第149話 始まる前に終わったもの
それから四日後、リタ一家とロレンツォたちの乗る馬車はレンテリア伯爵邸に到着した。
首都に入ると同時に騎士の一人が早馬として駆けていたので、彼らが到着した時には屋敷の前には既に多数の出迎えが待っていた。
リタの無事は予め知らされていた。それでも屋敷の者たちは何処か落ち着きがない。
リタが向かった先が戦場だったので、皆心配を隠せなかったようだ。
ガラガラと音を立てて馬車が入ってくる。
車窓からリタの顔が見えた途端、当主セレスティノと夫人イサベルが転がるように駆け寄った。
そして馬車からリタが姿を見せると、イサベルが思い切り抱きしめる。
「あぁ、リタ!! リタ!! あなたという子はなんという無茶を……あぁ、リタ……」
「お、お婆
孫の名を連呼しながら涙を流すレンテリア伯爵夫人。
それからリタの両肩に手を置くと、全身を隈なく確認する。
「大丈夫? 怪我はありませんか? 何処か痛いところとかは?」
「だ、大丈夫れす……何処もなんともありましぇぬ……」
凄まじい勢いで孫の様子を確認する祖母に、思わずリタは仰け反りそうになる。
その姿は孫の無事を涙ながらに喜ぶ祖母以外の何ものでもなく、そこには恥と外聞を気にする以前のような厳しさは全く見られなかった。
ぎゅうぎゅうとまるで手加減せずに抱きしめるイサベル。
そんな祖母の耳元で、おずおずリタが口を開く。
「お婆
「いいのです!! もういいのですよ、リタ。両親にはもう散々叱られたでしょう? ですから、今さら
イサベルがリタを胸に引き寄せていると、さらにその上からセレスティノが抱きしめる。
さすがにセレスティノは涙を流してはいなかったが、その顔には大きな安堵が広がっていた。
「あぁ、リタ。無事でよかった。お前にもしものことがあったらと思うと、私たちは全く眠れなかったよ。 ――とにかく何事もなくて良かった」
右からは祖母のイサベル、そして左からは祖父のセレスティノに抱きしめられたリタは、少々苦しそうにしながらも嬉しそうな顔をしていた。
人だかりが出来ているリタ一家の後ろに、ゆっくりともう一台の馬車が入ってくる。
誰にも出迎えられることなく、ひっそりとその動きを止めた。
もちろんそれはロレンツォとブリジットの乗る馬車だったが、それに駆け寄る者は誰もいない。
――いや、一人だけいた。
誰にも顧みられることなく静かに停まった馬車に向かって、駆け寄ってくる者が一人だけいたのだ。
それはリタ専属メイドのジョゼットだった。
リタの生還に喜びの涙を流していた彼女だが、実はそれと同じくらいもう一人の帰還を待ちわびていた。
先日ジョゼットはプロポーズをされた。
魔術師として戦場に召集されたロレンツォに、出がけに結婚の申し込みをされたのだ。
そして彼女は承諾した。
しかしそのタイミングで結婚の約束をするなど、如何にも何かが起きそうな予感がしていたジョゼットは、ひたすら神に祈り続けた。
どうか彼を無事に帰してください。
この願いを聞き届けて頂けるまで、何度でも祈りを捧げます。
だけど、もしも彼の身に何かがあったなら、今後一切あなたを顧みることはないでしょう。
しかしその願いも届かず、一時はロレンツォの危機が伝えられた。
それはロレンツォの代わりに来た家庭教師の無神経な一言だったが、リタはその直後に屋敷を呼び出していったのだ。
数万人の人間が殺し合う戦場に、たかが五歳の幼児が駆け付けたところでどうにかなるものでもないだろう。
確かにロレンツォに魔法の手ほどきを受けるようになってから飛躍的に実力も上がっていたが、それでもリタに何かができるとも思えなかった。
しかしリタは、必死に止めるジョゼットの声を無視して飛び出して行ってしまう。
そしてどこから呼び出したのかわからないが、突然出てきた不思議な白馬に乗って走り去ったのだ。
ジョゼットの祈りが神に届いたのだろうか。それとも脅しが効いたのか。
早馬の騎士はロレンツォは無事だと教えてくれた。
その言葉を聞いた途端安堵に胸を撫で下ろしたジョゼットは、さらに詳しく話を訊こうとする。
しかし騎士は、その問いに少し言葉を濁した。
「あぁ、あの魔術師も無事だ。 ――無事は無事なんだが……まぁ、詳しくは本人から聞いてほしい」と意味ありげな言葉を残されてしまう。
その言葉が気になって仕方がないジョゼットは、実際にロレンツォに会うまで気が気ではなかった。
不安顔のジョゼット。
目の前で馬車の扉が開かれると、ロレンツォが顔を出した。
そして馬車の前に佇む最愛の恋人に気付いた彼は、満面の笑みを浮かべる。
外の光のせいなのか、恋人の姿を見たせいなのかはわからないが、優し気なその瞳は眩しそうに細められていた。
「や、やぁ、ジョゼットさん、ただいま戻りました。心配をおかけしましたが、なんとか無事に帰ってこられました」
ジョゼットの姿に照れているのだろうか。ロレンツォの頬が少し赤くなっている。
間違いなくその顔は、見慣れた優しい恋人の顔だった。
パッと見、彼の様子におかしなところはなく、どうやら怪我もなさそうだ。
その様子にすっかり安心したジョゼットは、騎士に言われた不安な言葉をすっかり忘れてしまう。
そして嬉しそうに口を開いた。
「おかえりなさい、ロレンツォさん。ご無事でなにより……」
しかし次の瞬間、ジョゼットの顔が凍り付く。
口元は笑っているのに目だけが大きく見開かれた顔は、まさに奇妙としか言えないものだった。
そんな顔のまま、ジョゼットは凍り付いたように動かなくなっていたのだ。
いまのロレンツォは、見慣れたローブ姿ではなかった。
普段の彼は国から支給される安物の灰色のローブを着ていることが多い――というか、その姿しか見たことがなかった――が、いまは貴族のような恰好をしている。
それは彼のローブが戦闘でぼろぼろになっていたからだ。
戦場での壮絶な死闘の末に、彼のローブは血と泥で真っ黒に汚れていた。さらに一部は焦げており、所々に穴まで開いている始末だった。
そのあまりに酷い姿を見かねたムルシア家の者が、彼に新しい洋服を提供してくれたのだが、その洋服は平民用ではなく貴族のものだったらしい。
普段ローブ姿しか見たことのなかったジョゼットは、ロレンツォの姿に強烈な違和感を感じていた。
しかしそれが服装からくるものではないことに、すぐに気づいてしまう。
ジョゼットがロレンツォの姿から感じた違和感。
それは彼の左腕だった。
それに気付いたジョゼットは、これでもかとばかりに瞳を見開くと、恋人の左腕に視線を釘付けにする。
それが普段のざっくりとしたローブだったら目立たなかったのだろうが、今のぴっちりとした貴族の装いは、左腕の肘から下が無くなっているのが丸分かりだった。
ジョゼットはその姿に絶句した。
「ロ、ロレンツォさん……そ、その腕は……?」
「あ、あぁ……まぁその、色々とあってね……詳しいことは後で話すから……ごめん」
馬車から降りたロレンツォは、無言で固まるジョゼットを抱きしめるとそっと肩に手を置いた。
それから思い出したように後ろを振り向く。
「あぁ、そうだ。仲間が一人一緒に帰って来たんだ。――紹介するよ、同じ魔術師仲間のブリジットさんだよ。本当はもう一人いたんだけれど、彼は途中で帰らぬ人になってしまってね……」
なんとも辛そうな顔でロレンツォが言い淀んでいると、馬車の中からもう一人が顔を出す。
続いて降りてきたブリジットは、親しげにジョゼットの肩を抱くロレンツォに何やら驚いた顔をしていた。
その顔に気付いたロレンツォが怪訝な顔をする。
「どうしましたか、ブリジットさん? 何処か調子でも悪いのですか? 大丈夫ですか?」
「い、いいえ、な、なんでもありません……」
ブリジットは動揺していた。
ロレンツォに続いて馬車から降りようとしていると、突然目の前でロレンツォがメイドと抱擁したのだ。
見るからに親しげなその様子は、この二人が普通の関係ではないことを物語っている。
無事の帰還を喜んで嬉し涙を流す女と、それを抱きしめる男。
その姿はどう控えめに見ても、まるで恋人同士にしか見えない。
えぇ……ちょっと待って。
恋人って……? もしかしてこの二人って……
その事実にブリジットが突然頭を殴られたような衝撃を受けていると、ロレンツォが紹介を始めた。
彼はブリジットの様子にはまるで気付いていないようだ。
「あぁ、ブリジットさん。こちらの方はジョゼットさんと言って、リタ様の専属メイドの方なんだ」
そう紹介されたジョゼットは、完璧な所作で挨拶する。
直前まで泣いていたので未だその瞳は潤んだままだが、まるでスイッチを押したかのようにジョゼットは仕事モードに切り替わる。
その流れる様な動きを見ていると、伯爵家のメイドして彼女が厳しく作法を教え込まれているのがわかるものだった。
「お初にお目にかかります、ブリジット様。私はレンテリア家でメイドを務めさせていただいております、ジョゼットと申します。この度は危険な任務をご苦労様でございました。長旅でお疲れでしょうから、まずは屋敷の中でお休みくださいませ。ご主人様にはその旨は通してございますので、ご遠慮なさらずに、さぁ、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
まさに完璧な作法を返されたブリジットは、思わず背筋を伸ばしてしまう。
そうしながらも彼女はジョゼットを観察した。
決して美人とは言えないが、笑うとえくぼが可愛い愛嬌のある顔は、とても親しみが湧く。
短めに整えられた茶色の髪と薄茶色の瞳が美しく、優しそうな微笑みの似合う顔は彼女の心根の純粋さを表しているようだ。
170センチを超えているであろう長身と細身の身体はすらりと美しく、厳しいメイド教育のためなのか常に背筋も伸びている。
そしてその長身のせいで、彼女の立ち居振る舞いはとても美しく見えた。
どこを見てもメイドとして完璧なジョゼット。
もしかして彼女はロレンツォの恋人なのだろうか。
いや、きっとそうに違いない。
そうでなければあんな風に抱きしめたりしないはずだ。
生まれて初めて好きになった男性に、まさか恋人がいただなんて……
そんな……なんということだ……
がびーん。
それでも自分の予想が外れてほしいと願うブリジットは、
「あ、あの、失礼ですけど、お二人の関係は……?」
「え? ――あぁ、僕とジョゼットさんかい? うん、僕たちは今度結婚するんだ。無事に戦争から帰ってこられたら結婚しようってね、約束したんだよ」
すでに仕事モードに切り替わっていたジョゼットだが、ロレンツォのその言葉にポッと頬を赤らめる。
そして唇を尖らせて抗議した。。
「そ、そんなことを人前で仰らないでください。恥ずかしいですから」
「ううん、あれだけ大変な思いをしてやっと無事に帰ってこられたんだ、少しくらい浮かれたっていいだろう?」
「ま、まぁ、少しなら……」
相変わらずジョゼットの視線はロレンツォの左腕に向けられたままだ。
彼女は説明を早く聞きたいのだろう。何度もちらりと視線を向けていた。
そんな二人の前で、ブリジットは絶望していた。
これがただの恋人だというのであれば、他にやりようもあったかもしれない。
しかし結婚するまでの仲だと聞いてしまった以上、ここは身を引くしかないではないか。
これから結婚を控えた二人の間に刺さるのは、さすがに無理だ。
そもそも恋愛経験のない自分に、そんな大それたことができるわけがない。
ぬぉー!!
ジョゼットに案内されながら屋敷に向かうブリジット。
その瞳からは止め
その様子を心配したロレンツォとジョゼットが何度声をかけてみても、「なんでもない」と繰り返す。
そして最後には外聞を気にせず、空を見上げて大声で泣き始めた。
「う゛えぇぇぇぇ!! あ゛ぁぁぁぁー!!」
盛大な泣き声が響き渡り、屋敷の者たちが一斉に振り向く。
それでもブリジットは泣くのをやめようとはしなかった。
22年目にして初めて芽吹いた彼女の初恋は、始まりもせずに終わってしまったのだった。
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