第20話 水の底-1
暗闇の空間の向こうで、誰かが話をしている。話をしている、ということは、そこに居るのは一人ではない。ぼんやりと、誰だろう、と思った。
体中がだるくて仕方ない。重たい腕や足は思うように力が入らず、かろうじて深呼吸だけは出来た。ほう…、と深い息を吐き出して、やはり重たい瞼をこじ開けるようにして持ち上げる。視界が霞んで見えて、沙耶は苦しくて少し泣いたのかもしれない、と分かった。瞬きをしたら、余韻の涙がひとつこめかみへと落ちていった。
クリーム色の天井を、薄い水色のカーテンが区切っている。カーテンレールから床近くまで落ちているそれは、勿論沙耶の部屋のものではない。少し、消毒用のアルコールのにおいがする。保健室だな、と分かった。
「……本当に、病院は良いのか」
「大丈夫だって言ってるでしょ。呼吸も収まったし、起きたら帰れるから。崎谷先生は、心配性ねえ」
男の人の声と、女の人の声。保健室には何度かお世話になったことがあるので、今の声の主は、崎谷先生と保健の沢渡先生だと思う。多分、今、沙耶のことを話しているんだろう。
「でも、本当にお前、何にもしてねーのかよ。倒れるなんてさ」
この声も知ってる。横尾先生だ。沙耶は開けた瞼を、重たさに耐え切れずにもう一度下ろした。体の奥に重たい鉛がぶら下がっているみたいだ。
「…してませんよ。なんで俺が岡本に悪いこと、しなきゃならないんですか」
聞いたことのない、明らかに不機嫌な崎谷先生の声。穏やかに微笑う教室での先生からは、想像の付かない声だった。
「だってよ、パニック障害ってストレスが要因のひとつなんだろ? お前がなんかしたって考えんのが、フツーじゃんよ。この場合」
「だから、してませんよ。傘に入れてもらっただけです」
「本当に、それだけかよ」
「それだけって、なんですか」
剣のある二人の声が短い言葉の応酬をしている。喧嘩腰なのが分かって、沙耶は重たい体を動かそうとした。でも、力が入らない。
「沙耶と一緒の傘に入って、沙耶がストレスに感じるようなことを、お前が以前してんじゃねーかって言ってんだよ」
「そんなこと、してません。なんで、俺が…」
「やめなさいっ、二人とも。ここは保健室なんだから、静かに…」
沢渡先生が仲裁に入ったタイミングで、沙耶はこほんと咳をしてしまった。無理に体を動かそうとして、とっさに上手に呼吸が出来なかったのだ。
「沙耶?」
咳の音と、ベッドが軋む音に気が付いて、カーテンが勢いよく開けられた。顔を覗かせた横尾先生が心配そうな顔をしている。
「大丈夫か、沙耶。苦しくないか?」
すぐにベッドの脇に寄ってきてくれる横尾先生に、頷いて返事をした。咳をしてしまったから、ちょっと顔がゆがんでいたかもしれない。
「辛いか? …泣いたな?」
「あ、…いえ、これは……」
こめかみを伝って落ちた涙のあとを、横尾先生が見つけて、心配そうに顔を覗き込んでくる。その向こう、カーテンの隙間から、保健室のドクターキャビネットの前で立ち尽くしている崎谷先生が見えた。じっと眼差しは沙耶の方を見ていて、でも、どうやって近寄ったらいいのか分からない、みたいな顔をしている。
…こんな、不安そうな先生、初めて見た……。
保健室はそれほど広くはないけれど、でもベッドの周りにはカーテンが巡らされていて、小さな声だと布に吸収されてしまうかもしれない。だから、なるべくはっきりと言った。
「これは、先刻、無理矢理体を動かそうとしたら零れただけで、泣いてないです」
「そうか」
安堵する横尾先生の向こうに立っている崎谷先生を見る。少し表情が和らいだように見えるのは、きっと見間違いじゃない。…胸の奥がじんわりとあたたかくなってしまって、困る。
どうして、こんなに生徒のことを思い遣ってくれる先生のことを怖いなんて思ったんだろう。沙耶は自分で自分の感情を責めた。あの時だって、傘を差し出したのは沙耶なんだから、先生には全然悪いところなんてないのだ。
「すみません、ご迷惑おかけしました。私、帰ります」
ベッドから下りようとすると、横尾先生が体を支えてくれようとした。でも、もう発作は治まってしまっているし、少しだるいけど歩けないほどではない。大丈夫です、と言ったら、タクシーを呼ぶから待っていろ、と言われた。
横尾先生が職員室へ戻っていっている間に、沢渡先生がベッドに寄ってきてくれた。念の為、と、脈拍と血圧だけ測ったけど、どちらとも正常値で、大丈夫ね、と先生は笑んでくれた。
「…崎谷先生」
まだ、キャビネットの前を動けない先生に、沙耶は呼びかけてみた。目の前で倒れた生徒を、おっかなびっくり見るような、でも心底心配している表情。
「本当に、…大丈夫なのか…?」
「大丈夫です。呼吸も治まりましたし、タクシーを呼んでいただけるのなら、もう全然心配ないです」
保健室の端と端で話しているのがもどかしい。でも、体がだるいから、距離はこのまま。代わりに、ちゃんと安心してもらえるように、一生懸命笑って見せた。先生は、ほっと息をついて、そうして漸く肩の力を抜いたようだった。
「…ちゃんと、横尾先生に送ってもらえ」
え、と思う。だって、横尾先生は担任でもなんでもないのに……。
「多分、横尾先生が送るって言って聞かないと思うから」
「それは駄目じゃない? 崎谷先生。担任でしょ?」
苦笑して言う崎谷先生に、沢渡先生が言った。沙耶もそう思う。体もだるくて、気持ちも少し心細くなっている。横尾先生では嫌だ、と思った。先生が…、崎谷先生が、いい。
そう思ったけど、そんなこと口に出して言ってもいいものかどうか分からなかったので(だって、小学生じゃあるまいし)、言わずにいた。でも、一生懸命に崎谷先生の事を見てしまったような気がする。…崎谷先生が、困ったように苦笑した。
「…そんな顔、すんなって」
「……え…」
口元を少し拳で隠して、でも目元も口端も、なんというか小さな笑みを浮かべている。沙耶の語彙で言うと「参ったなあ」が一番ぴったり来るのだけど、なにが「参ったなあ」なのかは分からない。だから、正確には違うかもしれない。
あ、もしかして、子供みたいな心細さが伝わってしまったのかな。
ちょっと恥ずかしく思っていると、崎谷先生がやっとキャビネットの前から離れて、ベッドへと歩み寄ってきてくれた。ベッドに座ったままの沙耶の前髪をちょっと掻き分けて、そして正面から沙耶の目を覗き込んでくる。
うわ、と思った。
多分、先刻の傘の中と同じくらいに近い。でも、今度は怖くなかった。眼鏡越しに、やさしい瞳が沙耶のことを映している。保健室で空調が効いているから、先刻感じた崎谷先生のにおいも、消毒用のアルコールに消されてしまっていた。
「うん。目はしっかりしてるな。立てるか?」
「あ、はい、平気です」
「…じゃあ、鞄持って正面玄関においで。俺は横尾先生に話してくるから」
やさしく言ってくれて、そして崎谷先生は沢渡先生に挨拶をして保健室を出て行った。沢渡先生はそれをはいはい、と見送って、それから鞄を持った沙耶のところへ来た。
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