第182話 邪悪な笑み

 レンテリア伯爵家のリタ専属メイド、フィリーネ・モラン。

 誰からも父親似と言われる彼女は、姉のジョゼットと同じで決して美人とは言えない。

 それでも姉に負けないスラリとした長身と、姉よりは大きな胸、そして無口な姉とは正反対の人好きのする明るい朗らかな性格も相まって、すんなりと結婚相手が決まるものだと思っていた。


 毎朝6時から始まる彼女の仕事は、夜9時すぎまで続く。

 たまにリタが早く休む時にはそれ以前に仕事が終わることもあるが、それでも夜8時よりも早いことは稀だ。

 

 徒歩で一時間ほどの近隣の村出身のフィリーネではあるが、現在ではレンテリア邸の裏庭の寮に住んでいるので、通勤に時間を取られることはない。

 それでも仕事のあとに風呂で身体を清めて食事を済ませる頃には、就寝時間の11時を過ぎていることも多い。

 それが月に2日ある安息日以外毎日続くのだ。

 

 ではたまの休日に何をしているかと問われれば、自分の洋服の繕いをしたり、化粧品や雑貨などの日用品を買いに出かけたりする程度らしい。

 彼女の貴重な休日は、そんな大したことをしないうちに終わってしまうのだ。


 

 姉のジョゼットは10年前――19歳の時に結婚しており、現在は三児の母親だ。

 夫はあの「隻腕の無詠唱魔術師」で有名な、王国魔術師協会副会長のロレンツォ・フィオレッティであり、その社会的地位の高さと収入の多さによって、ここ数年で一躍セレブの仲間入りを果たした。


 元来地味でおとなしい性格のジョゼットは、特に華やかな生活は望んでいなかったのだが、それでも子供たちのことを考えると、貧しいよりは富んでいるほうが望ましいのは当然だ。

 

 もちろんフィリーネも、そんな「玉の輿」を夢見た時期もあった。

 事実、姉の後を継いでレンテリア家のメイドになった時は、自分も数年で誰かに見染められるものだと勝手に思っていたのだ。


 しかし現実はそう甘くなかった。

 前述のように毎日早朝から深夜まで忙しい彼女は、屋敷の中以外ではまるで出会いがなく、たまの休みでも買い物と雑務で終わってしまう。

 そして気付けば27歳にもなってしまい、同い年の女騎士――クラリス・テシエと一緒になってくだを巻く毎日だ。




 そんなフィリーネの耳が突然聞こえなくなった。

 いや、それを正確に述べるなら、耳に音が届かなくなったと言うのが正しい。

 どんなに自分の耳を触ってみても、叩いてみても、引っ張ってみても、全く音が聞こえないのだ。

 そんな状況にフィリーネがパニックを起こしそうになっていると、同じ馬車に乗るリタが手振り身振りで「心配するな」と語り出す。


 おかしなことに、その様子を見たフィリーネは何故か安心しだした。

 突然このような状況に陥ってしまえば、誰であろうとパニックの一つや二つは起こすのだろうが、突然こうなったのが自分だけではないことを知った彼女は、むしろ安堵したのだ。


 しかしそれも一瞬だった。

 何を思ったのか、咄嗟に馬車の扉を開けようとしたフィリーネを、リタが強引に止めたのだ。

 驚いてリタの顔を見ると、彼女は顔を左右に振っていた。

 それは「ドアを開けるな。お前はそこにいろ」のサインだった。



 最早もはやどうしようもなくなったフィリーネは、おとなしくその指示に従うことにする。

 普段は貴族令嬢然とした主人ではあるが、このような状況の時は彼女が一番頼りになるのをわかっているからだ。


 そうこうしているうちに、リタが外の様子を確認し始める。

 そして一瞬の間を置くと、扉を開けて外に飛び出していったのだった。



 

 リタが外に飛び出ると、周囲はすでに敵に囲まれていた。

 ざっと見ただけでも10人以上はいるだろうか。全員が抜刀した状態で、今にも襲いかかってくる直前だったのだ。  

 見れば護衛の男性騎士も、女騎士のクラリスも、女魔術師のブリジットも、そして冒険者のクルスも、その全員が慌てていた。


 もっともそれは無理もなかった。

 突然周囲の音が完全に掻き消えたかと思えば、次の瞬間には周囲を抜刀した男たちに囲まれていたのだから。


 

 抜刀して走り寄って来る男たち。

 その人数を正確に数えると、全部で13人いた。

 武器も鎧も、そして服装さえも全く不揃いなのを見る限り、恐らく彼らは冒険者ギルドのギルド員だと思われる。

 そして走り寄る彼らからは、相変わらず声どころか物音一つ聞こえてこなかった。


 その様子は何処か幻想的に見えた。

 目の前の光景だけを見ていると、確実に大きな音――武器を抜く音、金属鎧が擦れる音、地面を踏みしめる足音、そしてときの声――が聞こえてくるはずなのに、まるで空気が固まったかのように全ての音を失っていたからだ。


 それが何を意味するのかと考えてみれば――

 そう。周囲の空気が音を伝えていなかったのだ。



 「音」とは、空気を振動させて伝わる波の一種だ。

 つまり、空気が振動しなくなれば一切の音を遮断できるというわけだ。 ――理論上は。

 とは言え、そんな自然界の法則を真っ向から無視するようなことなどできるわけがなければ、しようと思う者もいないだろう。

 

 しかしてそれは実在していた。

 自然界の法則を利用し、捻じ曲げ、征服しようとする者が。

 そして、そんな芸当ができる者といえば――


『ふんっ!! 思ったとおりじゃ!! このクソッタレ魔術師めがっ!!』


 リタの灰色の瞳が、道路脇の立ち木に隠れる一人の姿を見つける。

 それは間違いなく魔術師だった。

 変装のつもりなのだろうが、魔術師のトレードマークであるローブを着用せずに、シャツにズボンの軽装の女が一人。



 リタはその女を知っていた。

 名門貴族レンテリア伯爵家の令嬢であるリタは、同時に王国魔術師協会に所属する現役の二級魔術師でもある。

 その彼女は普段から多くの魔術師たちと顔を合わせているからだ。


 少なくとも週に3日は協会に顔を出して仕事として色々と雑務をこなしているのだから、それは当たり前と言えた。

 その彼女が同僚の女魔術師を見間違えるはずもない。

 道路脇の木の影に隠れる女は、ハサール王国魔術師協会所属の二級魔術師、サルド・クアドラに間違いなかった。


 クアドラの専門は環境、気象系魔法だ。

 もちろんそれは極狭い範囲に限られるのだが、雲を流したり、雨を降らせたり、気温を上げたり下げたりと、様々な環境の変化をさせる魔法のスペシャリストで、その分野ではリタでさえ敵わない能力の持ち主だった。


 そんな彼女がここにいるということは、突然周囲の音が聞こえなくなったこの現象は、彼女の仕業と考えるのが適当だ。

 では何故そんなことをしたのかと問われれば――それはリタの魔法を封印するために違いなかった。



 ご存じのように魔法とは、呪文を詠唱して発動するものだ。

 それは現代魔術学が確立した時からのまさに不文律とも言えるもので、少しでも魔術に携わる者であれば、それは最早もはや常識だった。


 逆に言うと、どんなに強力な魔術師であっても、呪文を詠唱できなければ魔法を発動できないことを意味し、それは魔術師として致命的でさえあった。

 何故なら、魔法を使えない魔術師などは、剣を持たない剣士以下の存在でしかないからだ。

 

 机のうえで本ばかり読んでいる魔術師たちの中で、身体まで鍛えている者は少ない。

 ただでさえ忙しい彼らは、魔法の鍛錬の他に別途剣術まで学んでいる者は本当に少数だろう。

 そのため肉弾戦では素人相手にでも負けてしまうほど脆弱な者も多く、そんな彼らが魔法を封印されてしまえば、逃げ惑う以外にできることはなかったのだ。


 もちろん魔術師協会副会長のロレンツォ・フィオレッティのように無詠唱魔術を身に付けるエリートもいなくはないが、その数は圧倒的に少数であるうえに、彼らとて基本的な数種類の魔法を使えるに過ぎなかった。




 ここにきてリタは、敵の行動を理解した。

 先日の決闘騒ぎによってリタの魔法の実力を知った彼らは、最大の障害としてまずはそれを潰しにかかったのだ。

 そのためにサルド・クアドラが呼ばれた。

 彼女は計画通り無音化スペル・サイレンスの魔法でリタの魔法詠唱を封じた。

 そうして一番厄介なリタの攻撃魔法を無力化した後に、大幅に上回る人数にものを言わせて襲いかかってきたのだ。


 如何に強力な魔術師のリタとは言え、魔法を発動できなければただの少女でしかない。

 いや、普段から頭脳労働しかしていない彼女に至ってはそれ以下だろう。


 まるで小枝のように細い腕と染み一つない真っ白な手。肩幅の狭い華奢としか言いようのない小柄なその体躯は、凡そ格闘戦ができるようには見えない。

 もっともあの・・「猪公」ジル・アンペールを素手で殴り倒した実績があるので、何かしら体術を身に着けているのだろうが、完全武装のこの人数を相手に何かできるとは到底思えなかった。

 いずれにしても手練れの冒険者たちにしてみれば、如何なリタとは言え、今や敵ではなかったのだ。

 


 状況から言って、彼らが自分たちを生きて返すとは思えない。

 確実に全員を皆殺しにして、一切証拠を残さずに速やかに立ち去るに違いないのだ。

 そうしなければ決闘事件で因縁のあるアンペール侯爵家に、一番に嫌疑がかかってしまうからだ。

 アンペール家くらいの力があれば、一切の証拠が残っていなければ幾らでも言い逃れはできるだろう。


 先日の決闘騒ぎ以来、の家は表立って報復などの行動には出てきていない。

 それは半ば脅しともとれる国王の言葉によって、きつく自重をもとめられていたからだ。

 だからといってあの・・プライドばかり高いアンペール家が何もしてこないとは思えなかったが、遂に動き出したのだ。

 詳しく調べてみなければわからないが、この襲撃の糸を裏で引いているのは、間違いなくアンペール家だと思われる。


 そうとわかれば話は早い。

 自分がすることはただ一つだけだ。




 抜刀して襲いかかって来る男たちを前にして、護衛の者たちに緊張が満ちる。

 それと同時に、少なくない恐怖も感じていた。

 見れば向かってくる男たちの人数は、自分たちの軽く3倍はいるだろう。

 しかも使い込まれた剣や擦り切れた鎧を見る限り、それぞれが相当の手練れに見える。


 相変わらず声ひとつあげられない完全な無音の中で、男性騎士もクラリスもクルスも皆それぞれに剣を抜く。

 その中で一人だけ恐怖におののく者がいた。

 それは誰あろう、女魔術師のブリジットだった。


 無詠唱魔術を体得していないブリジットは、この沈黙の世界では魔法を発動することができない。

 だからと言って護身用の剣で闘ったとしても、この手練れ相手では一合と持たないだろう。

 だから彼女は愛用の魔法の杖を握り締めたまま、ただ震えることしかできなかったのだ。



 それはクラリスにしても同じだ。

 さすがに騎士としての訓練を長年受けて来た彼女は、ブリジットのように震えたりはしなかったが、それでもこの人数を相手にして生きて帰れるとは思えなかった。

 では、それが怖いのかと問われれば、否と答えるだろう。


 正直に言うと、ここでこのまま野垂れ死にするのは怖いのだが、それ以上に残念な思いが上回る。

 それはメイドのフィリーネと交わした約束だった。

 今度の休みの日には一緒に外に出掛けて、そこで素敵な殿方と巡り合おうと計画を立てていたのだ。


 それを実行もせずに、こんなところで死ぬのがとても残念だった。

 騎士の彼女にとって死は恐怖ではなかったが、このまま一人も男を知らずに死んでいくのがとても悔しかった。

 

 

 突然広がった目の前の光景に、クルスは戸惑っていた。

 気付けば全く音が聞こえない世界になっていたのはまだいいとして、無音のまま自分たちに襲いかかって来る男たちの中に、見知った顔が幾つもあったからだ。


 ギルド員として活動すること二十数年、今やクルスは立派なベテランと言っても過言ではない。

 その彼は、普通のギルド員であれば一度や二度は必ず顔を見たことのある者たちばかりだったし、ギルドからの依頼によって年若い新人の世話をするのが常だった。


 だから現在活躍中の冒険者の中には、新人の時にクルスに世話になった者も多く、未だに彼を先輩として慕う者も多数いる。

 そしてその中の何人かが、今まさに抜刀して近づいてくる者たちの中にいたのだ。


 その光景に、クルスは自分の目を疑った。

 もちろんギルドがこのような無法な依頼を受けるわけもなければ、関与するはずもない。

 つまりそれは、ギルドを通さない依頼――俗にいう「直依頼」や「闇営業」と呼ばれる違反行為に違いなかった。


 恐らく彼らは金に目が眩んだのだろう。

 見れば中の一人は、先日の決闘騒ぎの賭けによって全財産を失った者だった。

 そのためギルドを通せない違法で無法な高額の依頼を直に受けたに違いない。

 

 そしてそんな彼らの多くが、クルスよりも大幅に腕の立つ者たちばかりだった。

 その姿を見た瞬間、彼は己の死を覚悟した。



 そんな4名の護衛たちが絶望の底に突き落とされていた時、一人だけほくそ笑む者がいた。

 それはリタだった。

 馬車から降りた彼女は一瞬で状況を理解すると、「ふんぬっ」とばかりに存在感のある自慢の胸を反らして仁王立ちになる。


 それからおもむろに両手を身体の前に突き出すと、ニンマリとした笑顔を浮かべた。


 ともすればその笑顔は、まるで悪魔――いや、伝説に出てくる悪い魔女さながらに邪悪なものだった。

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