第4話 無意識の行動

 リタが死の淵から蘇って既に十五日が過ぎた。

 

 以前から見当をつけていた通り、リタの病巣はやはり脳にあったらしい。

 詳しいことはわからないが、どうやら脳に腫瘍らしきものがあり、それが日増しに大きくなって脳を圧迫していたようだ。


 その後も何度か治癒魔法を唱えているうちに、すっかり体の調子も良くなって脚の痺れも取れてきた。

 すると絶えず悩まされていた頭痛や吐き気、眩暈から解放されたリタは食欲も旺盛になり、両親を驚かせていたのだ。


「まぁ。すっかり食欲も戻ったようね。と言うよりも、今までこんなにご飯をもりもり食べたこともなかったけれど。でも元気なのは良いことだわ。さぁ、お腹いっぱい召し上がれ」 

 

「あいっ」



 だいぶ体力が回復したとは言え、長年に渡る寝たきり生活で全身の筋肉はすっかり落ちていた。

 それが原因で、未だにリタは一人で立ち上がることさえできない。

 仕方なくおむつを着けて寝ているのだが、それがどうにも耐えられなかった。


 二百歳を超えてなお現役を続けていたリタ――アニエスには、いまの状態が非常に屈辱的だった。

 体の自由が利かなくなった老人が、おむつを着けて寝かされる。

 そんな姿を多く見てきた彼女は、遂に自分もそうなったような気がしたからだ。


 もっともおむつの取れない三歳児が普通にいることを考えれば、今の状況は特におかしなことではなかったが、それでもそれは彼女のプライドをへし折るには十分だった。


 とにかく今は、一人でトイレに行けるようになるのが目標だ。

 その他にも味気ない粗末な食事や、村の中でも最底辺に位置するであろう貧しい生活など解決すべき問題は山積みだが、とりあえずそれらは先送りすることにする。

 とにかくこれ以上、おむつの中に用を足すのは勘弁させてほしかった。




 

「かぁか」


「なぁに? リタ」


 夏が過ぎ秋の気配が感じられる頃になると、少しずつリタは言葉を発することが出来るようになっていた。

 それでもまだ短い単語のみで、会話にはなっていなかったのだが。

 死の淵より目を覚ましてからすでに二ヵ月が経過しており、ベッドから下りて必死に訓練をした成果もあって、壁に掴まればゆっくりと歩けるようにもなった。


 今もまた彼女は壁伝いにゆっくりと家の中を歩き回っているところで、その様子を母親のエメが微笑みながら見ている。

 彼女は娘が倒れないようにそっと手を差し伸べながら、歩く練習の手伝いをしていた。


「そうそう、上手ね。今度はこっちに向かって歩いてみましょうか?」


「あーい」


 時々躓きそうになりながら、それでも懸命に歩く練習をする娘の姿を見つめながら、エメはぼんやりと思い出していた。




 リタはこの家で生まれた。

 自分達にとって初めての子供であるうえに、難産の末にやっと産み落とされた彼女は、まるで宝物のようだった。

 

 なにより愛する夫との愛の結晶なのだ。

 その愛おしさは言葉では言い表せられないほどで、エメは自分の胸に夢中で吸い付く娘を抱きしめながら何度も神に感謝したものだった。


 しかし一歳を過ぎてもリタは立ち上がることもできず、言葉を発することもなかった。

 初めは単なる個人差なのかと思ったが、あまりに成長が遅いのが心配になった両親は、一度街の医者に診せに行ったことがあった。


 しかし医者にも原因はわからないと言われた挙句に、彼らの二週間分の生活費に相当する診察代を請求されるに至ると、それ以降医者に頼るのをやめたのだ。


 リタはその後、度々痙攣ひきつけの発作のようなものを起こすようになった。

 しかし原因がわからず治療の手立てもなかった両親は、娘をただベッドに寝かせるしかなく、結局二か月前の発作を最後に、彼女は命を落としたのだった。



 突然意識を失ったり発作を起こし始めたリタ。

 そんな姿を見ていた時から既に覚悟はしていたが、いざ目の前で最愛の娘に先立たれた時の絶望感と悲しみは今でも思い出したくはない。


 それが突然奇跡のような甦りを果したかと思えば、今では必死になって歩く練習をしている。

 一生懸命なあの姿を見ていると、リタはいずれ近いうちに言葉を発することもできるようになるだろう。


 しかしそんな彼女に、自分は母親として何もしてあげられていない。

 せっかく普通に食事ができるようになったのだから、もっと美味しいものを食べさせてあげたい。

 しかし我が家の苦しい家計ではこれ以上の食事を出すことはできないのだ。



 夫は一生懸命頑張ってくれている。

 慣れない畑仕事にも精を出しているし、それ以外にも荷運びの仕事や村の手伝いなどで日銭も稼いでいる。

 しかしこの村の新参者である自分達に手を差し伸べてくれる者は少なく、生まれてからずっと寝たきりだったリタには今でも友達の一人もいなかった。


 今では田舎でこんな生活をしているが、もともと彼は――

 いや、やめておこう。


 いまここで愚痴をこぼしたところでなんの意味もない。

 これまでも何度もこの話はしたではないか。


 お互いに実家に頼れないのは十分わかっているはずだ。





 ――――





 季節は冬になった。

 雪が降り積もり畑仕事もできなくなったので、毎食の野菜スープの具材が目に見えて減っていた。

 最早もはやスープとも言えなくなったそれを両親は何も言わずに食べているが、リタにとってはもっと切実だった。


 リハビリの成果が現れてやっと最近一人で立って歩けるようになったが、思うように体重が増えないことに焦りを感じていたのだ。

 このままでは、ケビンが自分を見つけ出してくれる前に栄養失調になりそうだ。


 生まれた時から患っていた持病はどうやら完治したらしい。

 それは度重なる治癒魔法のおかげだろう。

 しかし毎度の食事が粗末すぎて、小さな三歳児の身体にさえ満足に栄養が行き渡らない。

 それは両親もわかっていて何とかしようとしているが、未だ根本的な解決には至っていなかった。


 

 育ち盛りの三歳児に必要なものは肉だ。

 野菜ばかりのスープを飲んでいても体重が増え無いどころか、病み上がりの身体の肥立ちが悪すぎる。

 事実このリタの身体は平均的な三歳女児と比べると一回りは小さいだろうし、長年の闘病生活のせいで痩せてがりがりだ。

 

 両親を観察していると、最初はただの農民なのかと思っていたがその立ち居振る舞いや佇まいに何処か気品を感じさせた。

 そしてただの農夫には不似合いなほどに教養もある。

 痩せて薄汚れ、疲れ切ってはいるが、二人とも生粋の農民には見えなかった。




 そんな焦りを感じつつも何もできない毎日を過ごしていたある日、リタがぼんやりと窓から外を見ていると一羽のうさぎを見つけた。

 それは一面雪に覆われた裏庭をぴょんぴょんと跳ねており、何か食べるものを探しているようだった。

 その姿を見つけたリタの灰色の瞳がキラリと光る。


「う、うまそう……」


 普通は三歳女児がうさぎを見て思うのは「かわいい」なのだろうが、今の彼女はとにかく食べることしか考えていなかった。

 とにかくこの身を太らせることしか考えていなかったのだ。

 しかし両親に教えたところで捕まえられるとも思えなかったリタは、自力で何とかしようと思った。


 『えいっ!!』

 

 彼女は窓からそっと指を差し出すと、遠く離れたうさぎに向かって魔法の矢を放ったのだった。



 その日の夕食は豪勢だった。

 いつもの堅パンは同じだったが、野菜スープの中には肉がたっぷりと入り、また火で炙った肉も食卓に上がったのだ。

 

 裏庭でうさぎが死んでいた。

 その偶然を神の恵みだと思った両親は、食事の前に天を仰いで祈りを捧げ始める。   

 その姿を尻目に、痩せこけた三歳児はガツガツと必死に肉を頬張っていた。



 


 リタには最近思うことがある。

 今ではすっかり三歳女児のリタとして両親の庇護のもとに育てられているが、実際にはその中身は212歳の老婆なのだ。

 もちろん今の状況で両親にバレるわけにはいかないので、意図的にリタを演じている。

 しかし気付けば無意識に三歳児として振舞うことが多くなっていた。


 そもそも四六時中自分の精神年齢や人格を意識し続けているわけにもいかないので、しばしば無意識に行動することも多い。

 そんな時の自分は、まるで本物の幼児のような思考、行動をとっていることに気が付いたのだ。


 今朝もエメの胸に顔を埋めて甘えていたが、それはおよそ212歳の人間がとる行動ではないし、もちろんそれは意図的にとった行動でもなかった。

 それはまさに幼児が母親に甘える姿以外の何ものでもなかったのだ。



 もしかしてこれは自分の精神が肉体に影響を受けているのではないだろうか。

 つまり、三歳児の脳の中に流れ込んだ212歳の精神が、その依代よりしろとも言える幼い肉体の影響を受けているとしか思えなかった。


 母親に抱きついた今朝の行動もそうだが、まさに三歳児としか思えないような行動を無意識にとる自分に何度も気付く。

 しかしそう考えるとまるで自分とは思えない幼児的な行動に説明がつくのだ。

 

 しかしそれは不味いのではないだろうか。

 このまま放置していると、この老成した精神が次第に退行していき、最後は三歳児と同等になってしまうのではないか。


 

 すっかり元気になった自分の姿を愛おしそうに見つめる両親。

 彼らの姿を眺めながら、リタは漠然とした不安に襲われていたのだった。

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