新たなムルシアの誕生 その5

 頑張った妻に労いの言葉をかけてあげたい。

 生まれてきた我が子に一秒でも早く会いたい。


 その想い一心で、ノックの返答すら待たずにフレデリクは寝室への扉を開け放った。

 本音を言えばすぐにでも駆け込んでいきたい。けれど中には生まれたての赤子が寝ているのだから、ここは静かにゆっくりと入るべきだ。

 逸る気持ちを抑えきれずに、今や妻に張り倒されたことさえ忘れ果てたフレデリクではあるが、さすがの彼もその程度の分別は残していた。その彼が細心の注意を払いながら一歩一歩部屋の中へと入っていく。


 今や見慣れた天蓋付きの大きなベッド。その上に横たわり、上半身を起こして佇む一人の女性。

 もちろんそれはリタだ。

 出産からそれほど時間が経っていないらしく、未だ汗の浮かんだ額と頬にほどけた長い髪が張り付き、少々やつれた様ではあるものの見たところ元気そうだった。 


「や、やぁリタ、お疲れ様」


 開口一番、フレデリクがそう告げた。


 あんなことがあったばかりなのだから、わだかまりがないと言えば嘘になる。果たして妻はどんな顔で迎えてくれるだろうか。


 不安に襲われるフレデリク。しかし次の瞬間、それらはすべて杞憂に終わる。


「あぁ、あなた。やっと生まれてくれました。――見てください、あなたのお子ですよ」


 いつもと変わらぬリタの態度。

 少々やつれた感は拭えないものの、それでもにこにこと人好きのする笑顔で小さなおくるみ・・・・を差し出してくる。それを見た途端、まるで太陽を直視したようにフレデリクは目を細めた。


 女神のような慈愛に満ちた表情。

 この世の全てを包み込む優しい笑顔。

 

 これまで数えきれないほど妻を可愛い、美しい、綺麗だと思ってきたし、実際口にも出してきた。けれど、いま目の前にいる彼女はそれらのどの言葉でも言い表せられないほど輝いて見えた。

 例えるなら、創造主である神が自らの子である人間に向ける表情とでも言うべきか。

 それともすべてを許して包み込む女神の抱擁だろうか。


 いずれにしても己の乏しい語彙では適切な言葉が見つからない。いまこそ自身の不学を恨むべきだろう。

 そんな思いとともにフレデリクが棒立ちのまま固まっていると、怪訝そうにリタが尋ねた。


「なにをしているの? さぁ抱いてあげてくださいな。あなたの可愛い娘ですよ」


「娘……?」


「そう、娘よ。……ん? もしかして、聞かされていなかった? 侯爵様へはお伝えしてあったはずだけど」


「あ、いや……」


「そっか。もう……侯爵様もお人が悪い。知っていたなら教えていただいてもよろしいのに」


「ご、ごめん……」


「ふふふ、なにもあなたが謝ることじゃないでしょう? 私はべつに怒っているわけじゃないんだし。――わかったわ、それじゃあ改めて紹介するわね。この子が私達の娘、ヴィルヘルミーナよ。よろしくお願いしますね、お父上殿」


「ヴィルヘルミーナ……」


 冗談めいたリタの言葉を聞きながら、フレデリクが小さく呟く。

 生まれたばかりの赤子であるにもかかわらず、不思議とその名はずっと昔から知っているような気がした。

 なぜだろう。思い返してみる。するとその名は、これまで何度も繰り返し聞かされてきたものであることに気付いた。

 

 妊娠してからというもの、リタはとても熱心に子の名前を考えてきた。

 まだ見ぬ我が子へ思いを馳せ、男の子ならマクシミリアン、女の子ならヴィルヘルミーナにしようと楽しそうに語ってきたのだ。そんな彼女を眺めているだけでフレデリクは幸せだった。

 そして気づけば、ついにその名を冠する赤子が目の前に現れていたのだ。


 差し出された小さなおくるみ・・・・。その中にはまるで天使のような赤子が眠っていた。

 ジッと眺めてみる。

 母親譲りのプラチナブロンドの髪は金糸のように光り輝き、抜けるように白い肌と赤みを帯びたぷっくりとした頬のコントラストが見る者すべての視線を奪う。

 むにゃむにゃと動く愛らしい唇。髪と同じ金色に彩られた睫毛まつげは細くて長く、低いながらも一本筋の通った鼻は未来の美貌を約束していた。


 間違いなく将来は絶世の美女と呼ばれるようになるだろう。

 親の贔屓目ひいきめを抜きにしても、そう断言せざるを得ないほどヴィルヘルミーナは整った顔つきをしていた。

 眺めること暫し。意図せずフレデリクの口から言葉が漏れた。


「可愛い……とっても可愛いよ。この子が僕たちの娘なんだね……」


「うふふ、これを見て。まるで綿毛のようなふわふわのプラチナブロンド。髪は私と同じ色ね。ということは、瞳の色はあなたと同じ薄茶色かしら。今から目を開くのが楽しみだわ。――というわけで、はい、抱っこしてあげてね」


「えっ! いや、ちょっと……怖いよ」


 少し力を入れただけで壊れてしまいそうな小さな命。

 思わずフレデリクは手を引いてしまったのだが、それでもリタは半ば強引に抱かせようとする。


「大丈夫。こことここを押さえて……そう、その調子でゆっくりと……はい、そのままそのまま……」


 言いながらリタがそっと自身の手を夫の手にあてがう。そして生まれたばかりの小さな娘をゆだねたのだった。



「赤子を抱くなんて弟のとき以来だ。温かい……そしてなんだか甘い匂いがする」


 おっかなびっくり。怖そうにしながらもフレデリクが娘の温もりに夢中になっていると、なにを思ったのか突然リタがこう告げた。


「ごめんなさい、あなた。決して素直には喜べないよね」


「えっ?」


「侯爵様も奥様もとても喜んでくださったけれど、やっぱり本心では男の子を望んでいたと思うの。そう思うと私は……」


「リタ、誰もそんなことなんて思っていないよ。気にしすぎだ」


「でも……侯爵家の嫁である以上、跡取りの男児を産むことを期待されている。私にだってそのくらいはわかっているわ。だから――」


 どこか自虐めいた笑みをリタが浮かべる。するとフレデリクが一転してその顔に険しい表情を浮かべた。


「そんなことない! せっかく生まれてきてくれたんだ、それが男の子だろうと女の子だろうと関係ないよ! 愛すべき君と僕の子。それだけで十分じゃないか」


「あなた……」


「それは父上も母上も同じはず。みんな同じムルシアなんだから、そこに男女の貴賤なんてあるはずがないだろう!?」


 優しげな雰囲気から一転して、熱くフレデリクが語り出す。


 医療が未熟なこの時代、乳幼児の死亡率はそれなりに高かった。そのため医者などとは縁遠い市井の者たちは、比較的病気に強いと言われる女の子を第一子に望む風潮はそれなりに根強い。

 確かに血の継承をかんがみるなら第一子に男児が望まれるのも理解できるが、そもそもそこにこだわっているのは貴族や王族くらいのものである。


 フレデリクの考えは貴族としては異端なのかもしれない。けれど一方で、それは嘘偽りのない彼の本音でもあった。



 言いたいことはたくさんあるし、決めてもいた。

 しかしそれらをなに一つ告げることなく、気づけば妻に反論していた。その事実に愕然としたフレデリクは、急に声のトーンを下げて謝罪の言葉を口にする。


「ご、ごめん……思わず君を否定するようなことを言ってしまった。謝るよ、すまなかった」


「ううん、いいの。ありがとう。そう、そうよね、私が間違っていた。なにより大切な小さな命。そこに男とか女とか関係ないよね。――その言葉にすべてが救われた気がする」


 言いながらリタがヴィルヘルミーナの頬を撫でた。

 沈んでいた表情から一変。ここしばらく見せたことがなかった極上の笑みをリタが顔に浮かべる。それにフレデリクが見惚れていると、腕の中で小さな娘が声を上げた。

 

「ふみゅぅ……ほぎゃあ、ほぎゃあ、ほぎゃあ!」


「おぉよしよし。いい子だから、泣かないでおくれよ」


「ほぎゃあ、ほぎゃあ、ほぎゃあ――」


「リ、リタぁ!」


「さぁヴィルヘルミーナ。いい子ね、こっちへいらっしゃい。あらあらお腹が空いたのね。それじゃあ、ちょっとだけ待っててくれる?」


 助けを求めるフレデリクからそっと赤子を受け取ると、おもむろにリタが胸元をめくり上げた。

 やはりお腹が空いていたらしい。差し出された乳首に吸い付いたヴィルヘルミーナは一心不乱に乳を飲み始めた。


 まるで天使と女神の抱擁。

 なんということもない。ただ母が子へ授乳しているだけなのだが、その姿は妙に神々しく見えた。


 その景色にフレデリクの視線が釘付けになる。

 それが娘に向けられたものなのか、はたまた久しぶりに拝んだリタの胸に向けられたものなのかはわからない。けれど彼が身動みじろぎ一つせずに固まっていたのは事実だ。

 すると横にたたずむ専属メイドのミュリエルがわざとらしく咳ばらいをした。


「ごほん! えぇ、フレデリク様。ただいま若奥方様は授乳中にございますれば、今暫くご中座いただきたく存じます。よろしいでしょうか?」


「えっ?」


「ですから、リタ様のお胸が丸見えとなっておりますので、暫し席を外していただきたいと申し上げております」


「あ、あぁ……そうだな。確かにそうだ。それじゃあ少しだけ退席させてもらうかな……」


 などと言いつつも、相変わらずフレデリクの視線は妻の胸に吸い寄せられたまま。するとリタがニコリとほほ笑んだ。


「あら? もしかしてあなた、母乳に興味がおありなのかしら?」


「い、いや、そんなことはない。断じてないよ。母乳を飲んでみたいだなんて考えたこともない!」


「ふふふ……あら、そう? ――いい機会だし、なんならあなたも吸ってみる? 右の胸なら空いてるわよ?」


「えっ……? い、いいの? 本当に?」


「もちろん。それじゃあこっちへいらっしゃい。さぁ、ここへ座って」


「わ、わかったよ……わくわく……」


「そうそう、もっとこっちへ……って、あなた。なにを本気にしているのかしら!? そんなの冗談に決まってるじゃないの! 娘の前でやめてちょうだい! 授乳プレイとかマニアックすぎるじゃろがい!」


 ばちこーん!


 周囲に幾人ものメイドがいるにもかかわらず、脇目も振らずにリタの誘いに乗ったフレデリク。再び彼は最愛の妻から情け容赦なくビンタを食らったのだった。


 こうしてリタの第一子出産の報は国中に知れ渡ることになった。

 そしてその後は夫婦の仲睦まじさを証明するかのようにたくさんの子宝に恵まれることになるのだが、それはまた別のお話になる。

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