第171話 絶望と安堵

 その時ジルは、生まれて初めての恐怖を味わっていた。


 まるで自分のものではないかのように身体は言うことを聞かず、脚もガタガタと震えるばかりで、今や立ち上がることさえできない。

 まるで地に足が着かないその感覚は、ともすれば夢の世界に紛れ込んでしまったかのようだ。

 しかし皮肉にもジンジンと熱い顔の痛みと左腕から伝わる激痛が、否応なくこれが現実であることを思い出させてくれる。


 武家貴族であるアンペール家の血を色濃く受け継いだジルは、生まれつき体格に恵まれていた。

 母親を難産に追い込むほど大きな赤ん坊だったし、常に同年代の子供の中では大柄だった。

 そのおかげで、これまで剣術の稽古や軍事訓練などで苦労したことはなったし、弱冠12歳にしてすでに大人と同じ武器を振り回すほど、その膂力を誇っていた。


 次期侯爵家当主という肩書が周囲に忖度を強いたきらいはあったものの、それでもこれまで15年に渡って生きて来た中で、訓練や試合などの剣闘において、これほどまで追い詰められたことはない。

 しかも今や殺される寸前としか言いようのないこの状況を、ジルは全く経験したことがなかった。



 一体自分は誰――いや、何と闘っているのだろうか。

 恐怖と畏れのために正常に働かなくなった頭では、それさえもわからなくなっていた。


 これがまだ剣での闘いであったなら、まだやりようもあっただろう。

 自分とて、剣技については一角ひとかどの者だと自負もあるのだから。

 しかしあの凄まじいまでの魔法を見せつけられた今では、全てが無意味に思えてしまう。

 何故なら、リタの「実力」と自分のそれでは、あまりにかけ離れているからだ。

 あの魔法であれば、恐らく数百人は一瞬で殺せるだろう。しかしそれと同じことを自分にやれと言われても、それは絶対に無理だ。

 そもそも、あの魔法と己の剣を比較すること自体が間違っている。



 目の前で不敵な笑みを浮かべる小さな少女。

 自分よりも頭二つは背が低く、肩幅も身体の厚みも半分しかないうえに、体重に至っては恐らく3倍近く差はあるだろう。

 軽くひねるだけで折れてしまいそうなほどに腕は細く、一見厚く見える胸板も、その殆どが乳房だ。

 その証拠に、その下のウエストは両手で握れそうなほどに細いのだ。


 見た目はこんなに小さくて愛らしい少女でしかないのに、いざ拳を交えてみるとまるで想像とは違っていた。

 この華奢(しかし巨乳)な身体のどこに、これほどまでの膂力があるのだろう。

 数百人を一度で殺せる魔法の力はもとより、純粋な殴り合いですら勝てる気がしない。


 しかし自分は武家貴族であるアンペール家の跡継ぎなのだ。

 どんなに相手が恐ろしくても、勝てる見込みがなくとも、決して自分の口から負けを認めることは許されない。


 あの厳しい父であれば、降伏は絶対に認めないだろう。いや、それどころか、間違いなく死ぬまで闘えと言うに違いない。

 そしてあの冷たい母親は、自分が死ねば弟が跡継ぎになるからと喜ぶに決まっている。



「くっそぉ……ふざけやがって……何奴どいつ此奴こいつも……」


 殴り倒され、リタに見せつけられた魔法の威力に腰を抜かしたジル。

 その彼が尻もちをついたままブツブツと呟き始める。

 そして次第にその声が大きくなると、最後にそれは叫びに変わった。


「くっそぉー!! こんなところで死んでたまるか!! 俺は、俺は、俺はぁー!!」


 突如叫び始めたジルは、震える脚を無理矢理動かしてなんとか立ち上がる。

 そして目の前で薄ら笑いを浮かべるリタを、悲壮な覚悟の浮かぶ瞳で睨みつけた。


 どうやら彼は、この決闘が始められた理由さえ忘れ去っているようだ。

 その姿は、ただひたすらに運命に抗って生き残ろうとする、追い詰められた哀れなネズミにしか見えなかった。




「ぬぐぁー!! リタ・レンテリア!! ふざけやがって――」


 震える脚のせいで下半身がついてこないのか 叫び声をあげながら前のめりに襲いかかるジル。

 するとリタは、その直線的な攻撃を事も無げにカウンターに仕留めると、そのまま足をかけて転ばせた。

 そして仰向けに倒れたジルの上に馬乗りになると、左右の拳で殴り始める。

 その顔には、残酷なまでの表情が浮かんでいた。


「このぉ!!」


 どかっ!!


「わしの!!」


 どごっ!!


「フレデリクをっ!!」


 ばきっ!!


「殺そうとするなんぞ!!」


 ばしぃ!!


「絶対に!!」


 ずむっ!!


「許せぬ!!!!」


 

 まるで手ごたえを確かめるかのように、一発一発を確実に叩き込むリタ。

 今や身動きも取れないまま、たこ殴りにされ続けるジル。

 一方的に殴られ続けるその様は、今や試合が止められてもおかしくないほどだった。


 その様子を見る立会人の顔に迷いが浮かぶ。

 確かにそれは試合を止めるほどの一方的な展開なのだが、同時にその姿は、ふざけて父親の上に跨った少女が、戯れに「ぽかぽか」と拳を叩きつけているようにしか見えない。

 見ようによってはその姿は、決して試合を止めるほどには見えなかった。




 そんな姿を、遠くから見ている者がいた。

 それはジルのセコンドに付いている、アーデルハイト・キルヒマンだ。

 このキルヒマン子爵家の令嬢は、幼馴染が一方的にやられるのを見て悲鳴を上げていたのだ。

 そしてジルの父親――ベネデット・アンペールに懇願する。


「こ、侯爵様!! このままではジル様が殺されてしまいます!! お願いですから、もう止めてあげてください!!」


 その懇願に胡乱な顔をしながらベネデットは答える。


「何を言う!! 我がアンペール家の男子たるもの、自ら負けを認めるなぞ絶対にあり得ぬ!! そのようなことをするくらいなら、このまま死んだ方がマシなのだ!! ジルだとて、それは重々承知しているはずだ!!」


 息子の負けを半ば確信しつつあったベネデットは、アーデルハイトを睨みつけるとイラつくように吐き捨てる。

 明らかにその顔には「余計な事を言うな」と書かれていた。


 するとその妻でジルの母親――ダニエラが口を挟んでくる。

 目の前で息子が殴られているというのに、その瞳は冷たく冷めていた。


「口を慎みなさい、アーデルハイト!! 主人の言う通りです。幼馴染のよしみで同席を許しましたが、たかが子爵家令嬢の貴女は、本来ここにはいられないのですよ? それをわかっているのですか!?」


「は、はい……奥様……それは重々承知しております。わたくしのような身分の者に、過分にお気遣いいただいたことに感謝はしております。 ――しかし、今それは関係ありません!! このままでは本当にジル様が死んでしまうと、わたくしは申し上げているのです!!」


「えぇい、くどいぞ!! どのみち負けるのであれば、生き恥を晒すよりは死んだ方がまだマシだ!! 奴にはアンペール家の恥を背負って死んでもらう!! それはジルも承知しているはずだ!!」


「そ、そんな!! ――お、お願いでございます!! 侯爵様、何卒お慈悲を!! このままでは本当に――」



 ジル・アンペールのセコンドでそんなことが繰り広げられていた時、試合場では未だ立会人が悩んでいた。

 確かにジルは一方的にたこ殴りにされているが、それでも必死に急所を守っているし、その瞳から光は未だ消えていない。

 それどころか、隙あらば反撃に転じようとする様子さえ見て取れる。


 確かにこのタイミングで試合を止める判断もあり得るのだろうが、その時点でアンペール家の負けは確定し、ジルは廃嫡されてしまう。

 さらに今後の貴族界の力関係に影響が生じるほど、アンペール家は恥を晒すことにもなるのだ。


 そんな重要な判断を下すには、未だ試合の経過は微妙過ぎた。

 見る限り、ジルは今にも反撃に転じそうだし、いくら一方的に殴りつけているとは言え、リタの細腕ではそれほど効いているようにも見えなかった。


 果たして今ここで止めるべきか否か、五人の立会人全員が悩んでいたのだった。




「この、ハゲが!!」


 どごっ!!


「いい加減に!!」


 ずがっ!!


「負けを!!」


 ずんっ!!


「認めんか!!」


 ばすっ!!


「このままじゃと!!」


 ばしぃ!!


「ほんまに!!」


 ずむっ!!


「死んでしまうぞ!!」


 どぎゃ!!



 技術もなにも関係なく、ひたすら力任せにジルの顔面を殴り続けるリタ。

 もう何十発殴ったのかわからないほど、その細い腕は疲れてだるくなっていた。

 それと同時に、今やジルの顔は原形を留めておらず、頬の肉は裂け、歯は折れ、目も開けていられないほどに血が流れていた。

 それでも彼の瞳の光は消えていなかった。


 そしてリタの拳も皮が剥けて血が流れ始めたところで、遂にとどめを刺そうと決意する。

 その細く華奢(しかし巨乳)な両肩は、はぁはぁと漏れる荒い息とともに激しく上下していた。



「はぁ、はぁ、はぁ……この頑固者め!! ええ加減に自分の負けを認めろと言うとろうが!! このっ!! このぉー!!」


 がすっ!! ごすっ!!


「ぐふぅ……全然……効かんぞ……そんな女の細腕で……俺が降伏すると思ったか……?」


 流れる鮮血のせいで最早もはやまともに目も開けられないジルではあったが、それでも頑なに負けを認めようとしない。

 恐怖のために脚は震え、身体は強張り、痛みで身悶えしながらも、最後まで武家貴族家嫡男の矜持を守ろうとするその姿は、いっそ清々しくもあった。


 そんなジルを見つめながら、リタは小さなため息を吐く。

 その顔には何処か切なそうな表情が浮かんでいた。


「ふんっ、強情な奴じゃ!! そんなに死にたいのであれば、望み通りその命を絶ってやろうぞ!!」


「こ、殺せ!! 生き恥を晒すくらいなら、いっそ殺せ!!」


「ほう、ええ度胸じゃな!! ――なれば、これで最後じゃ!! ぬぁぁー!! このっ、バカちんがぁー!!!!」


 一際大きな掛け声とともに、リタが両手を大きく振りかぶる。

 そしてとどめめとばかりに、魔力を集中させた両拳を思い切り叩きつけようとしたその時――




「お、お待ちください!! 降参……降参します!!」


 リタの拳がまさに振り下ろされようしたその時、勢いよくその間に何かが割って入ってくる。

 そして盾になるかのように、ジルに覆い被さった。


「なっ……!!」


 それは人だった。

 もっと正確に言うのなら、それはリタよりも頭二つは背が高く、長く美しい金色の髪と男好きするような大きな胸と臀部が目立つ、ドレス姿の女性だった。

 誰あろうそれは、15歳のリタとジルと同い年の少女――アーデルハイト・キルヒマンだったのだ。



 突然横から飛び出してきたアーデルハイトは、リタとジルとの間に身体を投げ入れると、そのままジルに覆いかぶさる。

 そして盾のように彼を守ったのだ。


 咄嗟の出来事にリタが目を白黒させていると、顔を伏せたままのアーデルハイトが声を張り上げた。


「セコンドによる試合放棄を申し立てます!! ジル様の負けです!! もうこれ以上は無理です、死んでしまいます!!」


「アーデルハイト嬢……」


「フレデリク様にしたことを思えば、これが虫のいい申し出であることは十分承知しております!! しかしルールではこれで試合は終わるはず!! お願いです、負けを認めます故、もうおやめくださいませ!!」


 立会人から試合を止められる前に、突然乱入したアーデルハイト。

 そして勝手に試合を放棄する。

 それはつまり、ジルの負け――アンペール家の敗北を意味する行為だった。


 突然のその出来事を茫然と眺めていたアンペール家当主ベネデットは、ハッと我に返ると大声で叫んだ。

 

「しょ、正気か、アーデルハイト!! 何を勝手なことを!! ――お、おい、立会人、まだ試合終了は告げておらぬな? なれば、まだ試合は終わりではなかろう!?」


 咄嗟の出来事に、試合を止めることさえ忘れて茫然とする立会人たち。

 その彼らはベネデットの声に我に返ると、慌てて告げた。



「し、試合終了!! 両者離れて!!」


「お、おい、立会人!? 何を勝手に試合を終わらせている!! 我々はまだ負けを認めてはおらぬぞ!!」


 と、ベネデット。


「セコンドが乱入した時点で試合は終了です!! さらにセコンドの女性の負けを認める発言を、我々はしかと聞きました!! 再度申し上げますが、ここに試合終了を宣言します!!」


「なんだとぉー!!」


 その言葉とともに立会人に詰め寄るベネデット。

 すぐ横には血塗れの息子が倒れているというのに、全く見向きもしない。

 その姿には、およそ親が子を想う愛情などは欠片も見えなかった。


 

 大粒の涙を流しながら血塗れのジルを介抱するアーデルハイトと、その彼女に驚きの表情を向けるジル。

 しかし初めこそそんな顔をしていたが、すぐに状況を理解したジルはその顔に穏やかな笑みを浮かべ始める。


 そんな二人を見たリタの顔には、ほんの一瞬だけ小さな笑顔が見えた。

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