第227話 予期せぬ提案
「えっ……?」
パウラの言葉を飲み込めず、カンデは「ぽかん」とした顔をしてしまう。
だらしなく口を半開きにした顔は、一言で言えば「まぬけ」だった。
それでも彼は必死に口を開こうとした。
「レンテリア伯爵家のご令嬢だって……? リタが……? な、なぜ?」
目の前の事象が自身の理解を越えた時、人は「なぜ」と呟いてしまうらしい。
カンデがまさにそのとおりの反応を返してしまうと、パウラは些か呆れたような顔をした。
「いや、なぜって……もともとリタ様はその生まれだったからでしょ? それ以外に理由なんてないじゃない。 ……あんた何言ってるの?」
思わずパウラは突っ込んでしまう。
とは言うものの、その反応は彼女にしてもよく理解できた。
今でこそ貴族令嬢然とした佇まいが板についているが、幼少時のリタの酷さはパウラもよく知っていたからだ。
泥と埃でくしゃくしゃになった髪と、日焼けと汚れで真っ黒い顔。
決して清潔とは言えない
もちろん一家を取り巻く当時の環境を考えれば致し方なかったのだろうが、あの姿はあまりにも酷すぎた。
しかしパウラにはどうしても彼らがただの農民には見えなかった。
そのため直接リタに尋ねたことがあったのだが、当時のリタも両親の正体を正確に把握しておらず、結局は有耶無耶になってしまったのだが。
しかしその後、首都アルガニルにて貴族に返り咲いた一家を知って、夫婦揃って驚いた。
さらにその正体が名門レンテリア伯爵家だと知ると、さらにその驚きは大きかった。
そんな懐かしい出来事をパウラが思い出していると、その姿を横に見ながらリタが一人で話を続ける。
「ごめんなさいね、カンデ。べつに黙っていたわけではなかったのよ。両親の生い立ちなんて当時の私には知る由もなかったし、ましてや自分が貴族令嬢だなんて考えたこともなかったのだから」
「ま、まぁ、確かにそうだろう……仕方ないよな……」
「そもそも私だって、両親の正体を聞いたときには驚いたもの。それに自分の生い立ちもね。まさかこんな身分だったなんて思いもしなかったわ」
「そ、そうだよな。だってあの頃の君は4歳かそこらだっただろ? 普通はそんなこと考えないよ。それにあんな田舎の村で生まれ育ったんだから、そんなの――」
戸惑いつつも、まるで昔を懐かしむようにカンデが笑みを浮かべると、それを遮るようにパウラが口を挟んでくる。
「ちょっとカンデ。さっきから気になっているんだけれど、リタ様は貴族の令嬢なのよ? そのタメ口はどうかと思うけど。 ――それにリタ様にお礼は言ったの? あんたを助けてくれたのは彼女なのよ、わかってる?」
少々咎めるようなパウラの口調。
瞬間その意味が理解できなかったカンデではあるが、事の重大さに気づいたカンデは地面に身を投げ出した。
真っ青に顔は染まり、全身は小刻みに震えていた。
「も、申し訳ありません。お貴族様のご令嬢に向かって無礼な物言い、どうかご容赦を!! しかも命の恩人でありながら、礼の一つも告げずに、大変失礼致しました!!」
まるで地面にひれ伏すように、身を低くするカンデ。
地に額を擦り付ける勢いで頭を下げるその様は、まさに権力者に服従する下民にしか見えない。驚きと懐かしさのあまり忘れていたが、リタの身分を思い出したカンデは己の不敬を必死に詫びようとする。
その姿にリタは大きな声を上げてしまう。
「カ、カンデ、お願いだからそんなことしないで!! 私はただ、自分にできることをしただけだから!! 確かに私は貴族だけれど、ここでは関係ない。あなたとは昔と同じように話がしたかっただけなの!! お願いだから身体を起こして!! そんなことされたら、私は――」
「いいえ!! いくら同郷の幼馴染とは言え、今のあなたは貴族のご令嬢なのです!! しかも命を救われた礼すら述べずに、無礼な口ばかりきいてしまい大変申し訳ありませんでした!! どうかお許しを!!」
まさに悲痛とも取れる言葉を叫ぶと、カンデはより一層その身を低くした。
その見た目からもわかるとおり、カンデはとても生真面目な性格をしている。
それ故リタが貴族令嬢だと聞いてしまった彼は、ただ平伏するしかなかった。
レンテリア伯爵家と言えば、田舎者のカンデさえ知るほどの名門貴族家だ。
もとよりその系譜の古さと広大な領地、王国府にすら影響を及ぼす強大な経済力は王国中に名を轟かせていたが、次期西部辺境候夫人を輩出することが決まったこの10年でその地位をさらに盤石なものにしていた。
伯爵家といえば公爵、侯爵に次ぐ第三位の爵位ではあるが、ムルシア家と親戚になることが決まると格上の公爵家さえ一目置くようになる。
リタはその家の令嬢なのだ。
しかも未来の西部辺境候婦人ともなれば、如何に気の知れた幼馴染と言えど気軽に言葉を交わせる相手ではない。
幾ら相手が望んだとしても、平民のカンデにはタメ口での受け答えなんて考えられなかったのだ。
このままでは不敬にあたる。
そう思ったカンデは、顔を青くしてひたすら地にひれ伏してしまう。
その姿を見た途端、リタは悲しそうな顔をした。
彼女なりに気を遣ったのだろう。カンデの肩の手を放すと、ひれ伏す彼から少し距離を置いたのだった。
「お願いだから頭を上げてちょうだい。確かに今の私は伯爵家の令嬢ではあるけれど、それと同時にあなたの幼馴染でもあるの。そんなあなたを助けるのに否やはないわ」
「し、しかし……」
「あなたから見れば、私は命の恩人になるのよね。こんな貴族令嬢に命を救われてしまえば、地に額を擦り付けるほど恐縮してしまうのもよくわかる。でもね、今この部屋にはあなたと私しかいない。だから誰にも気を遣わなくていいのよ。 ――久しぶりに再会した幼馴染の二人がいる。今はそう思っていただけないかしら?」
そう言うとリタは、背後に控える専属騎士のクラリスと、部屋の隅に佇むパウラに頷きかける。
すると承知したとばかりに彼女たちも頷き返した。
しかし頭を下げたままのカンデは、変わらず焦ったように口を開く。
「しかし……俺……いや、私のような卑しい者が、お貴族様のご令嬢と言葉を交わすなど――」
「カンデ……何度も言うけれど、お願いだから頭を上げて」
「いや、それは……」
「いいから上げて。それでは会話にならないわ」
優しく声をかけ続けるリタと、ひたすら固辞するカンデ。
まさに押し問答とも言うべきそんな状況が続いていたが、次第にリタの眉間にシワが寄り始める。
同時に愛らしく甲高いその声にも微妙に変化が見え始めると、異変に気づいた女騎士クラリスが慌てて割って入った。
「お、おいお前、カンデと言ったか!? お前の気持ちはよくわかるが、そろそろ言うことを聞いたほうがいい。でなければ、恐ろしいことが起こるぞ!! 」
「えっ……?」
「いいか? お前もよく知っているだろうが、リタ様は気が短いんだ。 ――見ろ、この顔を!! そろそろ爆発するぞ!!」
まるで主人を主人とも思わないぞんざいな仕草で指を突きつけながら、クラリスが叫ぶ。
まさに切羽詰まった表情を見る限り、決して大げさに言っているわけではないらしい。
その様子を盗み見たカンデが事態の深刻さに思い至っていると、突然リタが叫んだ。
「な、なによ、クラリス!! そんなに私は怒りっぽくないわよ!! 人をヒステリー女みたいに言わないでちょうだい!! ――それにカンデ!! 生真面目なのはいいけれど、それにも限度があるわよ!! 私がいいって言ってるんだから、さっさと頭を上げなさいよ!! それじゃあ話もできないじゃない!! いい加減言うこと聞かないと怒るわよ、もう!!」
「もう怒ってんじゃん……」
「パウラ!! なんですって!?」
「なんでもありますぇーん」
「リタ様!! そのように大声を出したりして、はしたないですよ!! 貴族令嬢たるもの、いつも慎ましくあるべき――」
「お怒りをお鎮め下さい!! 私でよければいくらでもお詫びいたしますから!!」
「ぬおーっ!!!! おまぁら全員やかましいわ!!!!」
豪奢なドレスを身に着けた、見目麗しい伯爵令嬢。
そのリタが、まるで天に届くような勢いで眉を吊り上げて大声で叫びだす。
ともすれば妖精にも見える愛らしい容姿を震わせて、輝くようなプラチナブロンドの髪を勢いよく振り乱した。
「なんじゃぁお
「えぇ!?」
「カンデ!! えぇ加減に顔を上げろっちゅうんじゃ、われぇ!! おぉ!?」
思い通りにならずに苛ついたリタは、遂にヒステリーを起こして声を荒げてしまう。
そして愛らしい外見にまるで似合わない大声をあげていると、平伏していたカンデの肩が小刻みに震え始めた。
その姿は傍から見るとリタの剣幕を恐れているようにしか見えなかったが、すぐにそれが間違いだと気づく。
何故なら――カンデは突然笑い声を上げ初めたからだ。
「ふふっ……はははっ……あはははは!!」
「な、なんじゃ突然!?」
「ははははっ!!」
「カ、カンデよ、何が可笑しい!?」
「ははははは……も、申し訳ありません……こう言っては失礼ですが、なんか懐かしくなってしまって」
「……懐かしい?」
顔を臥せたまま突然笑い始めたカンデを、思わずリタは凝視した。
彼が震えていたのは、自分との身分差に畏れを抱いたせいだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
確かに初めはそうだったのだろうが、その笑い声からもわかる通り、彼は何かを吹っ切れたらしい。
「あぁ……そうだ。私たち――いや、俺たちが幼かった時、君はよくヒステリーを起こしていたよな。思い通りにならなかった時、人が言うことを聞かなかった時、人から注意された時、いつも君は大声で喚き散らしていた……なんだか懐かしいよ」
「ヒステリー……?」
「そう、ヒステリーだ。小さい時の君はとても滑舌が悪かった。年齢にしては話し方も幼かったし。 ――まぁ今思えば、あれは病気のせいだったんだろうけど。舌足らずな声でよく喚き散らしていたのを今思い出したよ。はははっ」
「そ、そんなこともあったかのぉ……」
それまでの態度は何処へやら、今やカンデの顔には懐かしい笑顔が浮かんでいた。
心の底から湧き出すような屈託のない笑顔。
それはリタが幼少の頃に住んでいた、国境沿いの寒村でよく見た顔だった。
2歳年上のカンデは、まるで実の兄のようだった。
いつも一緒に遊んでくれて、リタの様子に気を配り、世話を焼き、面倒を見てくれた。
実の兄でさえそこまでしないだろうと思うほど、甲斐甲斐しくリタの世話をしてくれたのだ。
そんなカンデにはリタもよく懐いた。
――いや、その表現は些か語弊があるだろう。
まるで兄のようにカンデを慕い、甘えているように見えていたが、その
もっともその中身が200歳を超えるリタにとって、2歳年上とは言え彼は無邪気な子供でしかない。
本心ではカンデを
あの時と何も変わっていない懐かしい笑顔で笑い続けるカンデ。
その彼は、リタが口を開くよりも早く言葉を続けた。
「わかったよ、リタ。お言葉に甘えて、誰も見ていないところでは幼馴染に戻るよ。 ――とは言っても、やっぱり伯爵令嬢にタメ口を使ったり名前を呼び捨てにするのはとても勇気がいるけどね。だけど君がそうしたいというのなら、そのとおりにしよう」
「えっ……? あ……その……あ、ありがとう、カンデ……」
「だけど、他に人がいる時は敬語を使うからな。いいかい?」
「わ、わかった!!」
リタの想いを理解したカンデは、その前では幼馴染として振る舞うことを決めた。
幼い頃と同様に彼女を呼び捨てにして、敬語も使うのをやめたのだ。
もちろんそれには大きな抵抗があった。
如何に本人の許しが出ているとは言っても、やはり相手は伯爵家の令嬢なのだから、無意識に敬語が出てしまう。
それでもカンデは、意識してタメ口を続けた。
「それじゃあ、リタ。昔に戻って懐かしい故郷の話でもしようか?」
「ありがとう、カンデ。 ――それじゃあ、お願いね」
すっかり落ち着きを取り戻したリタは、楽しげに幼馴染を見つめる。
すでにその口調は伯爵令嬢でもなければ224歳の老婆でもなく、彼女本来の素の口調に戻っていたのだった。
それから暫くの間、二人は懐かしい故郷の話に花を咲かせた。
リタが村から姿を消した後、ゲプハルト男爵が死罪になったこと。
それと同時に、領主のオットー子爵が急におとなしくなったこと。
1歳年上の幼馴染――シーロは今もオルカホ村にいて、両親から農地を受け継いだこと。
ビビアナは実家の雑貨屋の手伝いをしながら、花嫁修業に精を出していること。
そして自分は、その彼女と結婚の約束をしていること。
聞くだけで郷愁の想いに駆られてしまう、生まれ故郷の話。
脳裏に浮かぶ懐かしい光景に、リタは瞳を輝かせる。
確かに生活は苦しかった。
物乞いのほうがマシだと思うような
病気のせいで身体は動かず、満足に喋ることもできず、一時は絶望もした。
しかしその中にも確かな幸せがあった。
そんな状況にいながらも、自分は両親に愛されていた。
今では前世――アニエスの記憶の中に完全に取り込んでしまっているが、当時の
そんな懐かしい思い出に浸っていると、カンデが首都に出てきた経緯に話が及ぶ。
すると彼女は、その細い眉を顰めてしまった。
「そうだったんだ……それは大変だったわね……」
「正直に言うと、見通しが甘すぎたんだと思う。田舎者の俺は、とにかく世間の常識に疎かったからね。騎士になる夢だってそうだ。ビビアナには騎士になって迎えに行くと大見栄を切ってきたけれど、蓋を開けてみれば騎士の見習いなんて貴族の子息ばかりだったんだ。 ――こんな平民の、しかも田舎の農夫には門戸すら開かれていなかったんだよ」
「……確かにね。騎士になるには、それなりの出自や身分が必要だもの」
そう言うとリタは、背後に控える女騎士をチラリと覗き見てしまう。
女にしては口が悪く、そっけない態度の目立つクラリスではあるが、彼女にしても男爵家の令嬢だ。
確かに彼女の実家は領地を持たない「一代男爵家」ではあるが、それでも貴族であることに変わりはない。
如何に名誉職に近い身分ではあったとしても、腐っても貴族。平民とは扱いがまるで違う。
そんなクラリスは、自分を見つめる主人の意図を読めずに狼狽えてしまう。
「な、なにか?」
「いいえ、なにも」
最近では恋人もでき、何処か楽しそうな専属女性騎士のクラリス。
その彼女を見つめながらリタが何かを考えていると、突然ドアが勢いよく開かれる。
そして大声が響き渡った。
「うははははっ!! 話は聞かせてもらった!! なんだお前、騎士になりたいのか!? それならこの俺様に任せろ、いい考えがある!!」
美しくよく通りながらも、些か粗野な響きも含む声。
言うまでもなくそれは、東部辺境候ラングロワ侯爵家嫡男のラインハルトだった。
自信満々に彼が現れると、大抵はロクなことにならない。
その事実を思い出したリタは、細い眉を下げながら思わずため息を吐いてしまうのだった。
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