第19話 汗のにおい-3
終礼の前になって、雨は一時止んだ。例え折り畳み傘を持っていたとしても、それをさして帰るのと、手を空けて帰るのでは気分が違う。帰宅部の人たちは、このタイミングに、とばかりに、終礼が終わると急いで教室から出て行った。
優斗も手際よく荷物を纏めて教室から出て行くようだったので、また明日ね、と声をかけた。沙耶も気をつけて帰れよ、と返されて、ちゃんと笑って返す。幼馴染が教室を出て行った後で、沙耶は鞄に教科書類を詰め込むと、図書室へと向かった。
図書室は空調が効いているから、肌に纏わり付く嫌な感覚に悩まされないで済む。快調に、とはいかないけれど、今日も数学の問題集とにらめっこをして過ごした。だって、また期末のテストの点数が悪かったら、優斗に要らぬ心配をさせてしまうかもしれないし、やっぱり崎谷先生を煩わせるのも良くないと思ったのだ。
今日も机の端っこに席を取っていたのに、いつの間にか随分集中していたのだろうか、気付くと窓の外には一旦止んでいた雨が、またさらさらと降っていた。
まあ、いいや。どうせ梅雨なんだし、雨に降られるのは仕方ない。今日は集中していたから、もしかしたら期末にこの成果が出るかもしれない。だとしたら、雨に降られるのなんて全然気にならない。むしろ有意義な時間だっただろう。
ほ…、と息をついて、目を窓から問題集に移しなおす。でも、一旦窓の外に気を取られて集中力が欠けてしまったらしく、その後はどうもはかどらなかった。先刻まで、自分にしては凄い勢いで頭の中に数式を並べていたのに、と思うと、今日はこれで終わりかな、と思う。
ちょっと早いけど、雨が酷くなる前に帰ろう。
そう決めて、机の上の問題集や筆記用具を鞄に仕舞う。まだ他の生徒が勉強しているから、煩くしないようにそっと椅子を引いて立ち上がると、丁度窓から学校の敷地をぐるりと囲っているフェンスの向こうに、あちこち余所見をしながら歩いている人影を見つけた。
(あれっ。崎谷先生)
よく見ると、先生は傘も差さずに半袖のシャツのまま、左手には大きなビニール袋を持ってうろうろとしながら学校回りの道を歩いている。もしかして、この前のようにゴミ拾いなんてしていたのだろうか。
…風邪、引いてしまうんじゃないかな。
そんな風に思ったら、思いのほか足が早く動いた。ぱたぱたと階段を駆け下りて、昇降口を飛び出す。慌てるあまり、傘が上手に開かなくて、少し濡れながら傘を広げて、なんとか折り畳み傘の骨を固定してから校門を飛び出た。
学校の敷地を囲うフェンスは緩く道なりにカーブしていて、校門を出てすぐを曲がったところからは崎谷先生の姿は見えなかった。本当に霧のような雨だけど、シャツのまま濡れてしまったら、やっぱり体に良くないだろう。せめてジャージか何か羽織っていれば、風邪を引く心配もぐっと少なくなるのに、なんて思って、崎谷先生って案外大人じゃないなあ、と生徒の分際でそっと笑ってみた。
カーブの途中で、この期に及んでまだうろうろしている崎谷先生を見つけた。先生! と声をかけると、おお、なんて呑気に返されてしまった。
「先生、風邪引きますよ。ゴミ拾いも適当にして職員室に帰ったらどうですか?」
小さいけど仕方ない。沙耶は折り畳み傘を差し出すと、先生の頭の上にかざしてあげると、先生が左手に持っていたゴミ袋を右手に持ち替えた。丁度、雨に濡れたビニールが沙耶の制服に触れそうだった。
「おお、サンキュ」
頭だけでなく体ごと傘の中に入ってきて、先生がお礼を言ってきた。背の高い先生を見上げるようにすると、傘の膜の中に濡れてしまった細い髪の毛が緩やかな筋を描いて流れていた。
思いのほか至近距離で先生を見上げていた。でもこのくらい、ゴールデンウイークの補習の朝に頭を撫でられたときだって傍に居た。だけど、優斗を隣に入れて歩いたときには思わなかったのに、傘の中って結構狭い空間なんだと、途端に今の距離を意識した。
(うわ…、すごく近いわ……)
ちょっと、クラスの女子が騒ぐのも本当に分かる…という気持ちになった。霧雨が先生の肌に落ちていて小さな雫になっている。それが時々滑り落ちる頬から顎のラインが、凄く綺麗なのだ。
「俺が持つか、岡本」
ちょっと見つめてしまっていたような気がしたので、隣から呼びかけられて、飛び上がるほどびっくりした。先生の左手が動いて、沙耶から傘の柄を取り上げてしまう。そりゃあ先生の方が背が高いからその方がいいのだろうけど、この狭い空間の中で主導権を握られてしまったような気がする。いつも先生は先生で、沙耶は生徒だから、主導権なんてあったもんじゃないけど、こんな雨の中をゴミ拾いにうろうろしている先生を放っておけなくて、助けにきてあげたのは自分なのに…、という気持ちになる。
「や…、その、…」
だって、それは自分の傘なのに、という言葉も出てこない。会話に窮した沙耶と握り拳ひとつ分だけ離れた体からは、この湿気からか、汗のにおいがした。
水のにおいの中に混じる、それ。
それは、幼馴染を入れてあげたときと、確実に違う感覚だった。
くさいとか、嫌なにおいだとか、そういうことではない。そんなの沙耶だってこの湿度に汗をかいているからお互い様だ。そんなんじゃなくて……。
「今頃帰りなんて、遅かったな」
崎谷先生が、話しかけてきてくれる。だから平静に応えなければいけない。
「…あ、図書室に寄っていたので」
「図書室?」
「…あの、…今日の授業の、復習を……」
「そうか。そりゃ、エライな」
崎谷先生が微笑って、ぽんと沙耶の頭の上に手のひらを乗せた。大きな手のひら。一層近くなる、汗のにおい。
どくん、と心臓が打つ。大きな、波だった。
「………っ」
こわい、と思った。
知らないにおい。母親でもなく父親でもなく、姉でもない。勿論クラスメイトとも優斗とも違うこのにおいが、沙耶の中に圧倒的に迫ってくるような感覚だった。
……こわい。足元に広がる崖の淵から、海の底まで落ちていってしまいそう。深海の海。右も左も分からない、心細くて不安な場所。水が纏わり付いて、動きも呼吸すらもおぼつかない。
「岡本?」
すぐ横で呼ばれて、足が竦みそうだった。でも、この感覚をなんて説明したらいいのか分からなくて、沙耶は先程よりも更に慎重に平静を装った。
「はい」
声が震えそうだった。呼吸が浅く、早くなって、まずいと思う。
「…大丈夫か、お前。なんか、顔色悪いぞ?」
先生の声が、遠くに聞こえる。指先が痺れるような感覚で包まれて、視界が利かなくなる。本当にまずい、と思ったのと、かすかに沙耶の名を呼ぶ声が聞こえたのは
多分同時で、後は暗闇に紛れて分からなくなった。
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