星座の譜面
宇宙音
#1
暑い夏の始まりを予感させる5月下旬頃。つい1ヶ月前までは春の陽気に満ちていた街には、その長閑で麗らかな空気は影を潜め、木々を彩っていた桜色は新緑色へと様変わりした。代わりに足を忍ばせるように街を覆った空気は、土と緑の匂いを含んでいて、留まることなく忙しなく変化する四季に、街は何事も無く順応してゆく。
『先程から僕は学校の屋上で口笛の練習をしています。君も今から来ませんか?そして僕が口ずさんでいるこの曲が、何という曲名か教えて欲しいのです。君はきっと教えてくれるでしょう。』
「どうしたの、川淵さん?あなたらしくないわね。」
顧問の橘先生が、ピアノを弾いていた手を止め、穏やかな口調だが訝しげな顔で、合唱部部長である少女に問う。充夏は、すみませんと小さく答え、他の部員に軽く目配せし、もう一度歌う体制を整えた。直ぐに軽快なピアノの伴奏が流れ出す。
屋上の扉の鍵が壊れているのが分かってからというもの、充夏は暇さえあれば頻繁に訪れた。今日も部活後、屋上へと続くいつもの階段を上がっていると、微かに口笛の音色が聞こえた。立て付けの悪くなった重たい扉を開けて周りを見回すと、フェンスに寄り掛かっている見覚えのある小柄な背中が目に入る。充夏は小さく溜息を吐きながら、ランドセルを背負った少年の元へ歩み寄る。
「また勝手に入ってきたの?変な手紙もアンタの仕業でしょ。」
話し掛けられているのは気付いている筈だが、その少年は無反応で、視界一面に広がる暮れかけた町並みを、年季が入っている赤錆だらけのフェンスに手を掛け只、眺めていた。
「・・・翔太聞いてる?」
翔太、と呼ばれた少年は充夏の従弟である。1週間前から充夏の家で預かっているのだが、暫し充夏はこの6歳の従弟に辟易していた。充夏の記憶では翔太は何処にでもいるような子供らしい子供で、数ヶ月ぶりに会った1週間前もその印象は変わらなかった。変だと思うようになったのは5日前からだ。活発だった甥は、借りてきた猫かと勘違いする程、突然大人しくなった。塞いでしまいたいぐらい煩かった口は、本当に接着剤か何かで塞がれたのかと危惧する程、物静かになった。それだけならいい、と充夏は心底思う。翔太は、まるで別人になったような口調で話すのだ。充夏は夕焼けに染まる幼い甥の横顔を見た。小振りな唇がさっきから同じフレーズを、繰り返し奏でている。拙いメロディーは、夕暮れの街には似合うようで似合わなかった。フッと苦笑いをして、充夏は昨夜の会話を思い出した。
『僕は何処から来たと思う?』
昨夜、充夏の部屋に入ってきたかと思うと翔太は唐突にそう訊いた。
『小田原でしょ。』
彼の家は、充夏の家から車で2時間程の所にある。充夏は1度しか訪れたことはないが、田舎でも都会でもない普通の街だった。
『違う。僕は星から来たんだ。地球からずっと離れたところにある星だよ。』
翔太は断りも無くカーテンを開け、夜空を指した。
『・・・星の王子さまにでもなったつもり?』
突拍子のない言い分にウンザリしていた充夏だが、只の子供の遊びだ、と自分に言い聞かせた。
「翔太・・・じゃなくて、聞いてますか、星の王子さま?」
充夏がそう言い直すと、今まで何度名前を呼んでも反応しなかった少年が、突然口笛を止め、くるり、と充夏の方へ顔を向けた。翔太は眉間に皺を寄せて切羽詰まった声を出す。
「もう直ぐなんだ。」
まるで深刻な事態にでも陥ったかのような様子に、充夏はふざけているだけだと分かっていながらも真剣な面持ちで訊いた。
「何が?」
「早くしないと僕は戻れなくなってしまう。」
唐突な内容の会話は、「星の王子さま」の特徴だ。充夏は、諭しても無駄だと分かっているのであえて会話に付き合うことにしていた。
「何処へ?」
「・・・ペルセウス星団。僕はイプシロンに帰らなければいけないんだ。」
小学1年生らしからぬ台詞に、充夏はもう何度目か分からない溜息を大袈裟に吐く。
「・・・またおじいちゃんのテープ聴いたの?」
母方の祖父は昔、大学で天文学を教えていて、今でも当時の講義を録音したテープが幾つか家には残っていた。充夏は、翔太の“ごっこ”の始まりはおそらくそのテープを聴いた所為だと確信している。押入れの整理をしていた充夏の母が見つけ、懐かしがって翔太にも聴かせたのだ。そんな充夏の密かな分析は露知らず、地球へ来てしまったらしい王子さまの、空想上の造り話はまだ続いている。
「でも僕は自分の名前が思い出せないから、きっと戻っても仲間には入れてもらえないんだ。」
・・・曲の名前さえ思い出せれば、そう呟いて、今度は翔太の姿をした星の王子さまが小さく息を吐き出した。彼の悲しそうで物憂げな表情は、毎晩、ベランダの隅にしゃがみ込んで夜空を見上げている時と同じであった。充夏はふと、ちらほら姿を見せ始めた宵の星たちが、この変わった星の王子さまを、そのままこの場所に繋ぎ留めやしないかと危惧した。そうなると意地でもこの場を動こうとはしないだろうと予測が付く充夏は、何と云えばこの少年が、大人しく家路に着いてくれるのかと頭を廻らせた。
「ねぇ、君はさっき僕が口ずさんだ曲名を知らない?君は色々な曲を知っているでしょ?」
確かに充夏は人より音楽を聴いていて、詳しくもあるが、それはクラシックやピアノ演奏曲に限ってである。君、と小学生に歯が浮くような呼称で呼ばれた充夏は詰りたいのを耐え、少年の薄い肩に手を掛けて顔を覗き込んだ。
「翔太、アンタちょっと変だよ。なんか悩み事があれば私が、」
聞いてあげるから、と続けようとした言葉は手を払われると同時に遮られた。
「・・・僕は翔太じゃない。」
翔太は小さく呟くなり充夏に背を向けて歩き出した。充夏は再びため息を吐きながら、屋上出入り口の扉に歩みを進める少年の後に続いた。
続く
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