第63話 祖母と父と幼女の作戦

「何を言うのです? 実態はどうであれ、端からエメラルダさんはあなたの妻ではありませんでしょう? そもそもわたくしたちはそんな許可など出した覚えはありませんよ」


「えっ……」


「こ、これっ、イサベル。やめないか」


「そんな妻でもない者を、この家に置いてなどおけません。 ――エメラルダさん、聡明なあなたならご自身の立場はおわかりでしょう? 今すぐにとは言いませんが、旅の疲れが癒えたならすぐにでもご実家に戻られるのがよろしいかと思いますが、いかが?」


「は、母上!! それではあまりにも――」


 あまりに慈悲のない母親の言葉に、さすがのフェルも大声を出してしまう。

 その横では顔面を蒼白にしてエメが震えており、このまま放っておけば消えてしまいそうなほどその姿は小さく見えた。


 しかし息子の大声にもイサベルはまったく動じることはなく、まるで聞き分けのない子供を見るような目つきで見つめてくるだけだ。

 その姿は、まるで人の話を聞き入れそうには見えなかった。



「だまらっしゃい!! あなたは何もわかっていないのです!! 親の決めた婚約者を捨てて好いた女子おなごと逃げていく。そして数年後に戻ってくれば簡単に許されようとする。 ――周囲の事情などまるで顧みることなく好き勝手にしておきながら、そんな道理など通るわけがありませんでしょう!!」


「イ、イサベル……」


「あなたがしたことは、貴族の結婚制度に対する侮辱なのですよ!! 市井の者たちでもあるまいし、こんなことが簡単に許されるわけがないのです!!」


「は、母上、しかし……」


「確かにあなたはわたくしたちの息子です。それは間違いありません。そしてこの子――リタもレンテリアの血を引いているのは確かでしょう。なにより、この『レンテリアの瞳』がそれを証明しているのですから。 ――しかしエメラルダさんは違うのです。彼女はわたくしたちの家族ではないのですから、当然ここにはいられません。最早もはやご実家にお帰り頂くしかないのです」


「そ、そんな……」


 ただでさえ顔を青くさせていたエメなのに、イサベルの言葉にとどめを刺された彼女は最早もはや死人のようになっていた。

 その唇と瞼は震え、言葉さえ満足に口から出てこない。

 この宴でも殆ど食事が喉を通っていなかったエメは、ここで完全に食事をやめていた。



「母上!! それではあまりに酷すぎる!! 仮にも彼女はリタの母親なのですよ!! それを無理やり引き離すなど、到底私には理解できません!!」


「――仕方のないことなのです。これは既にラローチャ家とも話がついていることなのですから」


「えっ!? 私の家と……?」


「えぇ。詳しくはご両親から直接お聞きなさい。 ――ご実家に帰られてからね」



 その言葉を聞いたエメは遂にその身を支えられなくなり、その場でへなへなと食事の上に突っ伏してしまいそうになる。

 それを慌てて支えながら、フェルは尚も言い募った。


「彼女の両親がなんと言ったかは知りませんが、とにかくリタには母親が必要なのです。この子は生まれてからずっと母親と一緒だったのですよ。私や兄のように、夕食時にしか母親に会えなかったのとはわけが違うのです!!」


 歓迎の宴だと言っておきながら、先ほどから大人たちの怒号が飛び交っている。

 リタはその様子を食事の手を休めずに眺めていた。

 思い切り頬張った子鹿のソテーを飲み込もうと、モッチャモッチャと口を動かすその姿は、まるでハムスターのようだった。



 おぉ、やっとるのぉ。

 いつも理知的で落ち着いたフェルが、感情的な声を上げるなんて珍しい。

 つまりそれだけ必死ということか。

 下手をすれば、この場で言いくるめられてしまうかもしれないな。


 ――それにしても、これではせっかくの美味いメシが不味くなってしまうではないか。

 うむぅ……果たしてどうするべきか……



 目の前の喧騒を眺めながら、さてどうしたものかと冷静にリタが考えていると、ふと奥で控えている筆頭執事のエッケルハルトと目が合った。

 彼とても伯爵夫人のイサベルの言葉に思うところはあったのだろうが、この場はあくまでも家族だけの私的な場なのだ。

 如何に執事とは言え、それに口を出すことは憚られた。


 そんなエッケルハルトがリタと目が合うと、何気に合図のようなものを送ってくる。

 するとそれに気付いたリタがニヤリと笑うと、小さく頭を上下に振った。


 そして……泣いた。


「うえぇぇ……ぐしっ、ぐしゅっ……ととしゃまも、お婆しゃまも、喧嘩はよくないの……もうやめて……うえぇぇぇん」


 リタは思い切り息を吸い込むと、その場で泣き真似を始める。

 それはまさに迫真の演技としか言いようがなく、誰もそれがフェイクだとは思わなかった。

 ただ一人、筆頭執事を除いては。


 実はエッケルハルトとリタは、事前に打ち合わせをしていた。

 これから祖父母と両親の間で交わされるであろう話の内容を心配した彼は、噛み砕いて優しく説明してくれたのだ。

 そして少しでもリタが傷付かないようにと、気を廻してくれた。


 しかしそれに対し「なんじゃ。それしきのことで、わちが泣くわけないじょ。甘く見るでないわ」などと大仰に言い返したのだが。


 初めはその大人びた態度と口振りにエッケルハルトも驚いたのだが、両親の抱える問題を正確に把握していることを理解した彼は、それを生かすためにこっそりと作戦を練ったのだ。

 それがこの「嘘泣き作戦 Ver. 2.01」だった。


 そしてまさにその作戦が開始されたのだ。




「ふえぇぇぇん、かかしゃまを虐めないでぇ……」


 しくしくと、まるで消え入りそうに小さな声で泣くリタ。

 その憐れで幼気いたいけな姿は、ともすれば消え去ってしまいそうに儚げに見えた。

 するとその場の大人たちは、この場に幼児が同席していたことを今更ながらに思い出してしまう。


「あぁごめんね、ごめんねリタ。かか様はべつに虐められているわけじゃないのよ。だからお願い、泣かないで――」


 直前まで気を失いそうなほどに動転していたエメだったが、愛娘の泣く姿にハッと正気を取り戻すと慌ててなだめ始める。

 そして娘の細く弱々しい身体を強く抱きしめたのだった。



 しくしくと弱々しく泣き続ける幼女。

 その身体を抱きしめながら、優しくあやし続ける母親。


 輝くようなプラチナブロンドの髪のみならず、顔の造形までそっくりな二人が抱き合っていると、その姿は何処かの宗教絵画に描かれる女神と天使の抱擁にも見えた。

 

 全員がその姿を見つめていた。

 それは伯爵夫妻とフェルだけではなく、給仕係のメイドからホール係、果ては部屋付きの女中に至るまでの全員だった。

 特に中年のメイドに至っては、リタの姿に目頭を熱くする始末だ。


 確かにリタの両親は、貴族のルールを破って逃げ出した。

 とは言えそれは、リタ自身には全く関係のない話だ。

 どんな理由があったにせよ、彼女は望まれてこの世に生を受けただけであって、決して疎まれる存在ではないのだ。


 それなのに、当の本人の意思を無視して大人の事情だけで事を進めようとしている。

 リタ自身の意思を確認することもなく、生まれた時からずっと一緒だった母親を無理に引き離そうとしているのだ。

 この時、全員がそれに気付いたのだった。




 それはイサベルも同じだった。

 こんなに可愛らしい天使のような孫娘を、自分たちのエゴで泣かせてしまった。

 このままでは、全く罪のない彼女が一番の不利益を被ってしまう。

 目の前で静かに泣き続けるリタを見ているうちに、彼女はそれに気付いたのだ。


 するとイサベルは、何処か悲しそうにも見える表情で、それでも淡々と言葉を続けた。

 どうやら彼女は、この期に及んでも己の感情を表に出すことを良しとしていないようだった。


「思い出しました……これはあなた達の歓迎の宴でしたね。それを忘れてこのような話をしてしまったのはわたくしたちの失態です。 ――この通りお詫びいたします」


 そう言ってイサベルは、おもむろに背筋を伸ばして頭を下げる。

 その様子を見たセレスティノも、慌てて立ち上がると同じように身体を折った。

 それは家族であるフェルやリタと同時に、エメにも向けられたものだった。


「い、いえ、そんな……伯爵さま、奥様、お願いです。そ、そのようなことをなさらないで下さい……」



 上位貴族である伯爵夫妻にいきなり頭を下げられたエメは、そのあまりの姿に恐れ慄いてしまう。

 彼女とて子爵令嬢なのだから、小さな時からずっと貴族の礼儀作法は叩きこまれていた。

 しかし、その中には上位貴族に頭を下げられた際の対応方法などはなかったのだ。

 だから彼女は、頭を下げ続ける伯爵夫妻にかける言葉が見当たらずに、ただひたすら慌てふためいていた。


 しかしそんな妻の前にフェルが立つと、両親に頭を上げるように促した。

 するとその後ろで、エメは小さく安堵の溜息を吐いていた。


「父上、母上、お願いですからおやめ下さい。この場で大声を出したのは私も同じなのですから」


「あぁ、フェルディナンド……とりあえず今夜はここでお開きにしよう。さっきはイサベルがあんなことを言ってしまったが、気にせず二、三日ゆっくりするといい。 ――皆、長旅で疲れたろう。お前とリタはもちろんだが、エメラルダさんも客人だと思って自由にしてほしい」

 

 まるでふとこの場の主人が自分であることを思い出したかのように、セレスティノはこの場を締めようとする。

 先ほどからずっと妻に主導権を握られていた彼だったが、ここに来てそれを取り戻したようだ。


 一方的に息子たちに対してきつく当たる妻に対して、彼は彼なりに何か思うところがあったのかもしれない。

 それにしては妻を見つめる目つきは変わらず優しく、そして物腰も柔らかいままだったが。



「あなた……」


「いいじゃないか、イサベル。こんな大切なことを、帰って来たその日に決めなくてもいいだろう。それに先ほど入った早馬では、明日の夕方にはラローチャ子爵ご夫婦も到着すると言っていたしな」


「えっ…… 父上と母上が……?」


 その言葉に、エメの瞳が大きく見開かれる。

 何故なら、ラローチャ子爵夫妻とは誰あろうエメの両親だからだ。

 そしてセレスティノによれば、彼らは馬車を飛ばしてこちらへ向かっている、いままさに最中らしい。



「ラローチャ子爵夫妻が? どうして――」


 思わぬ夫の言葉に、イサベルも小さく呟いてしまう。

 するとそれを耳聡く聞きつけた筆頭執事のエッケルハルトが、その答えを述べた。


「大変差し出がましいとは思いましたが、子爵家へは私が早馬を出しました。あれだけ行方を捜していたお嬢様が見つかったのです。それは是が非でも教えて差し上げるべきだと判断いたしました。 ――もしもご希望に沿わなかったのであれば、お詫び申し上げます」


「……いいえ、あなたの言う通りです。娘の無事はすぐに知らせるべきでしょう。あなたの判断は適切でしたので、謝罪には及びません」


 その言葉に柔らかく微笑むと、エッケルハルトは再び控えに戻った。

 するとその姿を確認するように、セレスティノが口を開く。


「それでは、私たちはこの辺で失礼させていただこう。 ――どうやらリタはまだ食べ足りなさそうだ。この後も親子三人でゆっくりと食事を楽しみなさい」



 優しい微笑みを湛えながらそう言うと、セレスティノは夫人の腕に手を廻す。

 そしてまだ何か言いたそうにしている夫人の身体を引っ張ると、そのまま部屋から出て行ってしまったのだった。


 食事会では終始イサベルに主導権を握られて、あまつさえそれを良しとしているようにも見えたセレスティノだったが、その姿からはこの屋敷の主人としての貫禄が垣間見えた。



 そんな二人が消えて行ったドアを見つめながら、フェルとエメは小さな溜息を吐いた。

 そしてその横では、すっかり食欲を取り戻したリタが、再びモッチャモッチャと頬をハムスターのようにしていたのだった。

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