馬車の中で

 南北に短く東西に長い国土を持つハサール王国。その東と西をつなぐ主要街道の真ん中を数台の馬車が進んでいた。

 それらが掲げる紋章は、それを見分ける専門の役人――紋章官でなくとも見分けが付くほど有名だった。なぜならそれは「王国の西の盾」と謳われる西部辺境侯爵家であるムルシア家のものだったからである。


 まさに阿鼻叫喚。地獄絵図のような茶会の会場を「ごきげんよう」の一言で後にしたリタは、もはや用はないと言わんばかりにさっさと帰路につこうとする。しかしその前にふと思い出し、イメルダに屋敷を出る準備を命じた。

 長らくマウアー公爵邸で過ごしてきたのだから荷物もそれなりにあるだろう。そう思って準備のために30分の猶予を与えたのだが、予想に反してイメルダはたった5分で戻ってきた。


 大切そうに掲げる幾つかの荷物。それらが何かと見てみれば、分厚い研究ノートと自筆の論文、そして小さな鞄に収まるほどの私物だけ。

 それはイメルダの生き様そのものだった。物心ついた時から、ひたすら魔術の研究に明け暮れてきた彼女は、魔術関係を除くと数着の着替え以外にほとんど私物を持っていなかったのだ。


 いま彼女が着ているのは普段使いの簡素なドレス。ドレスと言えば聞こえはいいが、実際にはあちこちが擦り切れた、汚れても気にならない作業着のようなものだった。

 

 まったく化粧気がないうえに、いつ切ったのかわからない髪を無造作に引っ詰め、衣服にはまるで無頓着。お世辞にも洒落ていると言えないその姿は、人に不快感を与えないぎりぎりだった。

 

 ともあれ、そんなイメルダにリタが親近感を覚えていたのも事実である。

 イメルダを見ていると自身の若い頃と姿が重なる。今から200年以上も昔の話。師匠であるヒルデベルトから魔術の指導を受けていた当時のリタ――アニエスも同じような格好をしていたのだ。


 師匠が一国の宮廷魔術師である手前、さすがのアニエスも人前では恥ずかしくない格好をしていた。しかし家では作業着同然の薄汚れたドレスに身を包んでいたのだから、決して人のことは言えない。


 そんなわけだから、馬車の対面で縮こまるイメルダをリタは生温かい眼差しで眺めていた。するとそれまで顔色を窺うように縮こまっていたイメルダが意を決したように口を開いた。



「あ、あの……アニエ……じゃなくてリタ様。少々お話をしてもよろしいでしょうか?」


「別にかまわないわよ。そもそもそのために二人きりにしてもらったんだから。念のために防音結界も張ってあるから、好きに話してちょうだい」


「あ、ありがとうございます。それでは……」


 自ら話しかけておきながら、思わずイメルダは言い淀んでしまう。

 なにせ相手はあの・・『アニエス・シュタウヘンベルク』である。人間でありながら二百有余年を生き続け、そのほとんどを魔術の研究に費やしてきた魔女中の魔女。くわえて一国の宮廷魔術師を100年以上も勤めあげ、挙句に魔王に引導を渡した大英雄でもある。


 今や前世の面影すらない美少女然とした佇まいながら、立ち居振る舞い、そして言葉の端々に覗く片鱗は間違いなく老害……ではなく、偉大なる魔術師そのものだった。

 決して追いつくことのできない無詠唱魔術の先駆者にして生きる伝説。そんな人物が目の前にいることさえ信じられなかったが、己の才能を彼女に買われたのだと思うと、恐縮のあまり身が縮こまる思いがした。

 震える唇が言うことを聞かない。それでもイメルダは果敢に口を開こうとする。


「あの……まずは教えていただきたいのですが、私の編み出した魔術式にはどんな欠陥があるのでしょうか? 一応は呪文詠唱をせずに術式の展開まではできているのですが……」


「うふふ、そう来ると思ったわ。――そうね、それじゃあ質問を質問で返すようで悪いけど、さっき私が訊いたことは憶えているかしら?」


「質問……? あぁ、あの、無詠唱魔術の目的とかいうのですか?」


「そう、それ。何故に魔術師は無詠唱魔術を解き明かしたがるのか。それね」


「えぇと……さっきもお答えしましたが、呪文詠唱の省略によって術式展開の時間短縮が可能になる……と認識していましたが、もしやそれだけではないのでしょうか? それ以外に考えたことはありませんでしたが……」

 

 さすがは生粋の研究者気質(オタク気質とも言う)と言うべきか。魔術の話題を振られた途端に、それまでの緊張さえ忘れてイメルダが話し始めた。それも早口で。それへリタが楽し気に答えた。


「確かにそう。でもそれは目的の一部でしかない。……そうねぇ、副産物とでも言えばいいのかしら。結果としてそうなった、というものだから」


「副産物……ですか?」


「そう。いい? イメルダ。あなたもそうなのだけれど、無詠唱魔術を研究する者たちは『無詠唱』という言葉に惑わされ過ぎているのよ。確かに呪文の詠唱が必要なければ術式展開は素早くできるけど、それは単なる詠唱魔術の延長でしかないわ。それはわかるわね?」


「確かに。時間短縮になるだけで、できることはなにも変わらない。といっても、そこへ至るまでに私は10年以上かかりましたけどね。それが初めから間違っていたとリタ様は仰るのですか?」


「申し訳ないのだけれど、貴女の理論は穴が多すぎるのよ。今はまだ露呈していないけど、この先間違いなく破綻するわ。それはずっと昔に私が突き詰めて諦めたものだから間違いない。――それで話は戻るけれど、無詠唱魔術の真髄とはなにか。それは術式の同時展開に尽きる」


「同時展開? あっ、それって……」


 その言葉を聞いた途端にイメルダの表情が一変する。彼女は思い出していた。ついさっき、模擬戦と称してリタと対峙した時のことを。

 あの時リタは複数の術式を同時展開するという、常識ではあり得ないことをやってのけたのだ。あまつさえ火と水という相反する属性さえ同時に成立させて見せた。


 リタはそれを言っている。

 瞬時に理解したイメルダが興奮のあまり食い気味に身を乗り出す。するとなにを思ったのか、リタが顔に苦笑を浮かべた。


「はい正解。――いい? 知っての通り人間には口が一つしかない。だからどんなに訓練を積んだところで、同時に複数の言葉を喋るなんてできないのよ。これこそが複数の術式を同時に展開できない理由。当たり前すぎて今や誰も疑問に思わないけれどね。だけど、そもそも呪文の詠唱が必要なかったとしたらどうする?」


「あっ……」


「ふふ、ご名答。術式を幾らでも同時展開できるというわけね。まぁ、あくまで理論上の話だけれど。そして互いに喧嘩し合うのはあくまで呪文という言霊であって、術式自体が相容れないわけじゃない。だから呪文の詠唱さえしなければ、火と水の術式も同時に展開できるのよ。――もっとも、言うほど簡単なものじゃない。二つ同時に操れるようになるまで、私でさえ30年以上もかかったもの」


 言いながらリタがニヤリと笑う。

 30年とさらりと告げたが、それはイメルダの魔術師人生に匹敵するものだった。気の遠くなるようなその年月を聞いたイメルダが愕然とする前で、変わらず笑みを浮かべたままリタが告げた。


「とはいえ、大変なのは最初だけで、コツさえ掴んでしまえばあとは3つも4つも変わらない。ちなみに私は10個まで同時に術式を展開できるわよ。世界広しと言えども、ここまでできるのは私だけなの。どう? なかなかのものでしょう?」

 

 「むふぅー」と鼻息を吐きながら、誇らしげな表情とともに自慢の大きな胸を張る。美しくも愛らしいそんなリタを見ていると、その正体が200歳越えのBBAであることさえ忘れそうになってしまう。そんなイメルダへ続けてリタが言った。


「そこで貴女が編み出した無詠唱魔術理論の話になるのだけれど、残念ながらあれは術式の複数起動ができないのよ。それでは無詠唱にする意味がない。これは私が散々精査した挙げ句にたどり着いた結論なの。今からもう百年以上も前にね」


「そうですか……」


 気落ちしたようにイメルダが呟く。自身で編み出したはずの画期的な術式が、実はすでに検証され尽くしていたものだったのだから無理もない。

 論文を発表するにあたって、イメルダは過去の様々な情報を漁ってきた。自国内はもとより、遠い異国のものから市井に埋もれた伝承に近いものまで、出来得る限り調べ尽くしてきたのだ。気の遠くなるような時間を使って。


 無詠唱魔術と言えば、前ブルゴー王国宮廷魔術師アニエス・シュタウヘンベルクを外しては語れない。だからイメルダは手に入る限りのアニエスの著書にも目を通してきた。

 そのうえで自身が編み出した術式が、他の誰にも発見されていない独自のものであると自信を持っていたのだが、蓋を開けてみればとっくの昔に検証し尽くされていたのだからやりきれない。挙げ句に使い物にならないからと放り投げられていたのだ。まさに「とほほ」である。


 自身の半生を否定されたような気になって、一目で分かるほどにがっくりと肩を落とすイメルダ。それを見たリタが、励ますように声量を上げた。


「とはいえ、すべてが無駄だったわけじゃない。確かに矛盾を孕んだ伸びしろのない理論ではあるけれど、それ自体は無詠唱魔術の敷居を引き下げるものに他ならないのだから。もう少し簡略化して魔力使用量を節約できれば、いずれは並の魔術師にも扱えるようになるはずだわ」


「えっ……?」


「だから貴女はその研究を続けなさい。そして無詠唱魔術の一般への普及に尽力するのよ。もちろんそれと並行して私の編み出した無詠唱魔術も学んでもらうからそのつもりで。――きっと目が回るほど忙しくなるわ。それこそ寝る暇もないくらいにね。だけどきっと貴女にならできる。私はそう信じているわ」


 君ならできる。

 歴史に名を残す偉大な魔女にそう言われて決して悪い気はしないものの、それでもイメルダは不安が先立ってしまう。

 果たして自分にできるだろうか。期待に応えられるだろうかと。


 そのイメルダへ続けてリタが言った。


「ねぇイメルダ。不安なのはわかるけれど、今からそんな顔をしないでちょうだい。そもそも貴女一人にすべてを任せるつもりなんてこれっぽっちもないから安心して。――ちょうどよかったわ。今頃きっと我が家に着いているはずなのよ。貴女と一緒に汗を流してくれる仲間がね」


 上辺だけか本心か。それはリタにしかわからない。けれどその顔には、どこか悪戯っぽい表情が浮かんでいた。

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