第32話 告白
終礼後、沙耶は優斗と一緒に教室を出た。優斗は本当ににこにこしていて、隣を歩く沙耶が、気を抜くと思案顔になってしまうのと対称的だった。
「沙耶。絶対教えてね」
「だから、そうじゃないかもしれないって」
今日、何度こんな会話をしただろう。そして、優斗の足取りの、軽いこと軽いこと。絶対そうだって! と、何故か自信ありげの優斗に、やっぱり苦笑してしまう。
「なにを教えてもらうんだ」
二人で廊下を歩いていたら、突然背後から声をかけられた。びっくりして飛び上がるかと思ってしまった。
「…なんなの、崎谷先生。人の話の盗み聞きなんて、行儀悪いですよ」
優斗の顔が、一気に剣呑な感じになる。声も不機嫌の色を隠さないので、沙耶は急にはらはらしてしまった。
「そういっても、お前が浮かれた声で話してるから、なにかと思うだろ」
「思っても、生徒のことに口出ししない方がいいですよ」
なんだかこのままだと怖い口喧嘩になってしまいそうだった。焦った沙耶は隣の優斗の腕をぱっと取った。
「優斗、もう行こ? 部活あるでしょ。先生、失礼します」
優斗の手を引いたまま、後ろの崎谷先生に頭を下げる。急いで階段を下りていく二人の後姿を、先生が眉をひそめて見ていたことを、沙耶は気付かなかった。
昇降口を出て、優斗がクラブハウスの方へ行ってしまうのを見届けてから、沙耶は体育館の方へ足を運んだ。学校周辺の土地がやや傾斜しているので、体育館の裏あたりはフェンスの外がコンクリートで固められて十メートルくらい下に落ちている。だから、フェンスの外を人が通ることもないし、体育館の扉のない壁の方は本当に人がいない。夕方だと影になるし、そこに入ってしまえば、もし遠目で見られても、誰なのかは判別が付きにくいだろう。
沙耶がそこへ行くと、影になったところに男子生徒の制服の人影が見えた。…彼が手紙の主だろうか…。
「……岡本さん…」
沙耶を読んだ声はやはり男の人のものだった。
「あの…、……あの、来てくれて、ありがとう…。……僕、どうしても岡本さんに伝えたいことが、あって……」
俯きがちに一生懸命話しかけてくる。影に目が慣れてくると、その人が眼鏡をかけていることが分かった。
「…以前、岡本さんに話しかけたときは、…急に先生が来たから、……それで…」
以前話しかけられたときに…? 先生が急に来たって…?
沙耶の頭の中で、引っ掛かるものがあった。…確か一度、昇降口で男子生徒に声をかけられて、そのときに崎谷先生に呼ばれたのだ。
あ、と沙耶が声を出したのと、男子生徒が言葉を発したのは、同時だった。
「岡本さんが、好きです…っ。僕と、お付き合い、してもらえませんか…っ」
…自分が思いついた出来事と、目の前の男の子が発した言葉にびっくりする。沙耶が驚いて言葉を継げないでいると、男子生徒は更に一生懸命に話しかけてきた。
「図書室で、…よく岡本さんのこと見かけてて……、あの、…最近来なくなってたから、……あの…」
目の前で、男子生徒が一生懸命に告白してくれているというのに、沙耶の頭の中には、あのときのことが蘇っていた。彼に会ったときに先生に呼ばれて教室に戻ったら、…こめかみにキスをされたのだ……。
そして、今は、先生のことを思い出して、襟の下に隠れている皮膚に熱が集まるようだった。
「あの……、その、…駄目、ですか……?」
弱々しい男子生徒の声が耳に届く。そうだ。何か答えなければいけない。
「…あ……、え、…っと、………ごめんなさい…」
彼の必死の問いに、あまりにも簡潔に答えてしまった。目の前で眼鏡の彼が少し俯く。でも、それしか言えないのだ。
「……そう、ですか…」
「…うん…、……ごめんなさい…」
「あ、いや…。…岡本さんにに謝ってもらうことじゃ、ないです」
「うん…、…でも、ごめんなさい…」
彼が言っても、そんな返答しか返せない。ごめんなさい、と何度も言う沙耶に、彼は泣き笑いのような顔をした。
「…じゃあ、ひとつだけ、お願い聞いてもらえませんか」
「お願い?」
「一度だけ、僕と駅まで帰ってください。…それで、諦めるから……」
彼の言葉に、少し迷った。痴漢の件を彼が言っているのだと思ったけど……。
「ごめんなさい…。期待もたせるようなこと、したくないんです…。そういうの、一番残酷だと思うので……」
彼の想いに応えられないという気持ちがあるから、そんな酷いことは出来ない。そうですか…、と彼が項垂れ、そして、ありがとう、今日のことは忘れてください、と言って体育館の影から出て行った。
…少し、残る、罪悪感。でも、気持ちに嘘はつけないのだ。こればっかりは、仕方ないと思う。
(…優斗になんて言お…)
取り敢えず、断った理由は聞かれるだろうな、と思った。そう思っていたときに、突然声が聞こえてびっくりした。
「良かったのか? 断ってしまって」
体育館の壁に寄りかかってこちらを見ていたのは、崎谷先生だった。あまりに突然現れるものだから、咄嗟に上手い言葉が出てこなかった。
「…っ、……んで……」
「なんでって、そりゃ、沙耶が俺に隠し事しようとするからだろ。どーせそんなこっちゃないかって思ったけど、本当にそうだとはなあ。つか、あの三年生、まだ諦めてなかったのもすごいっつーか…」
おとなしそうな子なのになあ、なんて、彼が去って行った方を見る。でも沙耶はびっくりした顔のまま、先生の顔を見てしまってばかりだった。
「……良かったの?」
「………え?」
「だから、断ってしまって。…ふつーの恋愛出来るチャンスだったんじゃないの?」
崎谷先生が薄明るい空を背に立っているから、目を凝らしても表情は見えない。でも、茶化すような口調にもかかわらず、声がなんとなく自虐的な雰囲気だった。
「…だったら、なんで最初のとき、あのタイミングで呼んだんですか…?」
もし、今の先生の言葉が全部本当なら、あの時先生は意図的にあの場に割って入ってきたということになる。なのに、どうして今、そんなことを言うのだろう。
「ん? 本当はどーなのかなーって思って。本当のことは、沙耶しか分からないからな」
「…分かってください…。先生、大人でしょう?」
「大人でも、自信ない時だってあるんだよ」
立場利用してない自信もねーし。
くしゃくしゃと乱暴に髪の毛を触って、そんなことを言っている。そんな風にしたら、綺麗な髪の毛が乱れてしまうのに。
「…利用してでもいいですから、そんなこと言わないで下さい……」
泣きそうになる。どんなことをしてでも奪ってほしいのは、先生だけだ。
「……悪い大人の見本だな」
「…悪くてもいいです」
「お前、そんなこと言って…。知らんぞ」
悪い大人だったら、嫌って言っても、離してやれんぞ。
脅したつもりなのだろうか。でも、沙耶にはこれから先ずっとの約束をもらったような気がして、心が震えるばかりだ。
「…離さないでいてください…。私は、先生が、いいです……」
先生が、好きなんです……。
やさしい先生も、悪い大人の先生も、全部全部が、好き。
沙耶が言うと、先生は体育館の壁から体を離して、影の中へと入ってきた。
「……やっとちゃんと言ったな」
やさしくて深い声が、沙耶の耳に届く。沙耶の前まで歩いてきた先生は、腕をそっと回して、沙耶のことを抱き締めてくれた。先生の言葉に応えるように、沙耶はきゅっとその背中にしがみつく。
「もう、離してやらん。…絶対だ」
耳元で告げられた言葉に、体が震えそうだった。濃くなっていく夕闇が、やがて二人を取り込んでいく。
学校の片隅で、二人はそっと、キスをした。
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