五色糸に願いを込めて

四季

前半:水無月の雨音

 古びて薄黄色にくすんだガラスの向こう側、紫陽花あじさいの葉が五月雨さつきあめの雨雫が振り注ぐたび、しなやかな葉を小さく弾ませている。水で濡れたことでより一層に艷やかな深い青色になった葉は立派に咲いた明るい色の紫陽花の花々をより一層引き立てている。

 すみれ色、浅葱色あさぎいろ韓紅色からくれないいろ、それらが入り混じったようないくつもの色達。その光景を眺めているだけで流れる落ちる水のように時間が過ぎ去っていってしまう。読んでいた小説の文字を追いかける気力はいつ間になくなって、ただ本を机の上で開いているだけになっている。


 私はこの高校の文芸部部長 文月ふみづき 色葉いろはです。グラウンドを使う部活の生徒は残念なことに活動できませんが、この文芸部にはこの程度の雨は無関係なので今日の放課後も変わらずに部活動に勤しんでいます。

 今いるこの部屋は文芸部の部室。建てられてから随分と月日が流れたこの校舎の一階北角にあり、幾度かの校舎の改装工事でも対象になっていないためひときわ古さを残した部屋です。建てられた頃はこの部屋も教室だったらしく……壁の本棚の裏に隠れた大きな黒板がなによりの証でしょう。


 雨降る窓の外を見ていた目線をこっそりと前へと向けると同じ部屋にいる唯一の人の姿が瞳に映ります。私が座る窓際の椅子と机を挟んで向こう側。隣の窓際の椅子に座るのは文芸部の先輩であるにしき先輩の姿です。先輩の少しだけ癖の付いた髪は一見ただ放ってあるようにもみえるし、整えてあえてそうしているようにも見えるような不思議な髪です。ある意味男の人らしい髪とも言えるのかもしれません。男の人の髪事情に明るくないのであまりわからないですけれど。


文月ふみづきさん、雨で寒くなっていない?温かいお茶でも入れようか。」

 手元の本を読むことに集中していたはずの先輩は私の目線に気がついてしまったのか、本に流れるような所作で畳みながら栞を挟み込み、顔を私の方へ向けました。先輩にお手を煩わせるわけにはいかないので慌てて立ち上がります。

「あ、先輩は座ったままでいいですよ。私がお茶入れますから。」

「そう?ならお願いしようかな。」

 そういって先輩は長い睫毛の目を伏せてまた元通り本を読み始めました。

 先輩は3年制のこの学校の4年生とでも言えば良いのでしょうか。本来もういないはずの生徒です。これは先輩のための弁明ですが、決して留年などをしたわけではないです。先輩はこの学校でも一番頭の良い先輩です。私の知る限り校内模試テストの順位で一番上にいなかったときを見たことがなく、全国模試でも指折りの順位にいたとか。そんな風の噂を耳にしたことがあります。ご本人に真偽の程を確かめたことはありませんが。


「先輩、緑茶と紅茶どっちがいいですか?」

 私は二つの茶葉が入った缶を取り出して先輩に尋ねる。

「んー。緑茶はたしか文月さんが買ってくれたよね。そっちにしようか。」

「ええ、たしかそうです。先輩は緑茶好きですよね。」

「うん、好きだよ。」

 本を見つめていた目を少しだけこちら向けられると、少しだけ前髪に隠れた深い黒色の瞳が見えました。優しげなその目と物静かで落ち着いたその声で急に手元がおぼつかなくなりました。なるたけ優雅になるように気をつけて作業をしていたのですが、所作振舞いが滑らかに出来なくなってしまい、カチャカチャと茶器が擦れる音を出してしまいました。

 せめて手元が狂ってお湯を机の上に零さないよう、丁寧に電気ケトルから急須へゆっくりとお湯を注ぎます。カラカラに乾いていた茶葉達はお湯の中で元の自分の姿を思い出すように伸び伸びと広がり踊りだしました。それと同時に鼻孔をくすぐる新緑の香りが心を落ち着かせてさせてくれます。あとはしばらく蓋をして茶葉を蒸してあげればきっと美味しいお茶が完成します。


 急須に蓋をして元の席の方へと戻りながら、ふぅっと一息ついていると先輩が私を側へと呼んでくれました。

「文月さん、ほら見て。」

「はい、なんですか?」

 先輩が指差す先には窓枠にある少しの隙間に茶色の殻を背負ったカタツムリの姿がありました。その殻はカタツムリの彼の身体には見合わないくらい大きくて。その重さを必死に支えながらゆっくりとゆっくりと懸命に前へと進んでいます。その姿はあるいは夢の中を揺蕩たゆたうようにも見えます。

「わぁ、立派ですねー。」

 カエルなど両生類のように滑々とした生き物はあまり得意ではないですが、ガラスに遮られた向こう側だったら何の問題なく鑑賞できます。

「この子の殻、左巻きだからとっても珍しいよ。」

「巻き方で珍しいとかあるのですか?」

「日本のカタツムリは大抵右巻きだからとても珍しいね。もしかしたら……このあたりで一番の捻くれ者かもしれないね。」

 先輩はとても物知りです。このように色々な事を私へ教えてくれます。ですがいつもその内容よりも髄に染み渡るような低くて優しくて声音に意識が持っていかれてしまいます。たった今も右耳近くから聞こえるその言葉の意味ではなくて音に意識が吸い込まれてしまっています。折角教えて頂いているのに、私はどうもあまり真面目な後輩ではないようです。

 ここ数年はもう随分と活動人数の少なくなってしまったこの文学部も20以上前には随分と大所帯だったらしいですが、歴代の部員の中でも一番本を読んでいたのはきっとこの先輩だと思います。二年と少しの間だけですがその姿をずっと見てきた私の記憶がなによりの証拠です。

「もしかしたら彼は私達みたいな変わり者かもしれないですね。」

「文月さんは変わり者じゃないだろう。俺みたいに来なくても良い学校に来ているわけじゃない。」

 先輩は今年の9月から米国のカリフォルニアにある大学に通うことが決まっています。時差は日本比べて16時間以上。一度も海を超えて旅をしたことがない私はその遠さが感覚的には分かりません。夜空に浮かぶ月とどちらが遠いのか、もちろん知識では知ってはいますが感覚的には分かってはいないと思います。

「卒業からの半年間は無職の暇人だから」先輩はそう言って、来る必要のない学校に登校しています。授業を受ける必要は当然なく、部室の椅子に一日中座って本を読んでいます。


「とっくに廃部が決まっているのに、毎日足繁く通う私も同じくらいに変わり者ですよ。」

 かく言う私も3月に一つ上の先輩方が居なくなってしまったことで、ただ一人唯一正式な文芸部の部員であり名ばかりの部長となりました。開校から50年以上続いたこの文芸部の最後の一人となってしまいました。

 部として認められる規定人数を大きく下回ってしまい文芸部は廃部が決まってしまいました。そのため今年の秋までにはこの部室も綺麗に整理して開け渡さならければならないのですがまだ片付けが全ては完了していません。


 当初の話では先輩方が卒業した3月末には荷物を纏めて出ていくように言われたのですが、たった一人残る私への温情なのか、成績優秀で学校からも贔屓にされている先輩に対する特例なのか執行猶予期間が半年だけ付きました。


 変わり者だと宣う私の言葉に先輩は口元に手を当ててくすくすと笑ってくれました。

「ふふ、そうかもね。――お茶、そろそろいい頃合いじゃないかな?」

 先輩は本をパタンと閉じて椅子から立ち上がりって私が入れた急須の方へと向いました。立ち上がった先輩の目線は私の目線よりも顔ひとつ分くらい高くて見上げる形になります。


「あ、じゃあ私は湯呑用意しますね。」

 先輩と私のマグカップは壁際のガラス戸棚に仕舞ってあります。入部したての頃は少なくとも十個くらいの個性あるコップ達が並んでいたスペースに今並ぶのはたった二つだけ。ずいぶんと隙間だらけで寂しくなったガラス戸を開けると湿気で歪んでいるのか木の軋む音が部屋に響きわたりました。その音を聞くとどこからか心の中へと隙間風が吹き込んでしまったかのように寂しくなってしまいます。


「文月さん、どうかした?」

 戸を開けたままじっと固まってしまった私を気にしてくれたのか、後ろから声がかけられ少しびっくりしていまいました。

「あ、いいえ。……なんでもないですよ。」

 慌てて二つのマグカップを取り出して、軋む音を再び響かせながらガラス戸を閉じます。やはり少しだけ歪んでいるのか締め切る前に抵抗感があり、ぐっと押さないと閉じられませんでした。


 取り出したマグカップを先輩の目の前にコトンと置きます。

「実は今日はお茶請けも買ってきてあるんだよ。」

「わぁ、なんですか?」

 先輩は手荷物から和菓子屋の名前が入った袋を取り出しました。その袋からさらに透明のプラスチックの容器を取り出して机に上にそっと置いてくれます。

 容器の中には綺麗な白黒二色で三角形の和菓子。もちもちとした白い生地の層と小豆が並ぶ黒い層に別れています。

「あ、知っていますよ。えっと何ていう名前でしたっけ。……水無月みなづき?」

「うん。水無月だよ。――今日は6月30日だからね。」

 私は外郎のようにもちもちとしたお菓子はとても好きなので水無月も時折食べることがあります。だけれども、先輩の言葉の意味は分かりませんでした。

「6月30日……今日食べると何かあるのですか?」

「ある地域では水無月を今日に食べることで一年間の無病息災を祈願するらしいよ。まあ、効果の程は……食べる人の信じる心次第かもしれないけれどね。」

 すこし苦笑しながら先輩は水無月が入っていた袋を綺麗に三角形に織り畳んで塵箱ちりばこへと音がでないよう丁寧に捨てました。

「水無月……旧暦の名前で呼ぶと不思議ですね。今の6月にはこんなにお水いっぱいあるのに……。」

 窓の外へ目を向けると相変わらずの雨模様。梅雨の終わりの暴れ梅雨のといった天気。暴れるというその言葉通りに降りしきる雨粒が窓や地面を叩きつける音が大きく鳴って少し怖いくらい。地面は泥濘ぬかるむどころか既に池の様になってしまっているので、この様子だと帰り道で靴下まで濡れてしまうことになってしまいそうです。

「濡れないように傘はちゃんと持ってきた?」

「はい、ふふ、大丈夫です。」

 先輩は私が手渡したマグカップへとお茶を注ぎながら優しく気遣ってくれました。注がれる水音に合わせていい香りが先程よりも広がって少し離れていた私にまで届きました。


 さっき、もしも私が傘を持っていないと言ったら先輩はどうしてくれたのでしょうか。

 聞きたいことはそれ以外にも沢山あります。先輩は何日に日本を発つのでしょうか。それを言葉に出してしまえばたったの数秒。だけれども延々に逡巡してしまい、言葉が喉の奥でつかえてしまい何時までも聞けずじまい。


「はい、どうぞ。」

 先輩は水無月と菓子楊枝かしようじを添えた小さな紙皿とお茶が入ったマグカップをそっと私の前へ置いてくれました。

 夕暮れ、雨音だけが響く広くて静かな部室で二人きりのお茶会の始まりです。

「「いただきます。」」

 先輩は私と同時に手を合わせてくれます。竹製の楊枝を使って和菓子を一口大に切り分け、欠片に楊枝を突き刺し落とさないように手を添えながら口へ運びます。すると口の中に白い外郎ういろう部分の柔らかい触感と餡と生地の甘さが咀嚼する度にふわりと広がり、舌先から奥歯の方までがその慎ましくて優しい甘さが染み渡ります。

「……美味しいです。先輩。買ってきてくれてありがとうございます。」

「文月さんの買ってきてくれたお茶も美味しいよ。」

 先輩はすでにお茶を飲んでくれて褒めてくれました。

「本当ですか?良かったです。」

 お茶を味わいたいのは山々ですが、少し猫舌の私は熱いお茶で火傷しないようにそっとマグカップを口に近づけます。ふーっと息を吹きかけると白い湯気が広がって煙のように霧散していきます。

 すっと息を殺し、意を決するように舌先からお茶に口を付けます。ただ、思っていたよりも熱く、新緑が広がるような香りとほんの少しだけの苦さが口の中に広がっていた甘さを上書きしていきました。

「はぁー。……私、お湯を注いだ……だけ、ですよー。」

 温かいお茶が胃の奥へと流れ込む感覚が心地良くてため息が出てしまいました。

「これで文月さんも後一年は病気しないで過ごせるね。」


 いつも部室の窓際で伏し目をしたまま静かに本読む先輩は、一見すると周りを見ていないようにも見えるのですが出会った頃から何かある度に私へ優しい言葉をかけてくれていました。季節の代わり目に熱を出してある日も誰より早く体調の変化に気がついてくれて私に声をかけてくれました。

 その日はさらに私を家の近くまで送ってくれたのですが、緊張してしまって余計に身体が熱を持ってしまったことをまるで昨日のことのように覚えています。


 今日は何気ない思い出の欠片が脳裏に蘇ります。だから、きっとこんな暗い声音で返事をしてしまったのでしょう。

「先輩も米国で怪我とか病気とかとかしないでください……。」

 それは私の本心からの願いです。もう二度と会えないわけではないのに、私の心の中はまるでこの降りしきる雨模様を映したように悲しみでいっぱいになってしまいました。なるたけこの最後の時間だけは明るく過ごそうとしていたのに、口に出してしまうと堰を切ったように涙まで溢れ出してしまいそうになります。せめて先輩を困らせないように涙だけは零さないようにぐっと堪えます。


「……大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。」

「はい、元気でいてください……。」

 明るく返事が出来ていればここまでしんみりとした空気になることはなかったはずです。

 しばらくの間、窓を叩きつける雨音だけがこの空間を満たしてしまいます。次にどんな言葉を投げかけてればいいのか分からなくて。些細な音でさえたててしまうと何かが崩れてしまいそうで……ぐっと抑え込むように堪えます。



 沈黙に終わりを告げたのは先輩でした。

「文月さん――実はね、僕は再来週にはもう日本を発つんだ。」

 先輩の口からこの半年間、何度も聞こうとした二回目のタイムリミットが告げられました。

 

 ああ、やっぱりこの時間ももう終わってしまうのだと。私は何度先輩が好きだと伝えるタイミングを逃してしまったのでしょうか。幾度も後悔しても過ぎ去ってしまった時間は戻らない。

「あぁ……。そうですよね、そろそろですよね。」

 なんとか絞り出した声はきっと震えていたと思います。動揺は心の中のでは隠しきれず、手が、脚が震えてしまいました。その手を抑えながらマグカップのお茶の残りを一気に飲み干す。すっかりと冷めてしまったそれは猫舌の私でもすんなりと飲めたのだけれども、下の方に溜まっていた濃くて苦い味が口の中をいっぱいにしてしまいました。

 悲しみを洗い流そうとしたのに、口の中が苦くて、切ない。


「……。ねえ、文月さん。」

「…はい?」

 その苦さを噛み締めながらゆっくりと先輩の方へ顔をあげます。

「大分無理を言うのだけどね、来週の六日の深夜会えないかな?発つ前の……僕からの最後のお願い。」

「えっと、深夜……ですか?何時頃ですか?」

 それは思いがけない提案です。先輩から校外へと誘ってもらうことなんてこれまで一度もなかったので驚いてしまいました。勿論、今まで私から先輩を誘えたこともないのですけれど。

「えっと……午前0時。」

 先輩は珍しく頬を掻きながら言い難そうに時刻を教えてくれました。

「え……?えっと、二人で、ですか?」

 先輩の返事はさらに思ってもみない時間帯。親に見つからないようにこっそりと抜け出せば大丈夫でしょうか。これまで一度だってその時間帯に一人で抜け出したことはないので少しだけ心配です。

「うん、二人で。――やっぱり、女の子だしその時間は駄目かな?」

 やっぱり、先輩は少し言い難そうに眉間に皺を寄せて苦笑いに近い表情をしています。その表情見ていると悩みよりも先に口が先に動きました。

「えっと、やってみます。……もしも駄目だったら連絡します。」

「そう?じゃあ、駄目元でもいいから。――文月さんの家の近くまで迎えに行くね。」


 来週のその日、二人きりで何をするのでしょうか。口の中いっぱいに広がっていた苦味はどこかに消えてしまい、あれだけ激しかった雨音よりも心臓の高鳴りのほうが大きく聞こえます。自分の呼吸さえもおぼつかなくなってしまい、真っ直ぐに先輩の方を見る事ができません。


「はい……。わかりました。」

 ようやく絞り出した声はさっきとは別の理由で震えてしまっていました。今夜から当分満足には寝られそうにもないかもしれません。何故か急に自分の髪の位置が気になってしまい、横髪を何度も触ってはちらちらと先輩の方を伺ってしまいました。

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