第3話 それは、サロンでささやかれている怪談だった
いくつか食事の好みをたずねられたのち、「それならおすすめの店があります」と連れられて行ったのはオフィスが入っているビルの一階にあるビアカフェだった。じつをいうとずっと行きたいとおもっていた店で、まさかの提案に椿は目をまるくした。
「保科さん、ここは来たことがあったんですか?」
「うん、一度だけ」
「すごくうれしいです。気にはなっていたんですけど、すぐ近くなのになかなか機会がなくて。こうなったら異動日までには、たとえひとりでも行こうと決めていた店なんですよ」
店外の看板によれば、ベルギービールを百種類以上そろえているのがウリのひとつである。もちろんカクテルやソフトドリンクなどもあるとはいえ、ビールが苦手なひとは誘いづらい。女性中心の職場では同士をみつけるのも一苦労なのだった。
(保科さんもビール党だったんだ。こんなうれしい共通点、もっとはやく知っていればなあ)
知っていたとして、はたして誘うことはできただろうか。さっとよぎった疑問はふりはらうことにする。
「よろこんでもらえたなら良かった。でも異動か……。もう残りわずかになってしまいましたね」
惜しむようなつぶやきだった。
(すこしは、寂しいと感じてもらえるかしら)
二年間の勤務を終え、ちょうど一週間後の火曜日が、いまのオフィスに通う最終日だった。
もちろん前日には後任のマネージャーが来ることになっており、椿が去ったあとも業務はこれまでと同様にとどこおりなく運ぶはずだ。それでも新しい日常のどこかにものたりなさを感じてもらえたなら、自分の存在にも価値があったような気になれる。
「ええと……、ああこれだ。この熟成肉盛り合わせというのが、おいしかったですよ」
保科がメニューを椿のまえに広げてみせた。前回訪れたときは、ブラックアンガス牛、イベリコ豚、鶏もも肉という基本の三種盛りにエゾシカを追加注文したのだという。
「畜産に対して、狩猟で得た肉をジビエと呼ぶらしいですね。ようするに野生動物なわけですが、荒々しい言葉の印象とはまったく違ってとても食べやすかったです」
耳元でゆったりと響くテノールに誘われ、椿はこっそりメニューから目をあげた。
(耳にここちよい声とリズム、端的でわかりやすい説明。こんな接客ができるようになりたいってずっとおもってた。きっと保科さんは無自覚で、相手の警戒心を一瞬で溶かしてしまうあの笑顔だって、単に生来のものなんだろうけど。そういえば失礼ながらわたしが抱いた第一印象は、日向ではしゃぐ小型犬、だったっけ。髪質のせいかなあ。ふわふわで――)
「やわらかそうな……」
「ええ、やわらかかったですよ。頼んでみますか?」
「えっ? あ、はいっ」
(つい、口からもれてしまった……)
窓に面したカウンターで横並びに座るふたりは、ふとした動きで距離がぐっと近づく。保科が指す先よりも、間近で揺れるくせ毛に気をとられていた椿は、あわてて距離をとり、うなずいたのだった。
注文を済ませ、ほどなくお通しのケーク・サレとそれぞれのビールが運ばれてきた。保科の手元にはシャンパングラスのような背の高い細身のグラスで、椿にはチューリップに似たぷっくりとかわいらしいまるみのあるグラスで。どちらも細かな泡を頂いてはいるが、黄金色の輝きは微妙に色あいが違う。
「では……」
お疲れさまでした、と静かに乾杯をして、ふたりは同時にひとくちふくんだ。
「どう?」
「えっと……おもったよりもアルコールが強めでした。後味がほのかに苦くて……でも甘酸っぱい香りが残ります。なんだろう……フルーツみたいな……」
椿はしばらく空中に視線をさまよわせたが、ふと我にかえりちいさく首を振った。
「こんな分析じみた飲みかたじゃなく、飲み慣れた日本のビールみたいに、直感的においしいっていえるようになりたいんですけどね。じつは去年はじめて飲んだベルギービールの味がなんだか忘れられなくて、銘柄をおもいだせないまま手当たりしだいに探しているところで……ようするに初心者なんです」
保科はやわらかく笑って、うなずいた。
「ぼくもものめずらしさでときどき飲みますが、さほどくわしくはないんですよ。これも名前だけで選びました」
「なんていうビールでしたっけ」
「ギロチン、です。ほら」
そういって保科はくるりとグラスの向きを変え、ロゴが印刷された面を椿にみせた。赤い背景にギロチン台のイラストが描かれている。
「へえ……、ほんとうに、あの処刑台のギロチンなんですね。ちょっと不吉なイメージですけど、なにか由来があるのかしら。味はどうですか? 刺激的だったりします?」
「独特な名前のわりには、口あたりが良くて飲みやすいですよ。あ、もしかしたら井ノ瀬さんが探しているものかもしれませんね。良かったら」
どうぞ、と保科がグラスを差し出す。それを手に取って良いものか、椿は一瞬ためらった。
「いえ……あっ、わたしのグラスにはピンクの象が描かれてます」
「ええ、各銘柄ごとに専用のグラスが用意されていて、それぞれのラベルデザインが印刷されているんだそうです。かたちの違いはきっと、香りの感じやすさとか、一口でふくむ量とかのバランスを調整してよりおいしく飲めるよう設計されているんでしょう」
「なるほど……」
そこへ店員が一品目の料理を運んできた。あっという間に食欲をそそる香りがあたりを包む。
薫製たまごをのせたポテトサラダ。メニュー写真の、割れ目からとろりとのぞく黄身の魅力にあらがえず、まっさきに注文を決めた一品である。自然と話題は料理へうつり、椿はこっそりと安堵のため息をついた。
(社内ではそれなりに仲が良いつもりだったけど、一歩会社を出たとたん距離感がわからなくなるなんて。そういえば個人的な会話はあまりしたことがなかった……)
たしか実家は遠く、マンションにひとり暮らしだと聞いた気がする。料理はあまりしない、休日はインドア派とも。それが椿の知るささやな保科のプライベート情報だった。会社でスーツをまとった彼が、ふだんはどんな格好でどんな生活をしているのか、想像すらできない。そして唯一の接点だった職場が別々になる以上、その情報がアップデートされる機会は、もう訪れないのだろう。
(これで縁が切れるのかとおもうと、ちょっと寂しい気もする。もっとふだんから趣味や嗜好の話もするべきだった? でも同僚と仕事以外のつながりを持ちたくないタイプかもしれないし、いくら仲良くなったところで二年で異動なわけだし……)
こうした遠慮が、大学卒業以来ずっと恋愛から遠ざかっている要因なのだともわかっている。気づけば就職してから三年が、職場と家との往復だけであっという間にすり抜けてしまった。
(経験を積んで仕事に余裕が持てるようになったぶん、これからは生活にも潤いを与えないと。ちょうど転機を迎えるのだし、職場以外のひととつながりを作れるような、なにかをはじめてみるのもいいかもしれない……)
雑談をしながらとりとめのない考えをめぐらせるうち、熟成肉の盛り合わせが運ばれてきた。グリルした肉に、添えられたハーブ塩をつけて食べるというシンプルなものだったが、保科のいうとおりどれもやわらかく、はじめての鹿肉に想像していた臭みもなかった。
四種類の肉を食べくらべながらふたりはあれこれと語りあい、そうするうちに次の料理が運ばれてきて、またたく間に時間が過ぎていった。
おなかが落ち着き、三杯目のグラスがテーブルにならんだころ、保科は「それでですね」と切りだしてきた。「相談というのは……」
本来の目的をすっかり忘れて楽しんでしまっていた椿もはっとしてグラスを置き、居住まいを正して向き直る。
(そういえば奥村さんが保科さんのことを気にしていたっけ。いつもとようすが違うと感じたのは、悩みごとがあったからなのね。いったいなんだろう。家族、恋愛、病気、金銭……、それとも仕事のこと? まさか転職を考えているとか……)
一瞬のうちに、さまざまな可能性をおもい浮かべた。しかし、保科が口にしたのは意外な言葉だった。
「コピーさんのことなんです」
「へっ」
おもわず妙な声を出してしまい、あわてて口元をおおった。真意をはかりかねて上目遣いに保科の表情をうかがう。まっすぐにみつめてくる瞳は真剣そのもので、からかいは微塵もふくまれていなかった。
コピーさん。
それは、サロンでささやかれている怪談だった。
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