夜明けには知らないきみと
つゆり
第1章 ひるなかの彼
第1話 ようすがへんじゃないですか?
「んん?」
受話器を置いて、すぐさま検索した受注管理データベースの結果に、おもわず首をひねった。
〈営業担当者
半信半疑のままオフィス内を見渡す。けれどデスクにも室内にも、さきほど帰社したはずの彼の姿がいまはなかった。そのまま壁掛けの時計に目を向けると、午後七時をすこし過ぎたところだ。
(もしかしたらサロンのほうにいるのかも)
そう見当をつけ、
椿が勤務する〈アリヨンス〉は、三十階建てオフィスビルの二十九階にオフィスとサロン、最上階にチャペルとレストランをかまえるブライダルプロデュース会社だ。
定時の午後六時を過ぎても、まだ活気のあるオフィスとは違い、お客さまと打ち合わせをするためのサロンは、午後七時きっかりに営業終了となる。すでに照明は半分落とされ、サロンスタッフたちが帰り支度をはじめているところだった。
予想どおり彼はそこにいて、受付カウンター越しにスタッフと談笑していた。手元に広げられているのは、招待状や席札などのペーパーアイテムをまとめたファイルのようだ。九月から新デザインをとりあつかうことになっている。きっとその見本帳だろう。
「保科さん、ちょっといいですか」
「あ、はい!」
椿に呼ばれると保科はすぐに会話を切りあげ、かけよってきた。軽やかな身のこなしにあわせて、ゆるくカールした明るい栗色の髪がふわりと踊る。
三歳年上の二十九歳。新卒で入社した勤続十年近いベテランながら、いまでも新入社員で通ってしまいそうな初々しさを感じるのは、親しみやすくやや幼い顔立ちのせいもあるだろう。けれどなにより、ひとの良さがまるごとにじみ出たようなこの――。
(ああ、このふにゃっとした無防備な笑顔……っ)
つられて頬がゆるみそうになるのをなんとかこらえ、椿はあくまで仕事用の笑みを保った。これからシビアな話をしなくてはならないのだ。
「それから、奥村さんがまだいれば……」
「あ、たぶんロッカー室です。呼んできますね」
あたりを見回す椿にカウンターのスタッフがこたえ、奥のドアを開けて出ていった。その先がロッカー室だ。かすかにもれ聞こえる会話で、幸い彼女がまだ残っていたらしいとわかる。
打ち合わせ用の丸テーブルをひとつ借りることにして、保科にイスをすすめた。ほどなくやってきた奥村が席に落ち着くのを待ってから、椿はさきほどの電話の内容をふたりに伝えた。
相手は、取引先の印刷会社だ。結婚式当日ゲストに配られる、披露宴の座席を案内する席次表。その原稿として今朝入稿された出席者名簿が、別の式のものと酷似していた。これで間違いはないかという問い合わせだった。
外部とのやりとりは、サロンでの打ち合わせ内容もふくめ、すべて受注管理データベースに履歴を残すしくみになっている。その記録から、印刷会社へ名簿を渡すとき取り違えがあったらしいとわかった。
偶然にも新郎の苗字がおなじ二組の挙式が同日に予定されていた。そのため起こったケアレスミスだろう。
(ありふれた苗字だから、間違えてしまうのは無理もない。けれどもしそのまま印刷されて、見知らぬ他人の名前がならぶ座席表をお客さまの手に渡してしまったら……。考えただけで胃が冷たくなってしまう。印刷会社の担当者がたまたま気づいてくれたのは、本当にラッキーだった……)
個人情報のとりあつかいはデリケートで、すぐさま信用問題へと発展してしまうものだ。そんないちばんしてはいけないミスを、堅実と仕事ぶりを評される営業課長の保科がおかしたとは、にわかに信じられなかった。
いっぽう、窓口を担当した奥村は今年の春に入社したばかりだ。少々そそっかしい性格のようで、先週、初回来店のお客さまを担当した際もちょっとした不備があったと聞いている。
今回、奥村に同席してもらったのは、もしかしたら窓口でのやりとりになにか問題があったのかもしれない、と考えてのことだった。しかし保科は真剣な目で椿を見つめ、きっぱりといいきった。
「ぼくのミスです。確認不足でした。申し訳ありません」
「そう……ですか」
(まさか保科さんが……。ううん、めずらしいことだけど、失敗はだれにでもあるものね)
椿は気を取り直して、
「では至急、正しい出席者名簿を再送してください。明日は休業日ですが、保科さんは午前だけ出勤して印刷会社からの校正紙を確認し、昼までに返信するように。そうすれば、以降は通常のスケジュールで進行してくれるそうですから」
「わかりました、すぐにとりかかります。すみませんでした」
こわばった表情で保科は席を立ち、オフィスへと戻っていった。その背中を目で追いながら、ふう、とため息がもれてしまう。
(ふだんしっかり仕事をしているひとのミスを指摘するのは、たまらないな……)
椿は本社から派遣されているサロンマネージャーである。問題には迅速に対処しなくてはならない。相手が自分よりも年上だろうが、上役だろうが、ちょっと憧れているひとだろうが――。
「あ、奥村さんはもう帰ってだいじょうぶよ。同席ありがとう。今回の印刷物が仕上がったらいちおう確認してもらえる?」
「はい」
うながされて奥村は立ちあがりかけたが、おもいなおしたのか、ふたたびイスに腰掛けた。そして椿に顔を近づけ、内緒話をするようにいった。
「あの、保科さんのことなんですけど……今日ちょっとようすがへんじゃないですか?」
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