第230話 突然の訪問者

 ハサール王国東部に広がる、大穀倉地帯。

 その東端――隣国ファン・ケッセル連邦国と国境を接する一帯にキルヒマン子爵領がある。


 首都から遠く離れた田舎と揶揄されてはいるが、まるで時間が止まったかのような長閑のどかな景色は絵画のように美しい。

 なだらかで明媚な景色と悠揚な領民たちの営みは、都会の喧騒を忘れるほど穏やかで、見渡す限りの麦畑は秋になると幻想的な黄金色に染まる。



 元々そこはアンペール侯爵家の土地だった。

 しかし3代前のキルヒマン家が叙勲を賜った際に、その恩賞としてアンペール家から譲り受けていた。

 もっとも領地と呼ぶには少々狭く、領民からの税収と地場産業の収入でぎりぎりやっていける程度でしかなかったのだが。


 とは言え、領地を持たない「名ばかり子爵家」や「名誉子爵家」も多い中で、狭いながらも自領を持つキルヒマン家は恵まれていると言っていい。

 なにより規模が小さいながらも一国一城の主であるし、税の徴収や領地の管理も自由に任されているからだ。



 そんなキルヒマン家の歴史は、ずっと苦難続きだった。

 東をファン・ケッセル連邦国との国境に面し、他の三方を全てアンペール家の領地に囲まれるその地は、常に安全保障に悩まされてきたからだ。


 一口に「安全保障」と言っても、決してそれは軍事的な理由ではない。

 隣国ファン・ケッセル連邦国はこれまで一度たりとも敵対したことのない友好国であるうえに、長年に渡り経済では持ちつ持たれつの関係を続けている。

 そのため、余程のことがない限り諍いなどは考えられなかった。


 そうは言ってもやはり他国。如何に友好国と言えども、国境を警備しないわけにはいかない。

 しかし自前の軍隊を持たないキルヒマン家は、その全てをアンペール侯爵軍に頼らなければならず、さらにその費用は高額だった。

 つまりは安全保障の名のもとに、高額な用心棒代をアンペール家にたかられ続けてきたというわけだ。



 侵略リスクの低い友好的な隣国。

 それに対する防衛費用として些か高すぎる金額は、決して豊かではないキルヒマン家の財政を圧迫してきた。

 領地が狭く税収も少ないうえに、高額な費用負担まで求められ続けた。


 もちろんキルヒマン家は面白くない。

 しかし相手が辺境候の一翼を担う上位貴族家であるうえに、元々この地がアンペール家の領地だった事情をおもんぱかれば、正面切って文句も言えなかった。


 それが最近大きく変わった。

 取り潰しになったアンペール家の代わりにその地位と領地を引き継いだラングロワ侯爵家は、これまで周辺貴族に負担させてきた高額な軍事費用を大きく引き下げたのだ。


 もちろんそれは周辺貴族の歓心を買おうとするラングロワ家の思惑だったのだが、どうやらそれは成功したらしい。

 決して表には出していなかったが、高圧的なアンペール家をこれまでずっと面白く思っていなかった周辺貴族。

 その殆どがラングロワ家を歓迎してくれた。



 そんな長年の憂いがやっと晴れたかと思えば、キルヒマン家はまた新たな問題に直面していた。

 それは一人娘――アーデルハイトの縁談だった。


 残念ながらキルヒマン子爵家には跡継ぎの男子――嫡男はいない。

 そのため将来家督を継ぐのは長女であり一人娘のアーデルハイトしかいないのだが、未だ彼女は婚約者が決まっていなかったのだ。


 アーデルハイトは今年16歳になる。

 広く政略結婚が行われる貴族社会において、その年令で婚約者がいないのは珍しく、特に将来女子爵になるべき彼女であれば、成人と同時に婚約者が決まっていてもおかしくなかった。



 アーデルハイトは美しい。

 些か目鼻立ちがはっきりし過ぎるきらいはあるものの、それでも十分に整った顔立ちと輝くような金色の髪は美しく、170センチを超えるすらりとした立ち姿と男好きするような大きな胸と臀部は、成人したばかりの15歳にはおよそ見えない。


 そんな若く美しく、将来の女子爵であるアーデルハイトは、周辺貴族家から狙われていた。

 領地は狭く、決して裕福とは言えない田舎貴族のキルヒマン子爵家ではあるが、一人娘の美しさはその全てを超越していたからだ。


 どうせ政略結婚するのなら、妻は美しいほうがいい。

 そう思う周辺貴族の次男や三男からは、ひっきりなしに縁談の申込みが舞い込んできていたし、中には遠く離れた南部や北部貴族の名もあるほどだ。

 その状況は、キルヒマン家側から見れば相手を選び放題と言っても過言ではなかった。

 


 しかしアーデルハイトは、その全てを断わっていた。

 彼女の立場――将来の女子爵であることを考えれば、できるだけ早くその身を固める必要があるのだが、明確な理由も告げないままひたすら断り続けていたのだ。


 それは両親にとって頭の痛い問題だった。

 舞い込む縁談の殆どは決して良い条件ではなかったが、それでも中には力のある貴族家もある。

 一度断われば二度目はない。

 同じ家から二度縁談が持ち込まれるのは慣例上あり得ないため、どんなに条件の良い申し出であったとしても、断ってしまえばそれきりだった。

  


 見惚れるような美しい容姿と気立てが良く優しい性格のアーデルハイトは、親の贔屓目を抜きにしても良くできた娘だ。

 さらに我儘を言わず自己主張も殆どしない彼女は、まさに模範的な淑女と言っていい。しかし、こと縁談に限っては、釣書すら見ようともせぬままひたすら頑固だった。

 

 もちろん両親はその理由を知っていたし、なんとかしてあげたいとも思っていた。

 しかし、しがない下級貴族でしかない彼らは、彼女の想いを成就させることなどできるはずもなく、妙案も浮かばないままただ時間だけが過ぎていくのだった。




 ――――




 キルヒマン子爵領の領都――と呼べるほどの規模ではないが――セラノーバから馬車で一時間ほど走ったところに、ラ・ユンタという小さな村がある。

 そこは子爵領の一番端にある小さな村で、殆どの住民が農民という典型的な農村だ。

 その中でもさらに奥まったところに小さなパン屋があり、今日も朝早くから香ばしい匂いが漂っていた。

 

 パン屋の朝は早い。

 それもラ・ユンタ村のような農村では尚のことだ。

 ただでさえ朝早い農民たちよりも更に早く起き、彼らが朝食を買いに来るのに間に合わせなければならない。


 そんなパン屋の朝5時過ぎ、小さな工房から威勢のいい音が漏れてくる。

 バン、バン、バンという、何かの塊を叩きつけるような重い音。

 それが一定間隔のリズムを刻みながらひたすら続いていた。

 

 するとそこに、突然人の声が響いた。



「ちょっとジル様、お客さんがお見えですよ。手を止めてくださいな」


「……俺の名に『様』を付けるなとあれほど――」


「いいじゃないですか。貴方様をどう呼ぶかは私らの好きにしていい。そう言われたのはジル様、あなたですよ」


 年の頃は60過ぎだろうか。腰の曲がった小柄な老婆が声をかけてくる。

 平均寿命が50代前半であるこの時代において、その年令は立派な高齢者と言えるのだが、その割に彼女は足腰がしっかりしているように見える。

 するとジルと呼ばれた若い男は、その背後に彼女の夫を眺めながらゆっくり自身の顔を上げた。



 180センチを軽く超える長身に、下半身よりも上半身のほうが大きく見える独特の体型。

 顔と同じ幅の太く短い首のせいで何処か猪のようにも見えるその男は、見紛うことなき「猪公」――ジルだった。


 つい半年前までアンペール侯爵家の嫡男だったジルは、父親のやらかしのせいで実家を取り潰され、家族全員も死罪にされていた。

 しかし幸か不幸かその直前に廃嫡されていたために、間一髪命を拾って平民として市井に下りた。

 そして行き場がないまま彷徨っているところを、パン屋の老夫婦に拾われたのだ。

 


 その彼に向かって、変わらず老婆――ドロレスが口を開くと、未だ若き16歳の青年が胡乱な顔を向けた。


「客人……? こんな朝早くにか? ……よもやアーデルハイトではあるまいな? あれほどここには来るなと言っておいた――」


「いえいえ、違いますよ、お嬢様ではありません。男の方ですよ。とっても綺麗なお顔をした、若い男の方です」

 

「男……? 誰だ?」


「さぁ、わかりませんねぇ。お名前も名乗られませんし、一度も見たことのない方でしたね。――その方が言うには、あなたは知っているはずだと」


「俺の知ってる……ヤツ……?」



 平民落ちしているとは言え、ジルとてアンペール侯爵家の嫡男にして次期東部辺境候だった男だ。有力貴族家にはそれなりに知り合いも多かったし、友人と呼べる者も幾人かはいた。


 しかしアンペール家が取り潰しになってジルも平民に落とされてしまうと、誰一人として声を掛けてくる者はいなくなった。

 中には気にかけてくれる者もいたのだが、精々幼馴染であるアーデルハイトの実家――キルヒマン子爵家くらいのもので、彼は今や完全に忘れ去られていた。



 それが突然尋ねてくるなんて、一体誰なのだろうか。

 いや、重要なのは正体ではなく、その目的だ。


 今ではなんの力も持たない、ただの平民でしかないジル。

 その彼にわざわざ会いに来るなんて、きっとロクな用事ではないだろう。

 よもや、自分に恨みを持つ貴族の誰かが、仕返しをしにきたのではあるまいか。

 

 ジルの顔に、見る者全てが恐れるような物騒な表情が浮かび始める。

 その顔を見たドロレスが思わず後退ってしまうと、まるで押し退けるように一人の男が顔を見せた。




「よう、ジル!! 元気そうだな!! ――ん? なんだお前? すげぇおっかねぇ顔してるぞ!? なんかあったのか!?」


「なっ……!!」


 直前までの様子は何処へやら、いきなりポカンと口を開け放ってしまうジル。

 その顔はどう贔屓目に見ても間抜けとしか言いようがない。

 そんなジルの様子にはまるでかまわず、その人物は尚も勝手に喋り続けた。


「なんだよ、まるで幽霊でも見たような顔しやがって。このラインハルト様が直々に会いに来てやったんだから、少しは嬉しそうな顔くらいしやがれ」

 


 そう、その言葉からもわかる通り、その人物はラングロワ侯爵家嫡男にして次期東部辺境候でもあるラインハルト・ラングロワその人だった。

 さらさらとした長めの金髪をなびかせながら、相変わらず何処か自信満々の表情を浮かべたままジルの前に現れたのだ。


 その彼がおもむろに口を開く。


「なんだこの野郎、シケた面してんじゃねぇよ。せっかく人がスカウトしに来てやったってのによ」


 全く意味のわからないラインハルトの言葉。

 しかし今のジルには、そんなことさえ考える余裕はなかった。

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