第181話 お手製スープの効能
「――フレデリク様? お加減は如何でございますか?」
「やぁ、リタ。いらっしゃい。 ――おかげさまで順調だよ」
軽いノックの後にリタが部屋に入ると、フレデリクはベッドの上に身体を起こして待っていた。
婚約者の顔を見た途端、彼は大きく破顔する。
まるで子犬のように人懐こい彼の笑顔を見た途端、思わずリタも相好を崩してしまう。
見る者が見ればはしたないと言うのだろうが、かまわず彼女は歯を見せて笑った。
性格は顔に出ると言うが、フレデリクを見ているとそれは本当なのだと思う。
優しく穏やかで人懐こい彼の笑顔は、人柄同様にとても温かい。
ただ見ているだけで癒されて、何処か幸せな気持ちになるその笑顔は、昔からリタも大好きだった。
もちろん本人の前では決してそんなことは言えないし、これまでも言ったことはない。
女性から男性に「好きだ」と伝えるのは、貴族の常識でははしたないとされているからだ。
もっとも224歳の老成した精神をその内側に同居させるリタは、一般的な少女とは羞恥を感じるポイントが少々ずれているようではあったのだが。
それは俗にいう「老人力」だった。
人は年を取るにつれて 恥や遠慮が薄れると言われるが、すでに前世で212年も生きてきたリタ――アニエスはその最たるものと言えた。
誰に対しても等しく遠慮のない物言いと、恥を恥とも思わぬその言動は、前世での彼女をして「老害」と言わしめていたのだ。
特に若い者たちにとって彼女はまさに「頑固
もっともそれは、「必要悪」とも言えた。
国が国として正しい方向に進むためには、それを導く者が必要であるし、たとえそれが国王であったとしても、判断が間違っているのであれば誰かがそれを正さなければならないからだ。
アニエスはただ、最年長者として敢えてその汚れ役を買って出ていたに過ぎなかった。
しかし、それを以て人々は、やれ「老害」だとか「恥知らず」などと言っては
彼女が「ブルゴーの英知」と呼ばれるのと同様に「ベストオブ老害」と揶揄されていたのは、それだけ国の行く末を真摯に想っていた裏返しでもあった。
そんなアニエスではあったが、幼い3歳児に転生してからというもの、それから10年かけて順調に淑女へと成長していった。
まさに人格形成をやり直したとも言えるその過程において、とっくに前世で失っていたはずの恥と遠慮も、年齢相応に身に付けたはずだ。
しかし、あまりに長すぎた前世のために、全てが年齢相当にはならなかったらしい。
純真な乙女の人格の中に、狡猾な「老人力」を併せ持つ少女。
それがリタ・レンテリアだった。
病み上がりのフレデリクは未だ青白く弱々しい顔をしているが、リタの前では元気そうな素振りを見せていた。
しかし細かく様子を見ていると、それが強がりなのがよくわかる。
それでも彼は笑顔で出迎えてくれるので、それがリタにとっては些か申し訳なく思えた。
彼が無理をしているのは、明らかにリタのためだ。それがわかっている彼女は、思わず謝罪の言葉を口にしてしまう。
「ごめんなさい、フレデリク様。私のせいで無理させてしまって…… 昨日よりもさらに顔色は良くなってるみたいだけれど、どこか痛いとか、違和感があったりしない?」
先日の出来事以来、すっかりリタの口調は気安いものになっていた。
それは聞く者が聞けば些か眉を顰めそうなほど砕けた物言いなのだが、徹底して彼女はフレデリクと二人きりの時にしかその話し方をしなかった。
だから、人からそれを指摘されたことはない。
決して自分だけにしか見せない、素のリタ。
フレデリクにとって、それは余計に特別な感じがしたのだろう。
そんなリタの話す姿を、彼はニコニコと微笑みながら眺めていたのだった。
「いや、大丈夫。この通り身体はピンピンしているからね。とにかく今は栄養のあるものを食べて身体を休めるだけだよ。お医者様にはそう言われているから」
「うふふ。そう仰ると思いましたので、今日は良いものをお持ちしました。少々お待ちを……」
そう言うとリタは、持ってきた布の包みを何やら手でゴソゴソし始める。
そして満面の笑みで披露した。
「じゃーん!! これです!! 今日はフレデリク様に召し上がって頂こうと思い、これを持ってきましたの!!」
「えっ? なんだい、これは?」
リタが目の前に出したもの。
それは鉄製の鍋だった。
中身がこぼれないように厳重に蓋をされたそれは、柄のついた片手鍋くらいの大きさだ。
それはどう見ても中に料理が入っているようにしか見えなかった。
するとそれを肯定する様に、再びリタが口を開く。
「滋養強壮と体力増強のスープです!! 古い文献を探していたらこれが載っていましたので、試しに作ってみました!!」
「へぇ。リタって料理ができるんだ。凄いじゃないか」
何気にドヤ顔のリタに向かって、フレデリクが本気で感心した顔をする。
普通の貴族家の令嬢は料理などしたことがない者が殆どなので、彼女自らが調理したのであれば、それだけでも尊敬に値した。
何故なら、そのような家事は使用人の仕事であり、貴族令嬢自らがするものではないというのがこの時代の常識だからだ。
とは言え、畑作りが趣味のリタが今さらどう言おうが、説得力などまるでなかったのだが。
婚約者の心遣いに破顔しながら嬉々として蓋を開けると、何とも形容できない香りが部屋の中に漂い始める。
その香りに戸惑いを隠せないフレデリクは、満面の笑顔のリタを前にそっと鍋の中を覗き見た。
それは全体的に紫色をしていた。
見るからにドロッと濁るスープ……というよりも、むしろ煮詰めすぎたシチューにも似たそれは、火にかけていないにもかかわらず、コポコポと何かガスのようなものが噴き出ている。
その見た目からしてまさに「
まさに恐る恐るの
「……お、美味しそうだね。な、中には何が入っているのかな?」
そう言いつつも、得も言われぬ香りに顔を引きつらせる。
それでもドヤ顔の婚約者の気持ちを慮った彼は、本心を隠しながら優しげに語り掛けることしかできなかった。
するとリタは、顎に指を当てて斜め上に視線を向けながら、レシピを思い出しつつ語り始める。
「えぇとね……まずはマンドラゴラの根でしょう? それから紫
「わ、わかった、もういいよ、ありがとう!! そ、それ以上聞きたくな――言わなくていいから。そ、それでここが肝心なんだけど、どんな味がするのかな? も、もちろん君の腕を疑うわけじゃないけどね!!」
遂にフレデリクは確信に触れる質問をした。
材料を聞いただけでも決して美味しそうには思えなかったが、せめて食べられるものであってほしい。切実にそう願いながら。
しかしその回答は、彼を絶望の底に突き落とすものだった。
「さぁ。それは私にもわからないわ。だって貴方のために作ったんですもの。それを差し置いて先に口をつけられないじゃない? ――大丈夫。ちゃんとレシピ通りに作ったのだから、決して食べられないものにはなっていないはずよ」
恐れ
まるで邪気のないその笑顔を見ていると、彼女は本気でそう思っているらしい。
そんなリタに、『いや、せめてそこは味見しろよ』などと思わず突っ込みそうになるフレデリクだったが、決して口に出すことはできなかった。
しかしここは名だたる侯爵家の嫡男でもあるフレデリクだ。
たとえ婚約者が作ってきたものであろうとも、外部から持ち込まれたのであれば誰かが先に毒見をしなければならない。
それをお付きのメイドに指摘されたリタは、少々不機嫌になってしまう。
せっかくフレデリクに一番に食べさせるために、自らも味見をせずに持ってきたというのに、この女はなんという余計な事を……
などと不意に思ってしまったが、決まりは決まりなので仕方なく従うことにした。
「では、どうぞ。お召し上がりになって」
「いえ。その栄誉は、こちらの騎士のお方が適任かと――」
そう言いながら一歩後ろに下がる、ムルシア家のメイド。
さすがは名門ムルシア家の使用人と言うべきか。その流れるような所作は、実に優雅だった。
すると突然全員の視線を受けた騎士は、目に見えて動揺する。
そして吠えた。
「お、恐れながら申し上げます!! お毒見とあらば、まずはお連れの方が為されるべきかと――」
何処か必死な表情の護衛騎士は、
するとそこには、リタに同行してきたメイドのフィリーネと女騎士のクラリスがいた。
その言葉に、二人は凄まじい目つきで睨みつけてくる。
まるで刺すようなその瞳は、「バカ野郎!! こっちに振るんじゃねぇよ」と全力で語っていたのだった。
逃げ道を失った騎士に、リタがさらに追い打ちをかける。
その言葉にはまるで慈悲の欠片も見当たらなかった。
「なんですの? この
「いえ!! 有難く頂戴する所存であります!!」
細い眉を吊り上げ、愛らしい顔に不穏な表情を浮かべ始めるリタ。
護衛騎士は即答したが、その唇は小刻みに震えていた。
「はいどうぞ。たんと召し上がれ――」
毒見というには些か多すぎる量の
そして――
「ごほっ、ごほっ、ごほっ!! おえっ!!」
「あら、大丈夫ですの? そんなに慌てて召し上がらくともよろしくてよ?」
「ぬぅ…… おうっぷ……」
騎士の名誉のために言うならば、決して彼は慌てていたわけでもなければ、
思わず彼が
鼻に抜けるなんとも言えない生臭さと、ピリピリといつまでも舌に残り続ける妙な刺激と嘔吐を誘う後味は、彼が生きて来た36年の人生の中でも最悪と言っても過言ではなかった。
しかし味は最悪とは言え、その
護衛騎士が
そんな騎士にフレデリクが声をかける。
「オ、オディロン……あ、味はどうだ?」
恐る恐るでありながら、いきなり確信に迫る質問をする。
その様子からも味は想像できそうなものなのに、敢えてそれを訊いてくる主人にイラっとした騎士――オディロンは、如何にも作り物の笑顔でこう述べた。
「若様、素晴らしいお味でございます。さすがは名門レンテリア家の御令嬢と申し上げるべきでしょう。お料理の腕も相当なものとお見受けいたします。ささ、どうぞ、若様も是非お召し上がりくださいませ。食べた瞬間に元気が沸き上がって参ります故」
半ばヤケクソ気味にリタの
その顔には自分と同じ目に合わせてやろうという魂胆が見え見えだった。
そんなお付きの護衛騎士に、全力で「余計なこと言うなよ!! 〆るぞ!!」と鋭い視線を投げるフレデリク。
彼にしては珍しく、滅多に見ないほどその表情は険しかった。
「はい、どうぞ。たんと召し上がれ!!」
フレデリクの眼前に、突然突き出される椀。
当然のようにその中にはリタ謹製の
「ゴクリ……」
その椀を持ったまま固まるフレデリク。
最愛の婚約者が愛情込めて作って来てくれた料理であるはずなのに、どうしてここまで勇気を要求されるのだろうか。
これを食べるのとジル・アンペールと闘うのとどちらがマシかと問われれば、いまのフレデリクは迷いなく前者を――以下略。
盛大に
そんな婚約者を心配そうに見つめるリタの瞳には、うっすらと涙が浮かぶ。
「ご、ごめんなさい。美味しくないなら、そんなに無理して食べなくてもよかったのに……」
「い、いや、とっても美味しかったよ。ちょっと気管に入って
そう言って空になった椀をフレデリクは見せるのだが、やはりその顔は一気に
しかしそう言いながらも、彼は自身の身体に変化を感じ始めていたのだった。
リタが言うには、その
何故なら――今やフレデリクの股間は、はち切れそうなほどに――以下略。
毛布を掛けているのでわからないが、確実にフレデリクはそういう状態になっていた。
わかりやすく言うと、彼はムラムラしてしまったのだ。
間違いなくそれはリタ手製の
そんなフレデリクは、どうにもこうにも辛抱たまらず、普段は意図的に見ないようにしているリタ自慢の大きな胸の膨らみに目を走らせてしまう。
見てはいけないと思いつつも、まるで吸い寄せられるようにガン見してしまったのだ。
女性は男性の視線を敏感に感じるものだ。
もちろんリタはすぐに気付いたが、それでも見てみないふりをする。
それどころか、やはりフレデリクも年頃の男なのだと改めて意識してしまう始末だ。
何気に頬を上気させて、恥ずかしそうに俯くリタ。
その姿は、今のフレデリクには些か刺激的すぎた。
そんなわけで(どんなわけだ?)リタ謹製の
リタが帰った後も、互いに目配せしながら何度もトイレに駆け込むと、彼らは暫く出て来なかった。
それは二人が腹を下していたのはもちろんだが、それ以外にもう一つ理由があったのは秘密だ。
そんな日々が10日ほども続いた頃、その日の見舞いが終わったリタが馬車で帰路に就いていた。
日に日に元気になっていく婚約者にリタが満足そうにしていると、フィリーネが話しかけてくる。
「リタ様。一つお願いがあるのですが……」
「なにかしら?」
「先日フレデリク様に作って差し上げたあのスープ……もしもまた作る機会がありましたら、少しだけ私にも分けていただけませんか?」
「えっ? えぇ、いいけれど。でも、どうしたの? もしかして疲れてる? もしそうなら、お休みをあげましょうか?」
「いえいえいえ!! そんな滅相もない!! 違います、私が疲れているとかではありません」
「それじゃあ?」
「いえ、それをちょっと飲ませてみたい御仁がおりまして。男性なのですけれど……」
「男性? もしかして、その方はお疲れなのかしら?」
「いえ、そうではありません。――えぇと、そのぅ……あのスープには滋養強壮と体力増強以外にも効能があるのはご存じですか?」
「……?」
まるで意味がわからないと言わんばかりに、キョトンとした顔をするリタ。
整った顔立ちの彼女がそんな顔をしていると、まるで精巧に作られた人形のように見えてしまう。
そんなリタが続けて何かを言おうとして、突然やめた。
鋭い目つきで周囲を伺いながら、一言告げる。
「食い付いたわね」
「えっ……?」
「ふふふっ。どうやら大物がかかったようですわね。 ――絶対に逃がさない。必ずや釣り上げて見せますわ」
リタの声にフィリーネが怪訝な顔をしていると、まるで耳が聞こえなくなったかのように、突然周囲は静寂に包まれたのだった。
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