フォローアップ研修
129 フォローアップ研修予告 1
亜香里が朝の通勤で公園の中を走らずに出勤できた火曜日の午後、上司の本居里穂からA4封筒を受け取った。
表には本居(シスター)社員経由、小林亜香里社員の宛先が印刷されている。
封筒の中身は、人事部採用教育担当から今年の新入社員宛への連絡である。
『新入社員 フォローアップ研修のお知らせ』
文章を読み進めると、入社後3ヶ月目に集合研修があるらしい。
「本居先輩、フォローアップ研修では何をやるのですか?」
「私たちが新入社員の頃、その研修はまだ無かったの。一昨年から始まったみたい。名前の通り、新入社員の新社会人生活をフォローするそうです」
具体的に何を研修するのかよく分からないまま、研修のお知らせを読み進めると、研修センターで来週開催されることだけは分かった。
来週月曜日十時迄に研修センター正門で受付を済ませ、午前中はオリエンテーションを行い、その日の午後から金曜日まで実習形式で行われるらしい。
最後に『カジュアルな服装で参加下さい』との注意書きつき。
(それはそうよね。この暑さの中、スーツを着てあの駅から研修センターまで荷物を持って歩くとかイジメでしょう?)亜香里はそう思ったが、二十一世紀になるまでは暑い夏でも、ネクタイをしたスーツ姿のサラリーマンがたくさん街中を歩いていたのである。
「いきなり来週で、一週間というのは急だと思いませんか? ちょうど7月から8月に入るところで、早い人は夏休みを取る頃だと思いますが」
「だから、人事部がこの時期に決めたんじゃない? 社員があまり忙しくなさそうだから」
研修で夏休みの予定が潰されたら、それはそれでマズイと思うのだが。
新入社員の亜香里は7月に入り仕事の進め方にも慣れてきて、少し余裕が出てきたが、入社1年目でもあり夏休みの予定は未だ立てていなかった。
(今回は会社がやる研修よね?『組織』のトレーニングではないよね?)亜香里は頭の中で確認していた。
(また着替えをキャスターバッグに詰めて、あの駅から研修センターまで歩くの? そうだ! 詩織たちと一緒にタクシーで行けばいいのね)一つ楽なことを思いついた亜香里だったが、寝坊すると置いて行かれそう。
(研修センターの周りにはお店がなかったからお菓子、缶詰とレトルトも仕入れておかねば)食べることの準備には、抜かりのない亜香里である。
その日、亜香里は定時に退社して寮に帰り夕食を終え、ジムでトレーニングをしていると詩織がジムに入って来る。
「亜香里がこんなに早くからジムにいるとは珍しい」
「もう直ぐ8月ですから。海に行くこともあると思うから、水着対策でシェープアップ月間です」
「そうなの? 今月はそんなにジムへ来てたっけ?」
「一昨日、3人で集まった時だけで、今日が2回目」
「そんなことだろうと思ったよ。ジムでは亜香里を見ていないもの。まあ、それでもやった方が良いよ」
「今から頑張ります。優衣は来ないのかな? お昼は一緒だったけど寮で見かけないね」
「日曜の夜は寮にいたけど、昨晩からまた自宅に戻ってる。まだリハビリが必要みたいなことを言ってた」
「知らなかった。水くさいエルフだなぁ、私にも言ってくれれば良いのに」
「『亜香里さんに話すと、また心配されそうだから言いにくい』って言ってたよ」
「篠原家は親子ともども気を使いすぎ。もう少し鈍感でいいのに」
ある意味、鈍感王者の亜香里にそれを言われても…。
「そう言えば詩織のところにも来た?『新入社員 フォローアップ研修のお知らせ』という謎のご案内」人事部からの普通の研修連絡なのだが。
「香取先輩から受け取ったよ、来週でしょう? フォローアップ研修なのに一週間は長いと思ったけど、新入社員研修からもう3ヶ月。長いような短いような」
「それは言えてる。新入社員としての仕事はともかく『組織』に引っ張られっぱなしの3ヶ月、いや研修センターでのトレーニングも合わせるとヘンテコリンな4ヶ月よ。不思議な能力が身についたのは嬉しいけど」
「そうね、どうして自分にそんな能力が身についたのか分からないけど、それは良かったと思う。優衣の能力はチョット心配だけど... 亜香里は一昨日ここで、優衣に能力のこと言っちゃったでしょう? あれは注意した方がいいよ。優衣、気にしているから」
「言ったあとで優衣の顔を見て反省しました。詩織がフォローしてくれて助かったよ。優衣が本当にやったのかどうかは分からないけど、念を飛ばしただけで一度に数十人の命を奪うとか怖すぎます」
「確かにあの能力は危ないけど、それで優衣がビビって他の能力も使わなくなったら、彼女が能力者としてやって行けるのか心配よね。それこそフォローアップ研修が必要だと思うけど『組織』はちゃんと考えているのかな?」
そのあとはトレーニングをサボっていた亜香里に、詩織のスパルタ指導が続く。
「詩織ぃー ちゃんとやるからさー! セット毎に身を摘むのはヤメてよぉ!」
「二の腕、脇腹と、絞るターゲットを具体化した方が効果が出ます」
ジムのトレーニングでは妥協しない詩織であった。
翌週7月最後の月曜日、梅雨が明け、朝からカンカン照りの直射日光を浴びながら、亜香里と詩織は最寄の駅から研修センターへの道を、キャスターバッグを引きながら歩いていた。
「暑いー、なんで駅にタクシーが停まっていないの? こんなに需要があるのに」
2人の前後には、同じように汗を拭いながらキャスターバッグを引く新入社員が何人も歩いていた。
「今日、ここで研修があることを知らないのでは? 知っていても他の駅から応援のクルマを呼ぶの距離のお客さんではないからね」
「そうかも知れない。アレ? 前を軽快に歩くチビッ子エルフは、優衣さんじゃありませんか。何でハンドバッグしか持っていないの? 詩織、追っかけるよ!」
亜香里はそう言って、キャスターバッグを引きながら走り始める。
キャスターの『ゴーッ!』という音を盛大に響かせて走るので、前を歩いている新入社員たちが『なにごと!』と振り返る。
当然、前を歩く優衣もその音に気がつき振り返る。
汗をかきながら追いかけるように走ってくる亜香里が目に入り、優衣は条件反射的に前を向いて逃げるように走り始めた。
それを見た亜香里は『優衣ぃー! 待てぇー!』とキャスターバッグを引きながら、更に走る。
詩織は、最初だけ少し亜香里に付き合って走ったが、途中からアホらしくなって歩き始めていた。
優衣はリハビリ上がりだが、亜香里はキャスターバッグを引っ張るハンディがあるため、走ってもなかなか追いつかない。
2人は7月下旬の熱い空気が漂う朝の街中を汗だくになりながら走り続け、研修センターの門を入ったところで、ようやく亜香里は優衣に追いついた。
「優衣、何で逃げるの?」亜香里が汗を拭いながら、優衣に問いかける。
「亜香里さんこそ、何でそんなに汗だくになってまで、私を追いかけてくるのですかぁ?」優衣は未だ本調子ではないのか、荷物はハンドバッグだけなのに息を切らしている。
「(優衣に言われて『何で追いかけたのだろう?』と思いながら)それは、そこに優衣がいたからです『我思う、故に我在り』と同じです」
朝から大量の汗で、シャツブラウスをビショビショにしながら、訳の分からないことを言う亜香里、デカルトに殴られそうな引用である。
詩織がスタスタとキャスターバッグを引きながら門を入って来る。
「2人ともお疲れさま。受付締切の十時には余裕で間に合ったよ。でも午前中の講義が始まる前に、汗でビショビショの服は着替えた方が良いね。ここの設備は古くて、エアコンではなくてクーラーらしいから。そのまま講義を受けたら風邪を引いちゃうよ」
研修の受付に並びながら亜香里と優衣は、汗をかいた責任のなすりつけ合いをしていた。
「ハイハイ、2人ともその辺にして、宿泊棟に荷物を置きに行こうよ。ところで優衣の荷物はどうしたの?」
「宅配便で送っておきました。一応、病み上がりですので。スミマセンが、宿泊棟に行く前にチョット、あそこへ寄りたいのですけど…」
優衣は創業者の銅像の側にある、 [ 殉職者の碑 ] と書かれた石碑を指さす。
「そうね、先に篠原昭男さんのところへ、お参りに行きましょう」
3人は宿泊棟へ向かう新入社員の列を離れ、[ 殉職者の碑 ] の前に並んで立ち、両手を合わせてお参りをする。
他の社員は宿泊棟へ向かいながら、不思議そうな顔をして見ていた。
「亜香里さん、詩織さん、お付き合いいただきありがとうございます。アキ叔父さんの亡くなった理由が分かって、少し気が晴れたというと変ですが、気持ちが軽くなりました」
優衣の言葉に2人は頷き、3人は宿泊棟へ向かった。
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