133 フォローアップ研修 指輪の旅 1

 綺麗に塗装された円形の木製ドアを開け、亜香里たちは身体を屈めて中に入った。

 思っていたとおり天井の高さは人間が立つには低く、室内はどの部屋も狭い。

 亜香里以外の4人は優衣も含めて頭を打たないように、恐る恐るホビットの家の中にあるものを眺めていたが、亜香里だけは袋小路屋敷に入ってからの行動が他の4人とは全く違っている。

 器用な中腰の格好で、いくつもある小さな部屋を奥の方まで歩いて周り、部屋に入るたび「凄ーい!」「映画と同じじゃない!」「そうかぁ、ここはこういう作りになっていたんだぁ」と、一人で感心している。

『組織』もトレーニングのことも頭の中からスッポ抜けていて、映画のロケ地を見に来た映画ファンモードである。

 一番奥の部屋まで行き着き、中のものをいろいろと物色しているところで『ハッ!』として、『組織』のトレーニング中であることを思い出して、キッチンに戻り貯蔵庫から干し肉、サラミ、ドライフルーツ、乾パンを取り出して玄関近くの部屋に居る4人のところへ戻ってきた。

「小林さん、この低い天井と狭い部屋の中で、良くそんなに動き回れますね」

 英人が『映画への執念?』という表情で感心する。

「いえいえ、部屋と部屋のつなぎ目の敷居さえ気をつければ大したことはありません。ハイッ これ! 食べられそうなものを持ってきました」

 貯蔵庫から持ってきた、保存が効きそうな食料品が入った麻袋を英人に渡す。

「亜香里、地図と指輪は?」

「詩織がそう言うと思って、ちゃんと持ってきましたよ」

 亜香里は、家の中にあった布袋に入れてきた品々を嬉しそうに取り出しながら4人に見せる。

 中つ国の地図、綺麗な封筒に入っている指輪、そして指輪物語(英語版)。

「その地図って、ロード・オブ・ザ・リング(LOTR)に出てくる地図ですよね? ここってロケ地だから、地図どおりには行かないと思いますが?」

 悠人が極めて真っ当なことを言う。

「普通に考えればそうですが、このトレーニングを計画して実行しているのは『組織』ですよ。この家、袋小路屋敷も映画とは場所とかが微妙に異なっていて、どちらかというと指輪物語に記されている位置にあります。映画のロケ地自体はニュージーランドで有名な観光地になっていて、毎日観光客が来ているはずなのに、全く見当たりません。もしかしたら『組織』が人払いをしているのかも知れませんが…… もしもここがロケ地だったら、ここから車で二十分くらいの距離に普通の人たちが暮らす街があるのはずですが、私たちがここに来てから人や家畜の気配が全くありません」

「だから?」

 詩織が念を押す様に聞く。

「だから、ここはロード・オブ・ザ・リングのロケ地になったニュージーランドだとは思いますが、『組織』が新たに作ったトレーニング用のロード・オブ・ザ・リングの世界だと思います」

「えっ!」

「へっ!」

「はぁ~?」

「フーム」

 亜香里が説明する内容のスケールが大きすぎるため、4人の口から思わず出る溜息も、人によってそれぞれである。

『フーム』と言った英人が、納得した顔で語り始める。

 亜香里ほどではないが子供の頃から映画はよく観ており、大学卒業前に上映されたスターウォーズep9を見逃していて新入社員研修のトレーニングで、亜香里から主人公レイのネタバレを聞かされたのは、悔しい思い出だった。

 新入社員研修後に、すぐにネットで観たわけだが。

「亜香里さんの今の説明には一瞬驚きましたが、新入社員研修の時に行われたトレーニングを思い出してみれば、どれも自分たちだけのために多額の費用と多くスタッフを使って、4月は毎週『組織』がイベントの準備と実行をしてきたわけですから、今回、フォローアップトレーニング用に国外の空いている土地で、そういう準備をするのは『組織』としては当たり前のことなのかも知れません。ロード・オブ・ザ・リングだったら、必要な街並みのセットはここのホビット村とエルフの里ぐらいでしょう? 第三作目の大戦闘シーンがあれば、お城の準備も必要になりますが、私たち5人が映画に出来てきた大群の相手をすることはないでしょうから、あと用意するのは変な生き物の着ぐるみくらいでしょう?(亜香里「オークやトロル、ウルクハイです」)そうそう、そういうちょっと大きな化け物です。4月のトレーニングよりも費用は掛かっていないのかも知れません」

「英人が言うとおりですね。久しぶりのトレーニングなので『組織』が今まで準備してきた大がかりなセットの規模を忘れていました。この国(ニュージーランド)にも『組織』があるはずですから、連携して上手くやっているのかも知れません」

「と言うことは、4月のトレーニングの時と同じように私たちはパスポート無しで国外に出たわけ? 『組織』だから仕方ないのかなぁ」

 詩織は『組織」活動でのイミグレーション無しの出入国は仕方なのかなと思い始めている。

「ところで、亜香里さんが家の中から持ってきたもので、地図と指輪は分かるのですが、指輪物語(英語版)は何に使うのですか? 今から誰かが読み始めるのですか?」

「優衣は学生時代に結構海外に行っていたみたいだから、英語は出来るよね?(優衣「読むのは苦手です」)じゃあ、オアフ島で活躍した詩織に読んでもらいます。いえ最初から読めとは言いません。これから旅の途中で行き先が分からなくなったときに参考程度に読めれば良いかな?と思い持ってきました。子供の頃に日本語版の『指輪物語』は全巻読んだけど、あまりにも長い話で結構忘れてしまったから英語版でも手元にあると安心です」

 亜香里らしいアバウトな意見である。

「そんなの読んで、行き先が分かるものなの? まあいいや、その時に考えましょう。それで亜香里はここ(ビルボバギンズ邸)には満足したの?(亜香里「一応、満足しました」)それでは出発しますか?とは言うものの、これから何処へ行くの?」

「その質問をお待ちしておりました、この指輪物語(英語版)にも書かれていますが、シナリオ通りであれば『ブリー村 躍る小馬亭』に行き、アラゴルンと出会い、追っ手から襲われそうになったところを助けられるのですが、私たちのトレーニングでは、追っ手は来なさそうですし、たぶんアラゴルンも出てこないので『躍る小馬亭』はパスして、裂け谷にあるエルフが住むエルロンドの館を目指したいと思います。そこに行ってもエルフは居ないとおもいますが… この世界のエルフはここに居る優衣(ちっちゃいの)だけだと思います」


「私はエルフではありません!(以下略)、亜香里さん的には、アラゴルンはパスなのですか? 指輪物語三作目『王の帰還』の主人公ですよ? スターウォーズが舞台のトレーニングの時は『ハリウッドスターが出て来ないのはおかしい』と言っていたじゃないですか」

「アラゴルン役だった、ヴィゴ・モーテンセンのことよね? 彼はあまり趣味じゃないかな? ロード・オブ・ザ・リングに出演して有名になったんだけど、ちょっとシネマの主人公っぽくないというか、カリスマ性を感じないというか、優衣は『グリーンブック』を見ていないよね?(優衣「何ですか? それ」)二〇一八年アメリカの伝記コメディ映画です。彼が主演で助演のマハーシャラ・アリがアカデミー賞を取りました。主演だった彼の演技は良いのだけど風貌は太ったオッサンだったのよね」

 もう何だか… 自分の趣味でトレーニングを進めようとしている。

 亜香里の話を聞いて、優衣も『はぁ~』となり、それ以上は何も言わなかった。

「それでは『裂け谷』を目指しますか? 小林さんが持ってきた地図はどう見れば良いのですか?(亜香里から「見ての通り、上が北で、恐らく雪山がある方は南半球なので南です」という大雑把な説明がある)では、最初にカプセルから出てきたところに戻る方角になりますが、出発しましょう」

 悠人の合図で5人は袋小路屋敷を出て、ホビット村の平地に置いたままにしていた電動オフロードバイクまで戻り、手に入れた食料、地図、本をそれぞれのリュックに振り分けて詰め込む。

 指輪入りの封筒は、亜香里が大事そうに胸ポケットに仕舞っていた。

(あとで、チェーンを通して首から下げておけば完璧ね)

 気分は指輪を携えて、モルドールの滅びの山を目指す主人公。

「では出発します」

 先頭の悠人の発出で、ようやく亜香里たち5人の長い旅(『組織』のトレーニング)が始まった。

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