第30話 物語が終わった
「図書クジラの群れだよ」
「図書クジラ?」
「物語の破壊者たちだ」
ペン太があきらめた口調で言った。「手を出しちゃダメなのは登場人物だけじゃなかったのか。地面や自然も含むのか……」と天を仰いだ。
「ペン太?」
「ユイ……ぼくらは、『ピロスと森の仲間たち』の物語を変えちゃったってことになったんだよ」
ペン太がため息をついて続ける。
「変わっちゃった物語は、一度破壊されて元に戻ると習った。その破壊者が図書クジラの群れなんだろう。同業者は『大白波』と呼ぶそうだけど、あれがそうか……初めて見た……」
ユイは、ペン太が手を向けた箇所に視線を向けた。
金色のひげを何本も生やした巨大なクジラが、競うように地面を食べていた。
木も草もすべて丸飲みだ。
ピロスはそれにまったく気づいていない。きっと争っている人間と動物も気づかないのだろう。
「……これから、どうなるの? まさか――」
ユイは疑問を口にした。唇が乾いていた。
ペン太が肩をすくめる。
「この世界は長い時間をかけてリセットされて生まれかわるんだろう。本の世界に手を出すタブーの意味がやっとわかった」
「ペン太……」
「こうなった以上は、仕方ない。ラシンバン!」
ペン太がくちばしを上に向けて、頼りになる案内役を呼んだ。
平たい手に舞い降りたラシンバンが、小首を傾ける。
「ユイを元の世界に送ってくれ」
「ペン太! 私も!」
ユイが悲痛な声をあげた。
しかし、ペン太は無視して、リュックからクジラひげを取りだした。
「巻きつけ」
金色のロープが、あっという間にユイを拘束した。
「ペン太ってば!」
「ぼくは、四つ目のバッジを手に入れにいく」
「私も!」
「無理だ。ユイは足を痛めている」
ペン太が、ぴしゃりと遮った。
ユイがぎょっとした顔になる。
「知ってたんだ……」
黒い瞳がユイを射抜いた。「気づくの遅れてごめん」と頭を下げ、
「分かってほしい。ぼくは物語を変えるという図書ペンギンの最大のタブーを犯した。完成した物語をぐちゃぐちゃにしてしまったんだ。だから……せめてバッジだけは……そうすれば、もしかしたら協会も……」
ペン太の視線が悲し気に下がった。
「私も手伝う!」
「『大白波』にのまれたら、誰でも本の中の住人になるって言われてる。意味がわかるかい? 一生、本の中から出られないってことだよ」
「でも、ペン太だけを――」
「ぼくのわがままに巻き込めない。夏美にだって顔向けできない。……広樹には、本を返せなくてごめんと伝えてほしい。ラシンバン、行ってくれ」
「ペン太!」
ユイの叫びを無視し、ペン太は黒い背中を向けた。
ロープがユイを引きずって移動しはじめる。
ラシンバンが上空で小さな円を描いた。地面に光る二重の輪が浮かぶ。
輪に入ったら、終わりだ。
ユイは足首の痛みをこらえて、靴越しに、必死に足の指先で地面をつかもうとした。
しかし、そんな抵抗は時間稼ぎにもならない。力が弱いと聞いたクジラひげのロープはぐいぐいとユイを移動させる。
そして――
目の前が真っ白に光ったと思った瞬間、ユイは本の世界からはじき出された。
*
気づいたときには、蒸し暑い図書室にいた。
図書界に入った時の古い本が広げられている。茶色い写真のプロペラ機が、大空を飛んでいる写真だった。
巻きついていたロープも、軽快に飛び回るラシンバンもいない。
無言で片手を本に押し当てた。
折れるのではないかという力で、ぐいぐい押した。手を広げ、拳をにぎって、指先を当てて、何度も何度も繰り返した。
「入れっ!」
ユイは顔を歪めた。
何度やっても図書界に入れない。ペン太が簡単にしたことが、自分ではどうにもならない。
瞳にうっすら涙が浮かんだ。あわてて手の甲でぬぐった。
ペン太が近くにいて、見つめている気がした。
でも、隣には誰もいない。
「助かったよ」と笑うペンギンがいない。
がらんとした図書室で、ユイはとぼとぼとカウンターに向かった。隠していたキャメル色のランドセルがあった。
ふと、返却コーナーを見ると、『ピロスと森の仲間たち』が一番上に乗っていた。
何げなくページをめくる。
息をのんだ。
”ヒューレーの森の守り神となったピロスは、ある日、なんでも知る魔女の、小さな小さなしもべに出会った。白い胸を張って、偉そうに言った。「ピロス、一つ頼みがあるんだ」”
挿絵の中で、ペンギンがドラゴンを見上げている。
リュックを背負い、自信満々の顔で話しかけていた。
けれど、ページも物語もそれっきりだった。
残りの数ページは真っ白だった。
ペン太の言葉が耳奥で鳴った。
――この世界は長い時間をかけてリセットされて生まれかわるんだろう。
リセットされている途中なのだろうか。
でも、ペン太はもう本の中に描かれている。
「ペン太……」
ユイは小さくつぶやき、暗がりの中で涙を落とした。
*
ペン太は帰ってこなかった。
お母さんは食欲のないユイを心配し、広樹はなんとなく声をかけづらい雰囲気を察して、近づこうとしなかった。うすうす何があったのか、気づいたのかもしれない。
ユイは気落ちしていた。
夏休みに入っても、何もする気が起きなかった。
真央の誘いも、お父さんのプールへの勧誘もうわの空で聞いた。
終業式の日に、内緒で『ピロスと森の仲間たち』を借りた。
本当は禁止されている。
毎日ページをめくった。なのに、物語が進まない。ペン太がピロスに話しかけようとしたままだ。
八月に入った。
一週目の金曜日、図書委員の集まりがあった。図書室の掃除と、二学期の方針を話し合うためだ。
二週間ぶりに顔を合わせたみんなは、夏休みに浮かれ、中には真っ黒な顔をしている者もいた。
その中で、青白い肌に元気のない顔のユイは幽霊のようだった。
「ユイ、大丈夫?」
委員長の女の子が、会議を終えて話しかけた。
「うん」
ユイが乾いた笑顔を浮かべる。
委員長の眉が心配そうに曲がった。真央もやってくる。
「大丈夫だから」
ユイはカウンターの端で、静かに『ピロスと森の仲間たち』を開いた。
と、ぼんやりしていた瞳が、はっと見開かれた。
話が進んでいたのだ。
”小さなしもべは、ピロスの背中に引っかかった何かを取りたいのだという――”
必死にページをめくった。しかし、インクがにじむように、文字が読みづらくなっていく。
「なんでっ!?」
ユイが、泣きそうな声で叫んだ。
生徒たちが、何事かと視線を向けた。
その瞬間、部屋が白い光に包まれた。
ユイの隣に――
黒い体に白いおなかのペンギン――ペン太が立っていた。首には青い紐を通した『金色』のバッジが輝いていた。
ペン太が軽い調子で片手をあげた。
「やあ、久しぶり」
「何が久しぶりなの!?」
ユイは泣き笑いの表情浮かべ、ペン太を両手で抱きしめた。
「おいおい、いいのかい? ぼくは今、ヴァンに見えているはずだぞ?」
「……別にいい」
ペン太が小さく笑った。
「もしかして……だいぶん心配させちゃったかい?」
「……もう、なんでもいい」
ユイは腕に力を込めた。顔を隠して、温かい涙をこぼした。
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