没ルート①_ 死にたがり魔王は覚悟を決めない

雪原いさご

第1話 自主封印の外へ

 何も無い。ただ何も無い。

 いやあった。無機質に切り取られた白墨の構造物には囲まれていた。それから自分。


 青年が一人、目を開けた。

 反射光の鋭さに何度も瞬きをする。何年ぶりの目覚めかはわからない。青年の下へと足繁く通っていた恋人はとうに来なくなっていた。


「なんでまだ勇者来ないの!?」


 何も無い空間に向かって青年は叫んだ。頭上に伸びる獣の耳は興奮から天を突き、乱雑に括られた長い髪は膨らんでいる。黒混じりの胡桃色の髪はタヌキの尻尾を彷彿とさせた。

 青年は魔王と呼ばれる──否、魔王と呼ばせている存在だった。昔々にしでかしたことの尻拭いをするためだけに息をしていたというのに、肝心の勇者が来ない。


「殺してもらわないと困る……もう限界」


 青年は翡翠色の鋭い目を再び閉じ、祈るように地面に突っ伏した。


『聖剣を携えた勇者によって魔王は絶命し、世界は救われる』


 そういった筋書きを女神と共に用意したのだ。竜の侵攻によって荒廃した世界を再生させるための苦肉の策だった。

 竜はまだ青年の身の内だ。

 竜を封じ込めたまま聖剣で貫けば、竜が食い尽くしてしまった大地の活力が回収できて荒れた土地はよみがえる。そんな千年計画だった。

 そう、計画は千年程度で終わるはずだったのに青年はまだ生きている。

 何かあったに違いないが、青年はこの真っ白い領域から出るわけにもいかず、うろうろと落ち着かなげに歩き回っていた。状況を教えてくれるはずの女神はしばらく来ていない。

 何千年もの苦楽を共にした女神。共に竜に立ち向かった。世界を砕くときも、領域を形成したときにも。そして青年にとってはこの虚無の空間において唯一の心の拠り所だった。拠り所だったが故に、来てくれる度に滅茶苦茶引き留めていた。

 彼女との最後の記憶は首が折れんばかりの威力で繰り出されたビンタだった。

 はっ。と、青年は目を見開いた。


──普通にフラれただけでは?


 浮かんだ考えに頭も身体も硬直する。


──まさかそんな世界の明暗がかかっているような事なのに個人の好き嫌いで行動を変えるなんてことはいくらなんでも軽率すぎるだろうし順当に考えたら女神の身に何かあったと考えるべきだろうけどでも女神が一方的に害されるというのは信仰としても武力としても考えづらいというか長年の記憶を辿ると愛想が尽きて何か別の方法で世界を再生させる方法を発見してしまったとは言い切れなくもないし長い年月を経て思考回路が人からだんだん外れて古代神話に出てくるような女神みたいになっていたら全然ありえるじゃないか。


 青年は静かに混乱していた。

 これは自分の目で確かめなければならぬと決意した。だが外には出られない。長年かけて弱毒化させたとはいえ、竜の力が外界に影響を及ぼさないとは言い切れなかった。

 竜の力は命を狂わせる。

 滲み出る毒は獣を凶暴化させ、精霊を堕とし人に仇なすものに変貌させる。便宜上、魔物や魔族と呼んでいたが、竜の毒に侵されたものに意思が残ることはなく、その呼び方が妥当であったかどうか。

 そこで青年は気付いた。力が毒なら、力の大半を領域に置いていってしまえばいいのだ。己と同化してしまった精霊が昔そんな事をしていたはずだったと思い出す。正確には分身していたが、元々人の身である青年が一朝一夕にできる芸当ではなかった。

 青年は意識を集中させて、周辺を漂う活力を織った。同時に体表から蒸発していく淡く淀んだ光。生身の身体から血を抜き取るような冷えた感覚に青年の足元が覚束なくなる。

 しばらくして青年の目の前に巨大な繭が編み上がった。薄く透ける中では先ほど青年から抜け出た光が波打っている。そこは竜の意思もなく精霊の意思もなく青年の意思もない。長い年月の間で蛹の中身みたいにしてどろどろと一緒くたに溶けてしまっていた。純粋な力の塊だ。それもとびきり有害な。

 手を握り、その場で跳ねる。ひどく重いものの、身体に異常は無い。

 年代物の外套を引っ張り出して身に纏った青年は、一歩だけ領域から踏み出した。足元の草が異常成長することもなければ、木の根が急に走り出すこともない。現在の外界に漂っている活力である魔素まそも問題なく扱えるようだった。魔素を用いて治癒を促進させた兎が何故か筋骨隆々になってしまうといった多少の不具合に目を瞑れば、全て首尾良くいっていた。

 久しぶりに得た仮初めの自由に青年──アルーフの足取りは軽くなる。

 命を正しく終わらせるため、アルーフは勇者と聖剣を、そして個人的な事情のために女神も探しに外界へと駆けて行った。

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