耶はシャープペンを持ったまま、窓際に凭れている先生に聞いてみた。先生が窓から顔を出して空を見上げる。


「まだ、もってるけど、そろそろ降ってくるんじゃないかな。もう空が真っ暗だからなあ」


空を見つめながら、先生が言う。もしかして、傘を持ってきていないのだろうか。こんな梅雨の最中に傘を持たないなんて、ちょっと考えられないけど、もしそうだったら、濡れて帰るのだろうか…。


(…でも、学校から傘に入れてあげるのは、出来ないし……)


先生の帰りを心配していたら、よし、最後の答え合わせ、と言われて、慌てて視線をノートに戻した。問いに対しての公式の使い方と、計算式の見直し、解答のチェックを終えると、丁度チャイムが鳴った。いいタイミング、と言う感じで、先生も教材をぱたんと閉じた。


「じゃあ、今日はここまでにしておこうか」


「ありがとうございました」


「ありがとうございました」


座ったまま礼をして、そして教科書を片付け始める。沙耶がノートを鞄に仕舞っていたら、隣の席に座った芽衣が肩を叩いてきて、先に帰るね、と下手なウインクを寄越してきた。


…少し恥ずかしく思いつつも、結局今日も、芽衣の好意に甘えてしまう。


じゃあ、また明日―、と手を振りながら教室を出て行く芽衣を見送ると、先生はまた窓際に立って外を見つめていた。


「…先生、傘、持ってきてないんですか?」


「うん?」


沙耶の問いに、先生が教室内を振り向く。


「だって、先刻から外ばっかり気にしてますよ?」


外っていうよりも、グラウンドの方かもしれない。空を見上げていたようには見えなかったような気もする。


「ん? ああ、ちょっとな」


先生が、言葉に含みを持たせる。何かを内緒にされているような気がして、沙耶は気になってしまった。


もしかすると、そんな気持ちのまま、じっと崎谷先生を見つめてしまっていたかもしれない。先生の表情が一瞬解けて、それから少し企みのあるような顔でにやっと笑った。


「……なに? そんなに気になる?」


意地悪な声音。こうやって先生は沙耶のことをからかうのだ。でも、沙耶も恥ずかしく思いつつも、教室の先生とは違うそんな顔を見れて、ちょっとどきどきしてしまう。


「………なりますよ…。…そりゃ……」


なかなかこういうやり取りになれないけれど、それでもこんな風に応えることも出来るようになってきた。一生懸命に沙耶が返事をしたら、崎谷先生はふわっと笑った。そして、窓際を離れて沙耶の座っている机に手を付いた。


近くから、見下ろされる。少し長めの前髪が沙耶の額に触れそうだった。黒目がちの瞳がじっと沙耶のことを見つめてきて、視線を逸らすなんて勿体無いこと、思いつきもしなかった。先生が、かたんと眼鏡を外す。


「…いいな、こういうの」


「……え?」


「沙耶がどんどん俺のものになればいい」


至近距離で熱を孕んだように囁かれて、心臓がどきどきした。ゆっくりと先生の手が沙耶の頬に触れて、鼻筋の通った綺麗な顔が近づいてくる。


……心臓を鳴らしたまま、ゆっくりと目を閉じた。あたたかい感触が掠めるように唇に触れたとき、廊下から喧嘩のような声がして、いきなりがらっと教室の扉が開いた。


「…………っ!」


「………、……」


沙耶は咄嗟に先生の手を逃れて身を離した。でも、立ち上がることは出来なくて、先生との体の距離は隠せなかった。


扉を開けて、肩で息をしているのは優斗だった。その優斗を後ろから押さえようとしている芽衣の姿もあった。


「沙耶…っ!」


優斗は叫ぶように沙耶を呼ぶと、走らんばかりの勢いで教室の中に入ってきた。引き摺られるようにして芽衣も教室に入ってくる。


「優斗くんっ! だから、本人の気持ちなんだから、仕方ないでしょっ!」


いくら長身の芽衣でも、男子の優斗は抑えられない。


「沙耶、なんでだよ! 約束したじゃんかっ!」


優斗が顔を歪めている。突然のことに沙耶が動けないでいるのも構わずに、優斗はどうして、と繰り返した。


…見られた。秘密にしておかなきゃいけなかったのに…。優斗にこんな顔までさせて…。


沙耶は、動くことも言葉を発することも出来なかった。更に優斗が沙耶に詰め寄ろうとしたときに、沙耶と優斗の間に先生がすいっと割って入った。


「先生! アンタ教師なんだろ!? 生徒にそんなことしても良いと思ってるのか!? 遊ぶだけだったら、適当な人、見つければいいだろっ!」


優斗の言葉は怒号に近かった。言葉に宿る敵意が、崎谷先生に真っ直ぐ向かっているようで、沙耶は胸が軋むようだった。


「違うの、優斗…っ。先生は悪くないのっ。……私が…」


なんとか優斗に、先生を責めないで欲しいと頼もうとしたとき、先生の口からきっぱりとした声がでた。


「本気だから、捕まえたんだろが。遊びだなんて思ったこと、一度もないわ」


崎谷先生が優斗の怒号と同じくらいの圧倒感で対峙している。先生の背中に庇われた沙耶は見ることが出来なかったけど、崎谷先生の目は驚くほど真剣で、その鋭さで優斗の目を切ってしまいそうなくらいだった。


先生の迫力に、優斗の息が一瞬詰まる。それでも本気だなんていう言葉は、俄かに信じられなかった。


「嘘だっ! 教師が生徒に本気になるなんて、信じられるか! 沙耶、沙耶は騙されてるんだっ」


「違う! 優斗! 私、本当に……、…本当に先生のこと好きなの……っ」


「……沙耶…っ」


優斗が悲壮なくらい顔を青ざめさせている。沙耶の告白に言葉を継げなくなった優斗に、崎谷先生が言い放った。


「お前がどう思おうと勝手だが、教師が生徒に惚れるのがおかしいって言うんだったら、俺は今から職員室に辞表出しても構わない」


「………っ」


優斗が息を呑む。それでも負けたくない一心で言葉を選んだ。…どうしても、沙耶を先生に渡すのだけは出来ない。


「い…、いい年した大人が、どうして十七のガキを本気で好きだって信じられるって言うんだ…っ。沙耶だって、…沙耶はまだ本当に純粋だから、適当な好意に流されてるだけなんだ…っ」


優斗の声が震えている。対照的な崎谷先生の声は、荒げていないのに教室内にぴしりと届いた。


「じゃあ、お前は、そんなガキの恋愛のつもりで沙耶のこと見てたのか。お前が持ってた本気って、それっくらいのものだったのか。…お前が本気で好きになった奴のこと、お前は信じてやれないのか」


優斗が驚きで目を見張る。強張った体を必死で止めていた芽衣も、口を開いた。


「優斗くん…。好きだった子盗られるのが捕られるのが悔しいのは分かるけどさ…、やっぱり沙耶の幸せが一番だと思わない…?」


更に目を見開いて、優斗は背後の芽衣を見た。芽衣は少し痛ましげに優斗を見つめる。


「…悔しいだろうけど、男だったら、好きな子の幸せ、喜んであげてよ……」



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