第113話 ドレスから見える片乳

 エルミニアに手を引かれたケビンは、廊下を通り抜けてそのまま別室に案内された。

 そこはリビングから程近いこじんまりとした部屋で、普段は予備室として使っている場所だった。


 手を引かれたままケビンが部屋の中に入っていくと、ふと甘い香りが漂ってくる。

 彼は何処かでその匂いを嗅いだことがあるような気がしたが、暫く考えても思い出すことはできなかった。

 

 なんとなく懐かしいような、落ち着くような、そんな香りが漂う中を見廻すと、様々な贈り物やベビー用品の真ん中に、小さなベッドが置かれているのが見える。



 恐らく国王からのプレゼントなのだろう。

 細かい細工や意匠が施されたそのベッドは、インテリアや家具などにはまるで疎いケビンにも一目でわかるほど豪奢だった。


 赤ん坊の大きさにあわせたのだろうか、大きさ自体はそれほどでもなく、転落防止用の木の柵でぐるりと周りを囲われている。

 そんなベッドの中心に、小さいながらもこんもりとした盛り上がりが見えた。

 


 それは小さな赤ん坊だった。

 

 見るからに柔らかそうなぽやぽやとした黒い髪。

 黒い眉も、浅黒い肌の色も、まさにケビンそっくりだった。

 触れるだけで壊れてしまいそうな、そんなか弱く小さな存在が、あどけない寝顔を晒して眠っていた。


 ケビンとていままで何人も赤ん坊を見たことがあったが、この子だけは特別なのだとすぐに気付いた。

 そこには紛れもない血の繋がりを感じたからだ。 

 それは最早もはや理屈でも感情でもなく、ただひたすらに愛しく思える存在だったのだ。


 この子のためなら死をも厭わない。


 一目見た瞬間からそう決意するほど、ケビンは我が子に夢中になっていたのだった。



 まるで自分の生き写しのような赤子との対面にケビンが感動していると、その横顔を柔らかくエルミニアが眺めていた。


「この子は私たちの長男で、名前は『クリスティアン』です」


「クリスティアン……」


 突然聞いた我が子の名前を、何度も繰り返すケビン。

 そうしながらも視線は眠る赤ん坊に注がれたままだ。

 そんな夫を見つめながら、何やらエルミニアは申し訳なさそうな顔をしていた。



「ごめんなさい、本当はあなたと一緒に決めたかったのですが……いつまでも名前がないのは可哀想だと思って。勝手だとは思いましたが、幾つかの候補の中から私が選びました」


「そうか、クリスティアンか。うん、いい名前だ。もちろん文句なんかあるわけないよ。ありがとうエル――そしてすまなかった」


「どうして謝られるのですか? あなたにはなにも謝ることなど……」


「いや、君の出産がとても大変だったと陛下から聞いたんだ。君は丸二日間も苦しんだそうじゃないか。そんな大変な時に俺はそばにいられなくて……本当にすまなかった」


「そ、そんな、謝らないで下さい。あなたはお仕事だったのですから仕方ないでしょう。それにこの度のことは父上がお命じになられたことなのですし、責めるのであれば父上を責めます。――この子の性別を漏らしたことと言い、近いうちに必ず小言を言わせていただきますから」


「はははっ、お手柔らかに頼むよ。俺は陛下の気持ちもわかるからね」


「ふふふっ、まぁ、冗談ですけれど」


 最後にそう言うと、悪戯っぽい顔でエルミニアは笑った。




 愛する妻と久しぶりの会話を楽しみながら、ケビンは眠る我が子の手をそっと握ってみる。

 その温もりと柔らかさ、そして小ささに感動していると、突如クリスティアンは声を上げ始めた。


「ふにゅ……ふぇ……ふぇぇぇぇん!! ふにゅぁぁ――!!」


「あぁっ!! ご、ごめん、目を覚ましてしまったみたいだ……」


 あれほど完全アウェーのハサール国王の前でさえ動揺しなかったケビンにしても、泣く赤ん坊にはどうしていいのかわからないらしい。

 突然オロオロと挙動不審になると、助けを求めるように妻を見た。


 その光景に「ふふっ」と小さな笑い声を上げると、エルミニアはそっと赤ん坊を抱き上げる。

 優しく柔らかく我が子を見つめる眼差しは、まるで女神のように見えた。



「あらあらあら。お目々が覚めちゃったのね。どれどれ……ほぅら、いらっしゃい。あぁ、いい子ね、クリスティアン」


「ふぁぁぁぁん!! ふぎゃぁー!!」


「あぁ、よしよし…… ほらほら、どうしたの? お腹が空いたのかしら?」


 未だ首も座っていない赤ん坊を器用に胸に抱くと、早速エルミニアはあやし始める。

 その様子は、すでに彼女が赤子の扱いに慣れているのが良くわかるものだった。



 

 貴族の家に赤ん坊が生まれると、専門の乳母を雇うのが普通だ。

 そして乳母に赤ん坊の世話を任せて、母親自身はあまり子育てに関わることはない。

 それが貴族の家では当たり前だったし、誰もそれをおかしいと思う者もいなかった。

 もちろん市井の者たちは自分たちで子供の面倒を見るのは当たり前だったが、こと貴族に限ってはそれが普通だったのだ。


 しかしエルミニアはそうしなかった。

 彼女は我が子の子育てに積極的に参加しようとしているのだ。


 授乳からおむつの交換まで、自分でできることは何でもしていたし、息子が泣き始めれば自ら抱き上げてあやしたりもする。

 もちろん乳母の仕事を奪うわけにもいかないので、全てを自分だけでやろうとはしなかったが、それでもできるかぎり我が子と一緒にいるようにしていたのだ。



 そんな子育ては貴族にしては珍しかったが、彼女がそうするには理由があった。

 それは自分が母親にそうして育てられたからだ。


 ご存じのように、エルミニアの母親――ジャクリーヌ・トレイユは国王の正妃ではなく、その侍女だった女性だ。

 もちろん王妃の侍女を務めるような女性なのだから、その出自は貴族――トレイユ伯爵家の三女だったし、彼女自身も幼少時は乳母に育てられていた。


 しかしジャクリーヌは国王の子――エルミニアを産んだ直後から、幼い我が子を自らの手で愛情いっぱいに育てた。

 元正妃の侍女にして伯爵家の三女、そして王の側妃という立場上、ジャクリーヌと幼いエルミニアは王城に住むことを許されず、半ば離宮に隔離されていたからだ。


 しかしむしろその状況が良かったのだろう。

 彼女たち親子はいつも一緒にいられたし、幼い娘の世話を母親自らすることが出来たのだから。

 離宮から外出することすらも叶わなかったジャクリーヌは、ひたすら幼い娘に愛情を注ぎ続けたのだ。


 

 そんな母親も、エルミニアが三歳になった直後に病死してしまう。

 その突然の死には当時色々と噂も立ったのだが、結局は証拠もないまま有耶無耶になってしまった。


 ジャクリーヌが亡くなった後もエルミニアはそのまま離宮で暮らし続けた。

 王族や貴族との接点が最小限になっていたおかげだろうか、彼女が裏表なく素直に真っすぐ育ったのはある意味皮肉と言えるものだった。



 そんなわけで、エルミニアは三歳で母親を亡くしていたが、それでもその思い出は彼女の中に残り続けた。

 それはそれだけ彼女が母親から愛情を注がれ続けた証拠なのだろう。

 エルミニアが自らの手で息子の世話をする理由――それはジャクリーヌから与えられた愛情をそのまま幼い息子に注ごうとしていたのだ。




 小さな声で泣き始めた息子を、エルミニアが優しく胸に抱いている。

 天使を抱擁する女神のような姿は、以前に教会で見た有名な宗教画のように見えた。

 そして愛おしそうに我が子に頬ずりする様子に、思わずケビンは見惚れてしまう。


「うーん、やっぱりお腹が空いているのかしら。どれどれ……」


 そう言いながら、エルミニアはドレスの胸元を軽く引っ張り始める。

 その仕草をケビンが不思議そうに眺めていると、突然そこから彼女の胸が飛び出してきたのだった。


 その様子はまさに「ぽろり」という擬音が似合うもので、きちんとドレスを着ているのにもかかわらず、何故か片方の胸だけがはみ出ていたのだ。


 その存在をケビンは知らなかったが、彼女が着ているドレスは所謂いわゆる「授乳服」だった。

 それは赤ん坊に素早く母乳を与えられるように、胸の部分に切れ込みのある特別な洋服だ。


 パッと見でケビンがわからないのも無理はない。

 エルミニアが着ているのは、有名なデザイナーに彼女が作らせた特別な「授乳ドレス」とも呼べるもので、こうして胸を出していなければそれが授乳服だとはわからないようなデザインだったからだ。


 彼女が片方の胸を差し出すと、それまで泣いていたクリスティアンはその胸に夢中で吸いつき始める。

 優しく微笑みながら赤子に乳を飲ませるエルミニアの姿は、彼女がまさに母親になったことを実感させるものだった。


 そんな二人の姿を見つめていると、ケビンの胸の中に何か温かいものが溢れてくる。

 そして暫くその様子を見ていると、クリスティアンはそのまま眠ってしまったのだった。



「うふふ……クリスティアン、お行儀が悪いですよ。おっぱいを飲みながら眠ってしまうなんて。 ――さぁ、お腹いっぱいになったから、おねんねしましょうね。ふふふ……」


 満腹になり、母親の胸の中で幸せそうに眠り始めたクリスティアン。

 そんな息子をそっとベッドに戻すと、エルミニアがケビンのほうを振り向いた。


「うふふ。見てください、この幸せそうな顔。あぁ、本当に可愛らしい。もともと赤ちゃんは好きでしたが、自分の赤子がこんなにも特別だなんて知りませんでした」


「そ、そうだな。本当に可愛いよ。我が子というものは特別だと友人が言っていたが、その意味がよくわかった」


「そうですね。その方もいまの私達と同じ想いだったのでしょう。確かに出産は大変でしたが、それを乗り越えたからこそ、この幸せがあるのですね」


「あぁ、そうだな。君の言う通りだ。君には感謝してもしきれないよ。どうもありがとう」


「うふふふ……どういたしまして」



 などと夫婦の会話が続いていたが、その時ふとエルミニアは気が付いた。

 よく見ると、少し前から夫が自分の胸元ばかりを見ているのだ。

 そしてそこになにがあるかと思ったら……


「あら、いやですわ……このような姿をお見せして、失礼いたしました」


 ポッと頬を赤らめると、慌てて彼女は胸を隠す。


 そう、クリスティアンに母乳を飲ませ終わったエルミニアは、胸を仕舞うのを忘れたままケビンと話をしていたのだ。

 ケビンから見ると、きっちりとしたフォーマルなドレスの胸元から、エルミニアの豊かな片乳がはみ出している状態だった。


 愛する妻の美しいドレス姿と、そこから見える豊かで形の良い片乳。

 どうやらその光景はケビンの琴線に触れたらしく、鼻息を荒くしながら彼はそれをガン見していた。



 それに気付いたエルミニアが慌てて胸を隠したが、時すでに遅く、彼は声を上擦らせながら口を開いた。


「エ、エル……えぇと、そのぅ…… こ、今夜は…… いや、でも出産したばかりだし……しかし……」


 遠慮がちに言葉を選び始めるケビンだったが、彼女には彼の言わんとしていることがすぐにわかった。

 そんな彼が自分を気遣ってくれているとわかったエルミニアは、満面の笑みを浮かべながら声をかける。


「大丈夫ですよ。出産してからもう一ヵ月経ちましたから。 ――お医者様からはお許しが出ていますので」


「えっ!! そ、それじゃあ、もう……」


「うふふ……今夜は乳母にクリスティアンのお世話をお任せましょう」


「わ、わかった。そ、それじゃあすぐに湯浴みをしてくる!! 夕食を食べたら久しぶりに――」


「はい。お待ちしております。ふふふ……私は逃げませんから、ゆっくりとお湯にお浸かり下さいな」


「だ、大丈夫だよ。全然疲れてなんかいないから!!」


「ふふふ……ご無理はなさらないでくださいね」


 そう言いながら笑うエルミニアは、何処か小悪魔のように見えた。

 


 期待に胸を躍らせながらいそいそと浴室に向かうケビンと、夫の背中に流し目を送るエルミニア。

 そんな若い二人を見ていると、生まれたばかりのクリスティアンにはすぐに弟か妹ができそうだった。

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