第5場 再会(2)

 つい思いつきを口にしてしまったが、それを聞いた結架の頬が濃い薔薇色に染まった。嬉しげに、そして羞ずかしげに、初々しい表情で緩む口許を指先で隠す。その仕草が、あどけない。

 一陣の風が、そのひととき途絶えた。

 ほんの数秒間の沈黙に、夢が夢のまま遠ざかる。

 想像の中での幸せが、不意を突いて思い出された記憶に、たちまち掻き消された。

 結架の視線が固定されているのに気づいて、その先を見る。道路の向こうの防音林か、それとも空か……。

「結架?」

 影を映した双瞳が揺れる。

 雲が広がったのか、陽が翳った。

「……むかし、ね」

 車の走行音に消されそうな震え声が鼓膜まで辿り着くのは、集一の能力によるのか。それとも彼女の声質の賜物か。

「一度だけ、お兄さまが私を心配して泣いてくれたの。お兄さまの涙なんて見たのは、あのときだけ。お父さまとお母さまが亡くなったときでも、少しも揺るがず毅然としてらしたもの。でも、あのときだけは、本当に」

 ──わたしを大切に想ってくれた。

 懐かしむよりも、覚えている過去の解釈の正確さを確かめるかのように冷静な語調。

 ツリーハウスでの結架の記憶は、一部だけが鮮明だ。思い出せるかぎりの想い出を語る瞳には、愁いが深い。

「……もしかして、その別荘に堅人さんが居るとか」

 ふと連想されて言ってみたが、結架は首を横に振った。

「それはないと思うわ。あの別荘は、もうないの。火事で全焼してしまったから。お父さまとお母さまは、そのとき亡くなったのよ。今は何も建っていないはず。ツリーハウスも、きっと残ってないでしょうね」

「火事」

 表情を消した結架が頷く。

「夜だったのですって。お兄さまが眠っていた私を背負って避難してくれたらしいの。実は、あまり、憶えていないのだけれど」

 仮に憶えていればむごい光景だ。寧ろ記憶になくて幸いだろう。

「翌日には鞍木さんたちと叔母夫妻が駆けつけてくれて、私たちは暫く入院したと聞いているけど、そのせいだったのかしら。お葬式をしたのは、叔母の家で暮らすようになってからだったと思うわ」

「大変だったね」

 握った手の力を強めると、彼女は ぎこちなくも微笑んだ。

 幼少期の記憶が霞んでいるせいか、哀しみも悼みも、どこか薄い。冷淡なような気もして、その罪悪感のほうが強いほどだ。

「大変だったのは、お兄さまのはずよ。私は誰からも守られていたけれど、両親との記憶も朧気で、悲しみを分かち合うことさえしていなかった。薄情で冷たい、酷く不孝な娘だと、自分でも思うわ。それでも小さい頃の家族の生活を思い浮かべられないの。父から教えられた音楽の基礎学習の内容や技術は覚えているのに、それは知識であって、想い出ではないわ。叔母と叔父を喪ったときの痛いほどの悲しみと自責のほうが辛かった。そのときにも、お兄さまは私のために心を砕いてくれていたの。それは、確りと覚えているわ。それなのに」

 ぎゅっと結架の手に力が入った。

 大型バスが通過して起きた強風。集一の身体では防ぎきれなかった空気の流れに煽られ広がった髪が彼女の表情を隠す。

 囁くような呟きが、風音に掠れた。

「いつからかしら、お兄さまを怖いと思うようになったのは」

 ふと目覚めたとき。

 何気なく窓を見上げたとき。

 極度の集中から我に返ったとき。

 兄の姿を目にして慄いたことが、何度もあった。

 あの瞳に渦巻いていた煮詰められた狂気を、的確に表現する言葉はない。灼熱の紅蓮とも思える、あれは、決して怒りでも憎しみでもないのに、何故、これほどまでに震撼するのだろうか。

 恐れに萎縮して冷えた頬が、もう一度、あたたかい手のひらに包まれた。何故、彼は、こんなにも結架の無自覚な望みも感じとれるのだろう。

 集一の手の温もりに ほわりと安らいで、目尻と口元が弛む。

 雲が切れ、明るい陽射しが届いてきた。照らされた顔の色は白い。しかし、灰色の苦悩は薄らいでいる。

「義務と責任感に がんじがらめに縛られて自分を追いつめてしまうのだとしたら、きみと堅人さんは、よく似ているのかもしれないよ」

 涼やかな声が一段と優しい響きをしていて、結架は吐息を震わせた。

「兄妹だから似てしまうのかしら。でも、いくら責任強さと愛情深さからだと思うようにしても、あんなに高圧的で有無を言わせない庇護は、耐えがたいものだわ」

「僕も気をつけよう」

 結架は思わず小さいながらも声をたてて笑った。

「あなたも過保護になりたいの?」

「多分もう既に過保護だよ。きみの周囲にいる人間で、そうでない人なんて居たかな」

「……そうね。でも、あなたは私の考えも行動も制限しないでいてくれるから、寧ろ、嬉しく思っているわ」

 集一が身を挺して勢いを削いだ風に靡く亜麻色の髪が、穏やかに明るい陽射しを浴びて輝く。その美しさに触れることが許されていることが誇らしい。ひんやりとして滑らかな毛先を指で撫でる。そうしているうちに鞍木の車が近づいてくるのが見えて、黙認されている乗降区域の端に停車した。先ほどから次々と車が停まって人が乗り降りしているさまを横目で見ていたので、二人とも素早く乗り込む。シートベルトを装着するのと、鞍木が発車させるのは同時だった。

「さて、とりあえず、合流したが。肝心の堅人が居ないわけで、どうしようか」

 もともと帰国日にすぐ堅人に会いに行くと決めていたわけではなかったものの、集一は出来るだけ早い対面を望んでいた。流石に延ばせない仕事の予定もあったので、結架も集一の帰国日ごろにはと、カヴァルリ家に居たころから覚悟を決めていたのだが。

 互いの家族への挨拶を、都合の良い日の合わせやすさということもあり、集一が折橋家に訪問するのを先としていたものの、結架を先に榊原家の人々に紹介するとしても、誰にも否はない。そして、鞍木が運転手として、また家族ぐるみの付き合いもある仕事のマネージャーとして付き添うことも、なんの問題もない。

 それを今日とすることが出来るものか提案した集一に、結架も鞍木も驚くことなく頷いた。どうやら二人は、その可能性について、事前に話し合っていたらしい。

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