第173話 ジルとアンペール家の事情
その後フレデリクは、ムルシア家の首都屋敷へと運ばれていった。
自室のベッドに寝かされた彼は、意識が戻るのを家族全員から見守られていたが、その中には当然のようにリタの姿もある。
彼女は自宅であるレンテリア家の首都屋敷には戻らずに、付きっ切りで看病していた。
もっとも看病とは言え時々フレデリクの汗をタオルで拭く程度のもので、あとは時折話しかけたり、ひたすら顔を見つめているだけだったのだが。
神術僧侶が言うには、遅くとも三日以内に意識を取り戻さなければフレデリクは絶望的だそうだ。
点滴などの医療技術のないこの時代において、意識不明の患者に水分を補給する手段は他になく、このままでは脱水症状を起こすのは目に見えていた。
タイムリミットはあと三日。できれば二日。
それまでになんとしてでも意識を取り戻させて、自力で水を飲ませる以外に助かる道はなかった。
今や白を通り越して青に近い顔色のまま、死んだように眠り続けるフレデリク。
そんな婚約者に話しかけ続けながら、ひたすらリタは傍に寄り添い続ける。
その姿はとても只の婚約者には見えず、
――――
その頃アンペール侯爵家の首都屋敷では、
ジルとアーデルハイトはもとより、彼女の両親――キルヒマン子爵夫妻の四名に対して、アンペール家当主ベネデットが怒りまくっていたのだ。
自邸に戻り今や感情を抑えることさえ放棄したベネデットは、目の前で平伏する四人をまるで斬り殺すかのような勢いで怒鳴り散らしていた。
「ジル!! お前がレンテリア家の娘に執心していると聞いたから策を授けたというのに、そのチャンスを自ら台無しにしおって!! この馬鹿者が!! 見てみろ、我がアンペール家は国中の笑いものだ!! 貴様、この責任をどう取るつもりだ!?」
「父上……も、申し訳ありません。己の力が足りなかったばかりに……」
激高したベネデットが、手あたり次第に当たり散らす。
居間の床には割れた花瓶が飛び散り、テーブルから棚まで、そこに置かれていたあらゆる物が床にぶち撒けられた。
そしてやっと立ち上がることができるようになった息子――ジルに向かってその感情をぶつけるのを止めようとしない。
「お前は明日にでも廃嫡される身なのだ。今さら馴れ馴れしく父上などと呼ぶな、この馬鹿者が!!」
「も、申し訳ありません……」
「侯爵様、
怒り狂うベネデットを前にして、アーデルハイトに絶望的な表情が浮かぶ。
結果的に彼女が途中で決闘を止めた形になってはいるが、どのみちあのままでもジル死亡によるアンペール家の敗北は確実だった。
それをわかっていながら、ベネデットはどうしてもそれを感情的に許せないらしく、ジルとともにアーデルハイトを責めるのを止めようとはしない。
この女が止めさえしなければ、などとそんな思いが彼の中に渦巻くばかりだ。
ベネデットにとっての彼女の存在は、自派閥に属する下級貴族家の娘であり、長男ジルの幼馴染という認識しかない。
同い年で幼い頃から仲の良い彼らではあるが、爵位の違いから当然のように二人の結婚など考えたことなどなかった。
それがどうやら今回の件で、アーデルハイトの方が一方的に慕っていることがわかったのだ。
それがまたベネデットにとって面白くなかった。
満身創痍のジルに寄り添いながら必死の形相で赦しを乞うアーデルハイト。
そんな娘を心配そうに見つめながら、父親――テオバルト・キルヒマンが口を開く。
「この度は我が娘アーデルハイトが、ご迷惑をおかけしましたことをお詫びいたします。平に、平にご容赦いただけますれば――」
「詫びだと!? これが一言詫びて済む問題なのか!? お前の娘がアンペール家の敗北を決定付けたのだぞ!! 」
「しかし、話によればその時点でジル様の負けはほぼ確定していたとか。もしも止めなければ、ジル様は殺されていたともお聞きしましたが」
決闘会場に同席することが許されなかったキルヒマン子爵夫妻は、娘と知り合いからその話を聞いていた。
そんな子爵の言葉に、一瞬だけベネデットの気勢が削がれる。
「う、うるさい!! 口答えするな!! とにかくお前の娘のせいだろう、それを否定するのか!!」
その言葉に、ほんの一瞬だけテオバルトの眉が上がる。
しかし彼は事も無げにそれを隠した。
「……それは異なことを仰いますな。私の認識では、今や殺される寸前のジル様を娘が助けたのだとばかり思っておりましたが。 ――感謝されることはあれ、なじられる覚えはないかと存じますが」
「なんだとっ!!」
まるで見透かすような澄んだ瞳でテオバルトが見つめると、気圧されたベネデットが視線を逸らす。
そして行き所を失ったその視線を、再び息子に戻した。
決闘から戻って来たジルは、本当に酷い有様だった。
屋敷に帰ってきてからすぐにベネデットが怒り始めたせいで、怪我には未だろくな手当も施されておらず、折れた左腕は添え木さえ当てられないまま放置されていた。
リタに殴られ続けた顔は
そんなタコ殴りにされた息子の姿を改めて眺めると、ベネデットは余計に怒りを覚えるのだった。
事の始まりは、ジルの従者の報告だった。
これまで殆ど異性に興味を示してこなかったジルが、偶然街中で見かけた少女に興味を示した。
その珍しい様子を従者が嬉しそうに語っていると、その話を聞いたベネデットは別のところに興味を持ったのだ。
聞けばその少女は、若くして二級魔術師の免状を貰うほどの優秀な魔術師であるうえに、名門レンテリア伯爵家の令嬢だった。
さらに同じ辺境侯であり、ライバル家でもあるムルシア家の婚約者でもある。
そして亡くなってから既に10年以上経つにもかかわらず今なお慕う者の多い、あのバルタサールが孫の婚約者にと自ら乞うたほどの傑物だったのだ。
もしもそんな少女を奪い取ることができたなら、さぞ愉快だろう。
ふとベネデットはそう思ったのだが、具体的な案も思い浮かばないままそれ以上考えることはなかった。
しかしその数日後、執事の一人がそれを可能にする方法を見つけ出す。
それがあの『
その話を聞いたベネデットは鼻息も荒くやる気を見せた。何故なら、それを実行しさえすれば、ムルシア家を遣り込めることができるからだ。
武家貴族筆頭と言われる西部辺境侯ムルシア家の嫡男を武術で打ち負かし、評判を下げ、鼻を明かし、プライドをへし折り、婚約者まで奪い取る。
同い年の嫡男同士を衆人環視のもとで闘わせることにより、次代の武家貴族筆頭はどちらが相応しいのかを強く印象付けられる。
アンペール家にとって、これほど痛快なことはなかった。
しかもその全てを国王立ち会いのもと、合法的に行うことができるのだから。
現ムルシア家当主「脳筋」オスカルに武芸では絶対に敵わないベネデットではあるが、嫡男同士であれば話は別だった。
あの見るからにひょろひょろな学者然としたフレデリクと、筋肉の塊の猪のようなジルでは、どちらが強いかなんて火を見るよりも明らかだ。
むしろ、負ける要素などどこにもなかった。
お世辞にも賢いとは言えないジルではあるが、その抜きん出た膂力と剣技は父親としても一目置いていた。
幾ら頭が残念であろうと、武芸が秀でてさえいれば武家貴族当主としては申し分なく、事実現ムルシア家当主の「脳筋」オスカルがその代表例だ。
だからこれまでいくら愚かだろうと、ベネデットはジルを嫡男として育ててきたのだ。
同じ辺境侯のムルシア家と違い領地が敵国に接していないアンペール家は、これまで殆ど実戦の経験がない。恐らくこの先もそうだろう。
だからこそ、如何に頭が残念なジルであっても次代のアンペール家を切り盛りできるだろうと踏んでいた。
もちろん裏からベネデットが全てを仕切るのだが。
それが蓋を開けてみればこの有様だ。
絶対に負けるはずのなかった闘いに、まさかの敗北を喫してしまった。
その敗因は『
ただ負けただけに留まらず、魔法が専門の魔術師に素手で闘って負けてしまったのだ。
しかもその相手は、身長が150センチちょっとで、体重も50キロもないような、見るからに華奢(しかし巨乳)な少女ときている。
武人として、女子供に負けるほど恥ずかしいことはない。
それなのに今回負けた相手は、子供のように小柄な少女だったのだ。これは恥の上に恥を塗り重ねたとしか言いようがない。
確かにジルはフレデリクを正面から撃破していたが、今やそんなことなど誰も憶えてはいないだろう。
皆の記憶には、ハンデと称して自ら魔法を封印した小柄な少女に、素手で殴り倒されたという結末しか残っていなかったのだ。
国中で賭けの対象になっていたこの決闘は、9対1でジル優勢だった。
それは彼が負けるとは殆ど誰も思っていなかったことを意味していたのだが、予想外の結果が知らされるにあたり、国中に失望が広まってしまう。
中には「負けてんじゃねぇよ、糞アンペール!! 金返せ!!」などと罵倒される始末だ。
ライバル家の名声を地に落とそうと画策したところから始まったこの決闘騒ぎだったが、終わってみれば逆にアンペール家の名が地に落ちる結果となっていた。
がっかり武家貴族家。
今やそれがアンペール家のあだ名になっていた。
意図に反して家名を地に落としてしまったアンペール家だったが、逆にムルシア家の株は激上がりだった。
図らずも衆人環視のもとで型破りなまでの強さを見せつけたリタ。
その彼女を嫁に迎え入れるのであれば、「文」のフレデリクと「武」のリタとして次代のムルシア家は安泰だと誰もが思ったからだった。
そんな絶望感に打ちひしがれたベネデットは、その
大声を出し過ぎたせいで喉が
「えぇい、もういい、お前たち全員出て行け!! ジルの廃嫡手続きは明日には行う
「……」
「あぁ……侯爵様……」
その叫びに一言も声を発せずに、ただひたすらにジルは床を見つめ続ける。
その顔には
それに反してアーデルハイトは、最後通告が告げられたかの如く顔を青ざめさせる。
すでに決まっていたこととは言え、遂にそれが現実のものになるのかと思い、その重みに彼女は押しつぶされそうになっていたのだ。
いずれにしろ避けられなかった運命ではあるが、その引導を渡してしまったのが自分なのだと思うと、その居た堪れなさに胸を押さえてしまう。
そんな少女にまるで慈悲のない視線を投げたベネデットは、次にその父テオバルトを睨みつけた。
「それから、キルヒマン子爵!! 貴様にも一両日中に沙汰を申し渡す!! 今から覚悟しておけ!!」
「畏まりました。それでは屋敷にて、粛々とその沙汰をお待ちしておりましょう。 ――さぁみんな、もう帰ろう。侯爵様もお疲れだろうから、もうお休みになっていただかなければ」
「父上……」
母と自分の肩に優しく手を置く父親を、アーデルハイトが意味ありげな顔で見つめる。そこには決して彼女から口には出せない訴えが滲んでいた。
その意図を敏感に感じ取ったテオバルトは、隣に佇むジルを見ると徐に口を開く。
「ジル様。貴方様もぜひ当家へお越しください。お父上は貴方様のお顔を見たくないと仰っておいでのようです」
「えっ……?」
「このままここにいれば、要らぬ揉め事の種にもなりましょう。ここは一度ご実家を離れるのがよろしいかと。 ――なにより怪我の手当も必要です」
「い、いいのか……?」
顔が腫れているので表情は伺えないが、その声から察するにジルは怪訝な顔をしているのだろう。
棒立ちのまま、腫れ上がる瞼の隙間からテオバルトを見つめていた。
その顔に柔らかく微笑むと、尚もテオバルトは言い募る。
「えぇ、もちろんでございます。ジル様――貴方様は明日にも爵位を失う身。娘もその責任を痛感しているところでございます。せめて今後の身の振り方が決まるまで当家にご滞在いただければと。これはせめてものお詫びにございます。 ――ベネデット卿、それでよろしいですね?」
憤慨するベネデットを横目で見ながら、テオバルトがそう告げる。
するとアンペール家当主は一際大きな声を上げた。
「そんな奴はもう親でも子でもない!! 好きにするがいい!!」
「畏まりました。それではお言葉に甘えて……失礼いたします」
その声を合図に、ジルとキルヒマン家の四人はアンペール家の首都屋敷から出て行ったのだった。
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