リタと悪阻

「あぁ、リタ! ついにあなたも母親になるのですね!」


「おめでとう。安定期はまだ先なのだから、くれぐれも身体には気を付けるのだよ」


 ここは領都カラモルテにあるムルシア侯爵家の邸宅。

 その客間で口々に祝いの言葉が述べられていた。

 部屋にいるのはリタの祖父母であるセレスティノ・レンテリアとイサベル。そして両親のフェルディナンドとエメラルダと弟のフランシスだ。


 リタの懐妊が発覚してから一ヵ月。少々悪阻つわりが重い程度で、それ以外に目立った体調の変化はなかった。

 それでも安定期に入るまではなにが起こるかわからない。場合によっては突然の流産もあり得る。特に初めての妊娠であることを鑑みれば、なおのこと心配は尽きなかった。


 最悪の場合、ぬか喜びに終わってしまうかもしれない。だからリタは実家への報告をもう少し先にしようと思っていたのだが、いつの間にか知られてしまっていた。

 

 娘のエミリエンヌが産んだ子――孫のフェリクスを見たオスカルは、まさに目の中に入れても痛くないとばかりに相好を崩した。けれどどんなにオスカルとシャルロッテが可愛がろうとも、しょせんフェリクスは外孫なのだ。他家の跡取りでしかない。


 それに引き換え、リタのお腹に宿った新たな命は正真正銘ムルシアの子である。

 男か女かはわからないものの、いずれにしても内孫である事実は変わらない。そうであれば思う存分可愛がることができる。

 その事実に浮足立ったオスカルは、リタの了承を得ることなくレンテリア家に手紙を送ってしまった。するとすぐさまレンテリア家の面々がやってきたのだった。



 体調不良により寝込んでいたリタが、夜着の上にガウンを羽織った姿で客間に顔を出す。それは来客を迎えるものとして決して褒められた格好ではなかったが、相手が実家の者たちであることやリタの体調を考慮すればそれも許さざるを得なかった。


 ひと月ぶりに会うリタはすっかりやつれていた。

 もともと細く華奢だったけれど、満足に食事が喉を通らない状況がその身体を余計に細くしていた。夜着から覗く手足は簡単に折れてしまいそうだし、自慢の胸も一回りは小さくなっているように見える。

 あまり眠れていないらしく、元来色白の顔は白を通り越して青くなっており、美しい灰色の瞳の下には濃いくまさえ浮かんでいた。


 まるで幽鬼のような姿。そこには以前のような妖精の如き様相は見られなかった。

 気が強く、あれだけ他人に弱みを見せるのを良しとしない彼女が、具合の悪さを隠そうともしていない。それはそれだけ悪阻つわりが酷い証拠だった。

 そんな娘に向かって父と母、そして弟が口を開いた。


「やぁ、リタ。突然の訪問を許しておくれ。お前の体調がよろしくないのはわかっていたが、居ても立ってもいられなくてね。とにかく、おめでとう。孫の誕生が今から楽しみだよ」


「おめでとうリタ。突然押し掛けてしまってごめんなさいね。いまも眠っていたのでしょう? 悪阻つわりのつらさは私にもよくわかるもの。個人差もあるでしょうけれど、どうやらあなたは重い方みたいねぇ……」


「おめでとうございます、姉さま。――随分と具合が悪そうですけれど、大丈夫ですか?」


 祝いの言葉と体調を気遣う言葉が三者三様に掛けられる。

 それを聞いたリタが、外向けの慇懃な口調で答えた。


「我がムルシア家へ、ようこそおいで下さいました。ご覧の通りの有様ですので、大したお構いもできませんが……うっ……!」


 言いながら眉間にしわを寄せ、嘔吐えずくような仕草を見せる。

 皆に緊張が走る。シャルロッテとエメラルダが思わず駆け寄ろうしていると、リタはこみ上げるものを我慢して必死に笑みを浮かべた。


「ふぅ、セーフ……えぇと、急な訪問にもかかわらず、先日は歓迎していただきありがとうございました。その礼というわけではございませんが、この度は私たちがおもてなしさせていただきとう存じます。どうかごゆるりとご滞在いただければ幸いでございま……うっ!」


 再びリタが嘔吐えずく。

 皆に緊張が走る。けれどなんとか今回も事なきを得た。

 息をする度に押し寄せる嘔吐感にリタが必死に耐えていると、見ていられないとばかりにエメラルダが告げた。


「あぁリタ。挨拶はもういいからあなたは休んでちょうだい。皆様への挨拶が終わり次第あなたの部屋に行かせてもらうから。話はそこでしましょうね」


「うぅ……ぎりセーフ……ありがとうございます、お母様。お心遣いに感謝いたします。それでは後ほど……うっぷ!」


 部屋の中に三度みたび緊張感が走り抜けた。

 けれど今回もなんとか押さえつけると、リタはフレデリクに付き添われてノロノロと寝室へ戻っていったのだった。



 

 夫の実家と妻の実家。両家による形式的な挨拶が終わるとすぐにその場はお開きになった。

 オスカルとシャルロッテは客人を持て成すための準備に入り、レンテリア家の面々はフレデリクに伴われてリタの寝室へと出かけていった。


「どう? 少しは良くなった?」


 変わらず心配そうな母の声。リタが無理に身体を起こそうとしていると、イサベルがやんわりと押し留めた。


「あぁリタ、そのままで結構ですのよ。横になっていれば幾分か吐き気も治まるでしょうし」


「そうよ。それにここには私たちしかいないのだから、なにも遠慮はいらないわ。口調も普段通りでかまわない」


「お婆様、お母様。ごめんなさい、それじゃあお言葉に甘えさせてもらうわね……」


 そう言うとリタは、起こしかけた身体を再びベッドへ横たえた。

 どうやら横になっていると幾分か吐き気が治まるらしい。身体の左側を下にして、右足を曲げてクッションに乗せた体勢が一番楽だった。

 けれどそれでは皆にお尻を向けてしまうことになる。なので全員がベッドの反対側へ回った。


 ぞろぞろと移動する家族に向けてリタが申し訳なさそうな顔をしていると、やや遠慮がちにフランシスが口を開いた。


「大丈夫ですか? 随分とやつれてしまって。あまり食事も召し上がっていないようですし……」


「あぁフラン、心配してくれてありがとう。あなたの顔が見られたから姉上はもう大丈夫よ。さぁ、こっちいらっしゃい」


「は、はい」


 ぎゅー!


 求めに応じてフランシスが近付くと、リタはその豊満な胸で思い切り弟の顔を包み込んだ。それは幼少時から続く弟に対する愛情表現の一つだったのだが、今年12歳になったフランシスにはさすがに耐えられるものではなかった。

 実の姉とは言え、相手は妖精と見紛うほどの美貌の持ち主なのだ。しかも巨乳。そんな相手に女性的な柔らかさを押し付けられたフレデリクは思わず悲鳴を上げてしまう。


「うわぁ! あ、姉上、おやめください! 勘弁してください!」


「あぁーん、フランー! 私の可愛いフラン―!! やっぱりあなたね! あなたを抱き締めていると、私ってばとっても元気が出てくるのよ! うぅーん、フラン―!!」


「うひゃー!」


 どこにそんな力が残っていたのだろうか。じたばたと暴れる弟を思う存分抱き締めたリタは、もう思い残すことはないとばかりに力を緩めた。

 顔を上気させ、はぁはぁと荒い息を吐くフランシス。リタが名残惜しそうにその顔を見つめていると、呆れ顔の母親がいさめてくる。


「だめよリタ。もうフランシスは幼い子供ではないのだから、いつまでもそんなことをしていてはいけないわ。性癖が歪んでしまいそうで怖いし」


「え?」


「ううん、なんでもない。ところでその顔……あまり食事できていないでしょう? それに眠れていないのではなくて? 頬はこけているし、目のくまも酷いわよ?」


「ま、まぁ……」


「まぁねぇ……私にも経験があるけれど。あなたを身籠ったときは、私も悪阻つわりが酷くてねぇ……」


 言いながらなにかを思い出すようにエメラルダが宙を見つめる。

 その顔には昔を懐かしむような優しげな笑みが広がっていた。


「私を身籠ったとき……それってオルカホ村の話?」


「そうね、正確には旅の途中かしら。私の妊娠が発覚したのよ。日に日に酷くなっていく悪阻つわりのせいでついに身動きができなくなった私たちは、たまたま立ち寄ったオルカホ村にしばらく身を寄せることにしたの。――だけどとっても大変だった。運よく住むところは見つかったけれど、それがぼろぼろの廃屋でねぇ……住めるようにするのに手間はかかるし、私の体調は最悪だし、慣れない作業にフェルディナンドも疲れ切っていたし」


「そ、そうだったんだ……」


「そう。それでもなんとか住めるようにして、畑を作って、日銭を稼いで……今思えば、よく耐えられたと思うわ。そんな中であなたを産んだのだけれど、あのときも大変だった。夜中に破水した私をこの人が必死に励ましてくれたの。知らなかったと思うけれど、あなたを取り上げたのはこのフェルディナンドなのよ。ふふふ……懐かしいわね」


「……」


「あぁ、ごめんね。なにも昔話をしたいわけじゃないの。思い出っていうものは辛ければ辛いほど忘れ難くなるものだし、あとで笑い話にもなるから。それをあなたに伝えたくてね」


 昔を懐かしむエメラルダと、その肩に優しく手を乗せるフェルディナンド。

 今も昔も変わらず仲睦まじい両親が微笑んでいると、不意にリタが起き上がった。


「お母様、お父様。励ましてくれてありがとう。二人の大変さに比べれば、こんなものは大したことがないと……うぷっ!」


 嘔吐えずくリタ。部屋の中に再び緊張が走る。

 けれどそれもリタの必死の我慢により事なきを得た。どうやら彼女にはわかるらしい。次に息を吐くときに、息とともに色々なものがこみ上げてくるのが。

 ぽふん、と音を立ててリタがベッドに倒れ込む。彼女に向かって今度はイサベルが問いかけた。


「そうそう、それでいつ頃なのかしら?」


「え? えぇと、そうねぇ……いまから三ヵ月ほど前だから……きっと感謝祭の夜だと思う。あの晩は珍しくお酒も飲んでいたし、屋外という開放的なシチュエーションに興奮してしまって……」


「ちょ……リタ!?」


 意図せぬ妻のカミングアウトに思わず声を上げてしまうフレデリク。その彼に皆の視線が集まる。『あんたらなにしてんの』と言いたげなジトっとした半眼。

 それを横目に見ながら、呆れ顔のイサベルが冷静に返した。


「……リタ。わたくしは出産予定日を尋ねているのですよ。誰も仕込んだ日のことなど問うてはおりません。――それと老婆心ながら忠告いたしますが、外でいたすのはあまり感心できませんわね。風邪でも引いたらどうするのです」


「えっ……!? いや、その、あの……いやいやいや、違うから、冗談だから!! ――え、えぇと予定日? 予定日だよね! そうだよね、えへへへへ!! ……えぇと、来年の春……4月の上旬頃かなぁ、なんて」


 恥ずかしさのあまり、リタが顔を真っ赤に染めて必死に告げる。するとイサベルがニッコリと微笑んだ。


「そうですか。ならば来春に再びこちらへ参ることにいたしましょう。それまでにたくさんの贈り物を用意しておきます。望むならば第一子は男の子がよろしいのでしょうけれど、無事に生まれるならばどちらでもかまいません。頑張って元気な子を産むのですよ」


「ありがとう、お婆様。そう言っていただけるととても励みになるわ」


「そうよ。この際だもの、男の子だろうが女の子だろうがどっちだっていいわ。あなたと赤ちゃんが元気であればそれで十分よ」


 続けてエメラルダも言う。するとフレデリクがドスンと自身の胸を叩いた。

 

「お任せください。不肖フレデリク、妻のために全力を尽くすと誓いましょう。妻の体調には常に気を配り、傍にいるよう心がけます。もちろん出産にも立ち会いますし、彼女のためにあらゆる手間を惜しみません!」


「あぁ、あなた……素敵……」


 鼻息も荒く、高らかに宣言するフレデリク。気付けば横にリタが身体を起こしていた。

 男らしくも優しい夫の姿にウルウルと瞳を潤ませながら、リタがその身体に抱き着く。そして――吐いた。


「うえぇぇぇぇぇぇ!!」


「うわぁぁぁぁぁ!!!!」


 以前もどこかで見たようなその光景に、専属メイドのミュリエルは深い深い溜息を吐いたのだった。

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