紅楼の紗羅紗

渡来亜輝彦

お茶の香りと春の夢


 その日は良い天気で、窓の外の暖かで穏やかな空気が心地よかった。

 窓を開けると少し寒かったけれど、良い空気が流れ込んでくる。ちょっと背伸びして見下ろすと窓の下に何人かひとがぽつんぽつんと歩いているのが見えた。


 ここは、紅楼。

 王都にある妓楼の中でも、老舗の一つだ。

 私はそこの”乙女”である夢の夕映えにお仕えしている。


 

 お花を飾っていると、おねえさまがやってきた。おねえさまの好みで壁に掛けてある玉すだれが、彼女が部屋に入ってくるとしゃらしゃらした音を立てる。なんだか綺麗で好きだった。

「シャシャ、今日はお休みの日よ。そんなにお花を飾らなくても大丈夫。こっちで一緒に休みましょう?」

 夕映えのねえさま。”夢の夕映え”は、この紅楼の"乙女"だ。


 乙女というのは、星の女神様の神殿から派遣されてきた特殊な妓女達で、王都の高級な妓楼に一人はいる。彼女たちは、他の遊び女達とは違って、必ずしも春を売るわけではない。だから芸事に秀でていることが多かった。

 彼女達は妓女であり、そして女神の巫女でもある。誰しも乙女になれるわけではなくて、素質があるとして売られてきた娘の中から、健康的で器量がよく見目麗しいのは当然として、神殿で施される高度な教育にもついていけるような人だけが選ばれる。

 いわば彼女達は、選ばれし者だった。

 そんな乙女の一人、夢の夕映えねえさまに私がお仕えしているのは、下働きの中から、彼女がわたしをえらんでくれたからだ。

 乙女だけでなくて妓女もだけれど、彼女達は自分の小間使いを雇う風習がある。

 夕映えのねえさまは、おっとりしていて心優しく、それに頭もいい。彼女がとりたてて取り柄もない私を選んでくれたのは不思議だけれど、私はとても彼女に感謝している。

「今日はお茶がいいわねえ。この間、お客様にいただいたお菓子もあるから出しちゃいましょう」


 新年もあけてしばらくしたころ。

 お正月の間は、楼閣は忙しい。

 夕映えのおねえさまは、歌の上手な乙女で、年始なんかはお祝い事で、それこそ休みなくあちらこちらに呼ばれる。喉が枯れてしまうとお商売にならないので、濡れた布巾を吊るしてみたり、蜂蜜の飲み物を用意したり、私も結構忙しかった。

 そんな中、今日はようやくのお休み。妓楼のなかに遅いお正月のゆったりとした時間が流れていた。


 部屋の中を湯気がやんわり立ち昇る。それを眺めつつ、夕映えのねえさまは優雅にお茶を入れる。ガラスのグラスに、最初は濃いお茶、それからお湯。

 茶葉の香りがゆるゆると部屋の中に漂った。

「このお茶、使ってみたかったのよね」

「貰い物ですか」

「うふふ、そうなの。でも、これはちょっと特別よ」

 はい、召し上がれ。

 普段は給仕する側だけど、こういうときはおねえさまがもてなしてくれる。

 礼を言って受け取る。そして、ちょっと熱かったのでふーふーとふいたあと、そっと一口いただく。

 とても良い風味がふわっと広がって、体が温かくなった。

「このお茶美味しいですね」

 ちょっとほっとして、私はそう言った。

「お店でいただくのより、美味しいです」

「そりゃあ美味しいわ。なんたって、茶葉が違うのよ」

 ふふふ、とおねえさまが笑う。

「いただいた茶葉をいくつか配合してみたの。元々がおいしくて香のいいお茶だからおいしいんだけれど、さらに私がちょっと手を加えたのよ。ここ最近じゃ一番いい出来ねえ」

「おねえさまがですか? 凄いですね」

「私はそんなにすごくないわ。もとのを作った子の方が凄いの。その子に聞いて一番良いのを模索していたのよね。その子も、乙女仲間なのよ?」

 小首を傾げるようにして彼女は言う。

「乙女は薬にも詳しくないとダメなんだけど、その子はとくにこう言うのが好きでね。踊りのとても上手な子なんだけど、本人は踊るよりもこっちの方が好きなんですって」

「乙女って凄いんですね」

 しみじみと言うと、夕映えのねえさまは首を振った。

「そうでもないわよ。乙女なんかより、ほかの子達のが、きっといろんなことに大変だもの。そりゃあ、乙女はなるのは大変だし、お勉強も大変だけど、それでも、まだしも希望はある方なの。お客様を無理に迎えなくてもいいんだしね」

 彼女はそういうと、小首をかしげるようにしていった。

「シャシャは、私がどうして乙女になったんだと思うの?」

 そういわれて、私は返答に困ってしまった。

 確かに、何故、おねえさまが乙女になったのかはわからなかった。


 こういう場所だから、みんながみんな、出自は訳ありで、だからあまり過去を詮索することは少ない。

 私と同じく、乙女といっても、彼女たちも女衒に売られてきた娘なのだ。娼館が買い取った中で素質のある娘が選ばれるわけで、そして彼女達が神殿に派遣され、教育されてから戻ってくる。とはいえ、元々ある程度"上玉"なわけで、女衒達がある程度将来性を見繕って妓楼と神殿に照会をかけていることが多いのだとか。

 途中でついていけなくなって、神殿から出るものもいるけれど、神殿帰りの妓女は高級な妓女になりやすいというから、とりあえず神殿にいけて”乙女候補生”となってしまえば、まだしも将来は明るい。場末の娼館に売られて悲惨な生活をする可能性はうんと少なくなるのだ。

 私みたいな娘は大体は女衒ぜげんに売られてくるのが普通。おねえさまも普通ならきっと同じなんだろう。でも、いかにも上品でお嬢様然とした夕映えのおねえさまが女衒に売られてこんなところにいるのは、なんだか場違いな気がして、なんとなく不自然な気はしていた。

「あのねえ、シャシャ」

 と夕映えのねえさまは微笑んでいった。

「私の家は元々貴族だったの。私、ほら、家事なんかあまりできないでしょう? それは、昔、貴族のお嬢様だったからよ。おかげで神殿でもここでもそこそこ苦労はしたから、貴族の生まれって楽じゃないわあ」

 冗談めかしておねえさまはそう語り始めた。

「貴族って一見華やかでしょ。でも、この国なんてもう何十年も落ち着いていなくって……。王様だってあっという間に部下に殺されちゃうような時代。そんな中だもの、貴族だなんだって言っても、何かの理由をつけられて、あっという間に没落しちゃう世の中なの。貴族の体面を保つための借金だってするわ」

夕映えのねえさまはそういうと、ふとため息をついた。

「私の家もそうだったの。幼い時は、とっても幸せな家庭でね。でも、そんなことがあって家族はバラバラになってしまった。貴族ってね、見栄っ張りだから、お金がなくなっても生活水準を落とせなくてねえ、だから、借金を重ねちゃってて。それで、限界まで来てしまって、とうとう、私を売るしか方法がなくなったのよね」

 そういって、彼女はやや目線をさげる。

 聞いてはいけない話なのかと、私が彼女の顔を覗き込むと、ねえさまは顔を上げてにっこりとした。

「でもね、シャシャ、これは悪いだけの話ではないのよ。私の両親が私を売ったのは、それがその時にできる最善の方法だったからだと思うの」

「最善の方法、ですか?」

私が売られたのは、多分最善の方法なんかではなかったから、私は思わず目を瞬かせた。

「そうよ。シャシャもわかってるけど、女衒に売られるって未来はそんなに明るくないことなの。場末の娼館に売り飛ばされて、病気になって長生きできない子もいるし、幸せになれるとは限らない。乙女の候補生として選ばれても、それは同じことよ。お稽古も厳しいし、お勉強も大変。でも、機会は与えられる」

「機会?」

「そう、例え途中で落ちこぼれても神殿までいけたなら、高級妓楼の妓女や神殿の神官のどちらかには大体なれるわ。高級妓楼の妓女なら、貴族や上級武官、お役人様や商家のご主人なんかの目に留まることがあるの。これが乙女となればどうかしら。乙女を落籍するためには、それ相応のお金を積まないといけないし、おのずと身分も決まってくるわ。それに、乙女を落籍する為にはまずもって生半可な妾の待遇では許されないの。大抵正妻としての地位が約束されるわ。 それに、乙女には、この国でも最高級の教育の機会が与えられる。私が貴族の娘として育てられていた時に受けられたものよりもずっと高度な教育なのよ」

 夕映えのねえさまは、そういって頷いた。

「私の両親はね、シャシャ。可能性にかけたの。このまま、落ちぶれてみんなで路頭に迷ってのたれ死ぬより、いつか私が貴族の妻に迎えられて、返り咲くことができることを願って……。私が一番幸せになれる可能性のある方法は、その方法しかなかったんだと思うわ」

夕映えのねえさまは、私の頭をそっと撫でた。

「だから、私はね、おとうさまやおかあさまを恨んだりしていないのよ。私はとっても運が良く乙女になれた。まだそんなお相手は現れないし、自由に外にも出られないけれど、それなりに幸せよ。とても恵まれているわ」

「でも……」

 といいかけた私の頭を夕映えのおねえさまが撫でた。

「それに、シャシャみたいな可愛い子がそばについてくれるんだもの。こんなに恵まれたことはないわ」

「え?」

 思わぬことをいわれた。思わず私はかあっと顔が赤くなる。私が言葉を失っていると、おねえさまのほうはあらあらと声を上げた。

「お話が長引いてお茶が冷めてしまったわね。もう一杯入れなおしましょうか」

 おっとりとそんなことをいいながら、茶器をさわるおねえさまに慌てて私は声をかけた。

「あ、あのっ」

「どうしたの?」

 突然、改まった私に驚いたように、夕映えのおねえさまはおっとりと私の顔を覗き込んだ。

「あの、私も、お姉様におつかえできて、とても嬉しいです。めぐまれています」

 夕映えのねえさまは、思わず目を瞬かせてきょとんとしたあと、意味を理解したらしくにっこりとほほえんだ。

「うふふ、そうでもないわよ。だって、私、言った通りの貴族あがりで、ろくに身の回りのこと何もできないでしょ。シャシャには迷惑かけてばかり」

「そんなことないです。それが私のお仕事ですし、おねえさまのお世話ができるのは嬉しいです」

 夕映えのねえさまは、にっこりほほえんでいった。

「シャシャは本当に可愛らしいわね。本当はきっと辛いこともあるんでしょう。だから、シャシャがここに来たことを喜んではいけないのだけど、私はね、本当にシャシャと出会えて幸せよ」

 お姉様はそういうと、ぬるくなったお茶を飲み干してほっと息をついた。

「平穏な日ねえ。もう、ずっと、こんなゆっくりした日が続けば良いのにねえ」

 夕映えのおねえさまが穏やかにそういって笑いかけるので、私も思わず笑顔で返してしまうのだった。


 春のお休みの昼間は、ゆるゆると過ぎていく。

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