第9話 幼女と魔獣
「すごいじょ……これはたいりょうじゃ。今夜はごちそうじゃの」
持ち切れないほどのワラビとゼンマイを両手に抱えるリタ。
そんな彼女が喜びのあまり小躍りしていると、その後ろでは三人の幼児が泣きそうな顔をしていた。
彼らは皆べそをかいた顔で、一人楽しそうなリタを見つめていたのだ。
「ねぇリタ……あなた、帰り道はわかっているの?」
その中でも一番酷い顔をしているビビアナが、縋るような目つきでリタに訊いてくる。
その質問にリタはこれ以上ないほどに簡潔に答えた。
「しらん」
「えぇ――?」
「し、知らないって…… それじゃあどうしてこんな山の中に入って来たんだよ。どうやって帰るつもりなんだ?」
あまりにも救いのなさすぎるリタの答えに、思わずカンデが訊き返してしまう。
その口調は
これだけ迷いなく山の中を進んでいたのだから、当然リタは帰り道を知っているのだろうと彼は思っていたらしい。
しかしそれが本当に単なる思い込みでしかなかったことに気付くと、カンデはがっくりと肩を落としてしまう。
その姿を、リタが不思議そうな顔で見ていた。
「うむ……なぜ、わちが知っちょろう? わちが知っちょるわけなかろうもん」
「そ、それじゃあどうやって帰るつもりだったのさ?」
リタのあまりの言いように、普段おとなしいシーロまでも責めるような口調で口を挟む。
「なんぞ、お
そもそもどうして自分が責められているのかもわからずに、リタは怪訝な顔で首を傾げている。
その顔には本当にわけがわからないといった表情が浮かんでいた。
もとよりそんなことで責められる憶えもなければ、自分に責任があるとも思っていない彼女は、憮然とした顔でむっつりと口を閉ざしてしまう。
いい歳をした212歳の大人が、幼児相手に本気でヘソを曲げていた。
なんという大人げない態度なのかと思ってしまうが、そんな簡単なことにも思いが至らないほど彼女は精神が幼児化しているようだった。
「なぁに、なんとか、なるじゃろう。森のことなら、ピクシーにきけば、ええんじゃよ」
「ピクシー?」
「……なんじゃ、ピクシーを知らんのか? しょれはしょれはかわいらしい、森のようせいでな――」
何やら得意げにリタが語ろうとしていると、突然背後の木々からバサバサと鳥が逃げる音が聞こえてくる。
それに怯えた子供たちがキョロキョロ周りを見回していると、少し離れたところの木が突然倒れて目の前に落ちてきた。
その光景に三人が飛び上がるように逃げ出すと、倒れた木の向こうから大きな影が現れたのだった。
「グルルルゥ――!!」
それはとても大きかった。
恐らく体長はカンデの三倍近くはあるだろうか。
大型の熊のような毛むくじゃらの身体の上にフクロウのような大きな顔が乗っている。
辺りに響くような低い唸り声を上げながら、
その口からは絶えず警戒するような唸り声が漏れている。
「オ、オウルベア……」
「オウルベア!? あ、あれが……? や、やばいよ、逃げないと……」
カンデはその生き物を知っているらしく、顔を真っ青にしたままぽつりと呟く。
そしてそれに呼応するかのようにビビアナが声を上げると、その顔は怯えの色で染まっていた。
「
そんな彼女の様子を呆けたように眺めながら、リタが事も無げに言い放つ。
思わず足がすくむような唸り声を上げるオウルベアを目の前にして、彼女は本気でなんとも思っていないように見えた。
その証拠に、その顔には全く恐れが見えなかったのだ。
こちらを睨みつける大きな獣。
それから目を離すことができないまま、幼児三人はガタガタと全身を震わせている。
恐怖のあまり脚も竦んでしまい、ひたすら互いに抱き合うように身を寄せて震えるばかりだ。
どんなに力を込めても竦んだ脚は全く動かない。
低い唸り声をあげて近づいてくる獣を目の前にして、
「オウルベア」は熊に酷似したがっしりとした身体にフクロウのような頭を乗せた中型の魔獣だ。
焦げ茶色の体毛に覆われたその身体はずんぐりとして、鋭い爪が飛び出した腕は子供の胴体よりも太い。
彼らは一応魔獣に分類される生き物だが、ひたすら凶暴である点を除くと他の肉食動物、特に熊などとそう大きな違いはない。
魔獣という名が示す通りその出自は一般的な野生動物とは異なってはいるが、極端に劣った知能のために魔法を使ったりすることもなく、その凶暴性と腕力だけが厄介な生き物だった。
彼らは縄張りに他生物が入り込むのを極端に嫌う性質があるので、彼が襲って来たのは、今回リタたちが不用意にそこに足を踏み入れたのが原因なのだろう。
目の前の個体はオウルベアとしては平均的な大きさらしく、体長は二メートル半ば、体重は凡そ700キロといったところだろうか。
どっしりと重そうな身体のみならず、その太い腕と鋭い爪は、もしも一撃を食らわせられれば決して無事では済まないだろうと思わせるものだった。
4、5歳の幼児が突然山の中でこんな生き物に遭遇した時点ですでに詰んでいるようなものだが、さらに悪いことに、それは冬眠から覚めたばかりでとても腹を空かせていた。
しかもオウルベアはつがいで行動することが多いので、一頭を見つけたら近くにもう一頭いると言われているのだ。
「グルルルル……」
大きな牙の間から涎を垂らしながら、大柄な熊のような魔獣がにじり寄ってくる。
その視線は三人の幼児に注がれており、それを見る限り、どう考えてもこの先穏便に済むとは思えなかった。
彼らの距離は
オウルベアが本気を出せば一秒で縮む距離だ。
「リ、リタ……な、何言ってるんだよ……は、早く逃げないと……」
既に口まで震えが走るカンデは、その言葉をまともに最後まで言い切ることができない。
「早く逃げないと……食べられちゃうよ――」
恐怖のあまりシーロが口走ると、その言葉を聞いたビビアナが突然大声を上げた。
恐らく彼女は我慢の限界だったのだろう。
「いやぁー、助けてぇー!! 食べられるのはいやぁ!! 誰かぁー!!」
パニックを起こしたビビアナは、それまで抱き着いていた男児二人の身体を放すと、山の奥へ向かって突然走り始める。
するとそれを合図にしたように、走るビビアナに向かってオウルベアが突進していった。
必死に走るビビアナではあったが、四歳児の足の速さなどたかが知れているし、下生えの生い茂る山の中では思うようにスピードが出なかった。
いくら彼女が必死で逃げようとしても、あっと言う間にその距離は詰められてしまう。
「あぁっ!! ビビアナ!!」
「ビビアナ!! あぶない!!」
「グオオァァ!!」
「きゃー!!」
瞬く間にビビアナとの距離を詰めたオウルベアは、その勢いのまま彼女に襲いかかる。
その姿を見ていた男児二人には、背を向けて必死に走る小さな背中に鋭い爪が振り下ろされるのが見えた。
しかしとても見ていられなかった彼らは、思わず目を瞑ってしまう。
ビビアナの悲鳴を聞きたくなかったカンデとシーロが、震える両手で必死に耳を塞ごうとする。
すると次の瞬間、突然大きな音が聞こえてきた。
ドゴンッ!!
ズザザザァァ!!
バキバキバキッ!!
それは離れたところに立っていた男児二人が地響きを感じるほどの凄まじい衝撃だった。
しかし聞こえてきたのは何かが倒れる大きな音だけだ。
そして予想に反してビビアナの悲鳴は聞こえてはこなかった。
それでも固く瞑った目を暫く開けられなかった二人だが、いつまで経っても静寂が続いたままなので、仕方なく目を開く。
するとそこには驚くべき光景が広がっていたのだった。
オウルベアは地面に倒れていた。
恐らく走っている最中に倒れたのだろう、その巨体が倒れた勢いで何本もの木が折れていた。
そしてぐったりとしたその巨体の横に小さなリタが佇んでいるのが見える。
ビビアナは地面にうつ伏せになって倒れており、どうやら怪我はしていないようだ。
「ふむぅ、やはりこの身体では、これが限界かのぅ……」
足元に倒れるオウルベアの巨体を見下ろしながら、リタが一人でぶつぶつと呟いている。
そして魔物の毛深い身体を時々しげしげと眺めながら棒のような物で何度も突いていた。
気付けばどうしてオウルベアがリタの足元に倒れているのか、彼らにはさっぱりわからなかった。
もとよりそれが地面に倒れるところを見ていなかった彼らには、一体何が起こったのかさえわかっていなかったからだ。
しかし目の前の落ち着き払ったリタを見ていると、彼女が何かをしたのは間違いなかった。
驚きのあまり両目を見開いたままのカンデとシーロに気付くと、リタは
「カンデよ、少しきいてもよいかのぅ? この魔物はたべられりゅのか?」
「えっ? た、食べる……?」
「そうじゃ。たべられりゅのかと、きいておろう」
「い、いや、普通は食べないんじゃないかな…… あんまり美味しそうに見えないし……」
なにやら変な汗をかきながら、カンデが口を開く。
彼の知る限りではオウルベアを食べた話は聞いた事がなかったし、美味しいかどうかさえわからなかった。
そもそも中型魔獣に分類されるこんな凶暴なオウルベアを、食べるために捕獲するなど聞いたことがなかったのだ。
「なんじゃ、たべたこと、ないのか?」
「た、食べるわけないだろ、こんなの……」
二人の話を聞いていたシーロも横から口を挟んで来る。
彼もオウルベアを食べた話など聞いた事もなかった。
しかし一つだけリタが興味を示しそうな話を知っていた。
「オウルベアは卵を産むんだ。その卵はとても大きくて、食べると美味しいらしいよ……」
その言葉を聞いたリタの眉がキュッと上がり、その透き通るような灰色の瞳が怪しく光る。
「ほほぅ、しょれはいいことを聞いた。それじゃあ近くに巣があるんじゃろう、一緒に探すじょ」
「えっ……?」
食べられないと聞いた途端興味を失くしたのか、足元に倒れるオウルベアには一切目もくれずにリタはさっさと歩き出していた。
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