新たなムルシアの誕生 その1

 臨月である。

 感謝祭の夜。開放的なシチュエーションにほだされて、本能の赴くままに――ごにょごにょしてから十ヵ月。ついにリタはそのとき・・・・を迎えた。

 などと言ってみたところで、まったく生まれる気配がない。今にもはち切れそうにお腹をぱんぱんに膨らませながら、いつまで経っても容体に変化はなかった。

 もっとも初産の予定日がずれ込むのは往々にしてあることなので、まったく心配はいらないと医者からは言われていたのだが。


 もとより細く華奢なリタなので、臨月のお腹を抱えるのはとても骨が折れる。なので今も「どっこらしょ」などと名門侯爵家の若奥方らしからぬ掛け声とともに、リビングのソファから立ち上がろうとしていた。

 するとその腰にフレデリクが素早く腕を回そうとする。


「あぁリタ、危ないよ。さぁ、お腹に負担がかからないようにゆっくり立ち上がるんだ、いいね?」


 最愛の妻を抱き寄せながら、今にもキスしそうな勢いで夫が顔を近づけてきた。

 ここ最近すっかりご無沙汰ぎみのフレデリクはいささか欲求が不満しているらしく、なんやかやと理由をつけてはリタに触れようとする。

 そうして不足しているスキンシップを図ろうとするのだが、当のリタにはそれが面倒くさくて仕方がない。


 未だ父親の自覚に乏しい夫とは対照的に、今のリタはすっかり母親モードになっていた。

 ウキウキの新婚気分は消え果てて、性欲は減退し、生まれ来る愛しい我が子へ想いを馳せる毎日。もちろん夫への愛情がなくなったわけではないけれど、かといって朝っぱらからイチャコラするのも疲れるし、なにより身体がしんどい。

 それでもリタは努力して模範的な妻を演じようとする。


「ありがとう、あなた。いつもごめんなさいね。あなたがいてくれるから私も頑張れる。本当に感謝しているわ」


「なんだよ水臭いな。夫が妻を気遣うなんて、そんなの当たり前だろう? なにかおかしいかい?」


「ううん、全然おかしくなんてないわ。聞けば世の多くの旦那様は奥方を顧みないと聞きますもの。――アベラール侯爵家しかり、カラドゥ伯爵家しかり」


 リタの口から語られた二つの貴族家。

 これらはリタの嫁ぎ先――ムルシア侯爵家傘下の貴族家であり、そこの若奥方たちとは年齢が近いこともあって普段から懇意にしていた。

 そしてリタが言うには、どうやらこの二人の夫はともに奥方をないがしろにしているらしい。


 打算と駆け引きが跋扈ばっこする貴族界において、結婚とはすなわち政略結婚を意味する。そこに個人の意思が尊重されることはほとんどなく、恋愛結婚など夢のまた夢。単なる憧れでしかなかった。


 それは前述の貴族家も例に漏れない。

 アラベール侯爵家の若奥方もカラドゥ伯爵家の若奥方も、親が決めた相手とやむなく結婚したに過ぎず、そこに愛情や恋愛感情などは皆無。現に夫となる人物と顔を合わせたのは結婚式の僅か三ヶ月前だったし、その後も式の直前まで言葉を交わしたことさえなかった。

 確かに結婚後から育まれる愛情もあるのだろうが、それはごく一部の恵まれた者たちの間に過ぎず、大抵の者たちは世継ぎの男児さえ生まれてしまえば互いに肌を合わせなくなるのが普通だ。


 それに比べてリタとフレデリクの夫婦仲は円満だった。それも「超」がつくほどに。

 一応は親同士が決めた政略結婚ではあるものの、出会ってから結婚までの12年間に渡って育んできた愛は本物だったし、もとより両家の両親ともに恋愛結婚だったので、いささか度を越していると言えなくもないリタとフレデリクの仲でさえ理解されるものだったのだ。


 そんなわけだから、人目もはばからずに(自邸内に限る。もちろん外ではやらない)普段からイチャコラしていた二人だが、ここ最近はすっかりご無沙汰だった。

 もっとも欲求が不満しているのはフレデリクだけで、出産を間近に控えたリタは身体がつらいこともあってとてもそんな気分にはなれなかったのだが。

 そのリタへ笑顔のままフレデリクが話を続けた。


「あぁ、そうらしいね。二人ともあんなに美しいというのに、それを顧みないだなんて僕には信じられないよ。レジーヌ夫人はいつもにこにこと愛想がいいし、話題も多くて会話が巧みだ。アメリ夫人もスラリと背が高いうえに顔が小さくて素晴らしいスタイルをしている。――僕が夫なら絶対に放っておかないな」


「……」


「あれほど美しいご婦人たちを妻に迎えられたんだ。ディディエ殿もステファン殿も男冥利に尽きるというものだよなぁ、本当に。――君もそう思わないか?」


「……」


「ん? どうしたんだいリタ? もしかして気分でも悪いのかい?」


 ふとフレデリクが気づく。何気にリタの表情が強張っていることに。

 見れば特徴的な細い眉はきゅっと吊り上がり、垂れ目がちの灰色の瞳も物言いたげに細められていた。薄く小さな唇はツンと突き出され、今にも説教を垂れてきそうだ。


 フレデリクはその顔を見たことがあった。というよりも、決してさせてはいけない表情であることを思い出して慌てて言い繕おうとする。

 しかしそれを言わせる間もなく、露ほども眉を動かさずリタが答えた。


「あなたのおっしゃるとおり、レジーヌもアメリも本当に美しいですわ。レジーヌはとても笑顔が可愛らしいし、アメリはまるでモデルのよう。――ええ、そうですわ。わたくしみたいな珍竹林ちんちくりんなんかとはまるで違いますものねぇ」

 

「あ、いや、あの……リタ?」


「お二人揃ってそれはそれはお淑やかですし、所作だって美しい。そのうえ殿方の目を引くほどお胸も立派」


「ちょ、ちょっとリタ? なにを言って――」


「いくらあなたが望もうと、この大きなお腹では決して満足させられませんもの。ならばせめて出産が落ち着くまでの間だけでも、街の娼館へ遊びに行ってもよろしいですのよ。――パァーッと発散してきてくださいまし、ディディエ殿とステファン殿とご一緒にね」


 勝手知ったる間柄。人前ならばいざ知らず、夫と二人きりのときのリタはかなり砕けた口調で話す。にもかかわらず妙に他人行儀な態度を見る限り、フレデリクが地雷を踏んだのは間違いなかった。

 いったい今の会話のどこにそんなものが埋まっていたのか。必死にフレデリクが思い返していると突然リタが語りだした。


「あなたはいいですわね。そうやってただ赤子が生まれてくるのを待つだけなのですから。それに比べて私は……私は……」


「す、すまないリタ。この通り謝るから許してくれ」


「謝る? なにを? 一体なにを謝る必要がありまして?」


「いや、その……えぇと……」


「……やっぱりわかってらっしゃらないのですね。そんな謝罪なら、いっそないほうがマシですわ」


「え、えぇと……ごめん……」


「……そうよ、そうなのよ。私にだってわかっているのよ! あなたは私を求めているけど、私はそれに応えてあげられない! ここ最近は起き上がっているだけでもしんどいし、腰が痛くて歩くことさえままならないもの! そのうえ、いつ陣痛が始まるかと思うと怖くて仕方がないの! なのに……なのに……」


「リ、リタ?」


「無神経にもほどがあるわ! よくもまぁ、そんなことが言えたのものね。身重の妻の前で他人ひとの奥方を羨ましがるだなんて! ――いったいどの口が言うのよ! この口かしら!?」


 ぎゅー!


 突然フレデリクの頬を摘んだかと思うと、そのままリタは力一杯つねり上げた。見るからに腕力のなさそうな小さく華奢な彼女であるのに、このときばかりは思わずフレデリクがつま先立ちになるほどの剛腕だった。

 その彼女にフレデリクが悲鳴を上げる。

  

「いたたたた! 痛いよリタ! 許しておくれよ!」


「いいえ、許しませんわ! あなたにも分けて差し上げますわよ、この痛みをね!」


「いたたたたた! うわぁ、許してくれぇ!」



 まるで少女のような愛らしい外見にもかかわらず、今や夫のみならず義父までも尻に敷きつつあるリタは、ムルシア侯爵家において女帝と呼ばれる義母――シャルロッテにも劣らぬ貫禄を見せつけていた。

 立場としては未だ若奥方でしかないものの、すでに侯爵夫人に次ぐ実権を握っていると噂されている。屋敷の内外はもちろんのこと、その噂は今では領都カラモルテを超えて近隣の街にまで届くほどで、近い将来には王都にまで伝わるのは確実だった。


 そんなリタではあるが、やはり未知の経験である「出産」というものが怖いらしい。

 前世において212年もの長きに渡って生きたアニエス――リタではあるけれど、ただの一度も出産したことがないのだからそれも致し方なしといったところか。

 そのリタが夫に向かって盛大な八つ当たりをぶちかます。


「もう! あなたって人は!」


「ごめん、ごめんってば」


「さっきから『ごめん』ばかりではありませんの! 謝って済むのなら警邏けいらなんて必要ありませんわ! なんですの、馬鹿の一つ覚えみたいに!」


「うぅ……じゃあ、どうすればいいんだよぉ」


「それをわたくしへお訊きにならないでくださいまし! ご自身の胸に手を当てて、よぉく考えて――うっ!」


「えっ!? リ、リタ? どうした!?」


「お、お腹が……」


「えぇ!? も、もしかして――」


「う……生まれそう……」


「え……? えぇぇぇぇぇ!?」


 屋敷に響き渡るフレデリクの叫び声。使用人たちが慌てて駆けつけてきてみれば、顔を真っ青にしたリタが夫に抱きかかえられていたのだった。

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