第28話 竜のピロス

 二人はラシンバンに確認して、背表紙に何も書かれていない真っ赤なぶあつい本の世界に入った。

 グランドキャニオンの高くけわしい崖の上で、キタリスの群れを警戒しながら、さっと目的の階段を降りた。

 目の前に、草原が現れた。深緑の香りを運ぶそよ風が、背丈の低い草木を揺らす。

 同じ光景だ。

 遠くには壁に囲まれた町があり、逆側にはお椀をひっくり返したようなこんもりした森がある。

 少し場所がずれたのか、目の前には山のような巨大な岩がそびえ立っているが、『ピロスと森の仲間たち』の本の世界に入ったことは間違いなさそうだ。


「じゃあ、物語が始まる前に、森の中に移動しようか。たしか中央にピロスがいたはず。もし寝ていたら、その隙にバッジを回収しよう」


 ペン太が上空を見上げる。

 今のところ、物語が読み上げられる気配はない。

 ユイは「うん」と返事をして、軽く右足をあげてそうっと地面に下ろした。

 足首に響くような痛みが走った。

 どうしよう。ペン太に伝えるべきだろうか。

 ユイは迷う。正直に言えば、ペン太は戻ってくれそうな気がする。けれど、きっと納得はできないはず。四つ目のバッジを手に入れて、試験に合格する日を夢見ているはずだ。

 自分のせいでもしチャンスをふいにさせてしまったら――

 そんな気持ちがユイの口を閉じさせた。

 笑顔を浮かべ、「うまくいくといいね」と頑丈な岩に背中を預けた。

 と、背中がずれた。

 ユイが疑問を感じたのも束の間、ペン太の方に軽く跳ね飛ばされた。


「え?」


 何が起きたのかわからず混乱するユイは、ペン太の表情で緊急事態だと知る。

 大地が揺れ始めた。ぱらぱらと砂が巻き上げられ、地響きのような振動音がその場に響き渡った。

 巨大な影が頭上に落ち、信じられない思いで、ユイが振り返った。


「ド……ラゴン? うそ?」


 目の前で高層マンションほどの巨大生物が体を起こした。長い首の先にある凶悪な頭部に赤い目がらんらんと輝いていた。


「走るぞ!」


 ペン太が怒鳴り声をあげて背を向けた。

 ユイも慌てて立ち上がった。

 空気を震わせるピロスの低い声が背中に届く。


「またお前たちか。今度は逃がさんぞ」


 ユイの顔から血の気がさっと引いた。ピロスの言葉は初めて会った人間に放たれる言葉ではない。


「一度入ったら、覚えられるの!?」

「そんなはずない!」


 ペン太が叫ぶ。けれど、すぐに自信なさげにくちばしを下げた。


「でも、私たちのこと覚えてるっぽいよ!」


 泣きそうな声でユイが言うと同時に、空が白く光った。

 女性の透き通る声が響く。



”ピロスは人間とヒューレーの森で見かけないペンギンを発見した。なぜ人間と一緒に行動しているのか不思議に思ったが、二度も森の周辺をうろついていた以上、何か良からぬことを考えているに違いないと考え、追いかけた”



「勘違いだって! だいたい話変わってるし!」

「まったくだ! 森にペンギンがいるわけないだろ! ぼくらはバッジが欲しいだけだっていうのに!」


 二人が揃って声をあげる。

 しかし、ピロスはまったく聞こえていないのか、重い体を四本の足でゆっくりと動かして反転させる。その度に、途方もない地面の揺れに襲われた。


「逃がさん!」


 思わず足を止めてしまいそうになるピロスの怒号に、身がすくんだ。

 ユイの視線の先でペン太がくちばしを動かしている。


(遅れてるぞ!)


 人間とは違う口の動きなのに、不思議と言いたいことが分かった。


(わかってる!)


 ユイも同じく口パクで返す。体がうまく動かないの、という言葉は飲み込んだ。

 息が苦しい。浅い呼吸を何度も繰り返した。太ももは重くてだるい。膝は悲鳴をあげてがくがく揺れる。

 何より、右足首の痛みがつらい。

 壊れかけのロボットのような奇妙な走り方だ。

 でも、逃げるしかない。立ち止まったら終わる。


「あっ」


 体はもう限界だった。

 なんてことのない小石につまづいた。体がふわりと浮き、前のめりに倒れこむ。

 ユイの体は動かなかった。

 大地に伝わるピロスの足音が、体に響いた。


「ユイ!」


 ペン太がかけよった。「大丈夫か」と平たい手でユイの体を起こし、近づくピロスを睨め付ける。

 物語が進む。



”ピロスはようやく追いついた。人間は息も絶え絶えだが、ペンギンは瞳に反抗的な光を宿している。何かしてくるのでは? 臆病なピロスはわずかに身構えたが、ありえないと考え直す。小さな生き物が自分と戦えるはずがなかった。ピロスが大きく息を吸った。炎のブレスで終わりだと確信した”



「臆病なら、追いかけまわすのやめてほしいよ」


 ペン太が疲れた顔で言う。言葉が出ないユイに視線を送り、「できれば使いたくはなかったけど」とリュックに手を入れた。

 取りだしたのは広樹から借りた絵本。

 タイトルは『勇者アンドリュー』。アンドリューという少年が、お父さんから託された聖剣グラディウスを振るって世界を救うお話だ。

 ペン太が首にかけたバッジを本の表表紙に当てた。


「図書ペンギン、ペン=ヴァンジェーロの名において請う。聖剣グラディウスを貸し与え給え」


 祈るように言ったペン太が目に力を込め、本の表紙に片手を突き刺した。まるで穴があったように片手がのみ込まれる。


「よしっ!」


 ペン太が体を後ろに引いた。手が抜けた。

 本の中から――真っ白な剣が、ずるりと姿を見せた。神々しい光をまとう聖剣が、ペン太に力を貸すようにどくんと脈打って光を強めた。

『勇者アンドリュー』の物語中で、最後にドラゴンに振るわれる聖剣グラディウスだ。


「しばらく借りるよ」


 ペン太がすまなそうに本に頭を下げた。


 図書界に限らず、クジラひげやカギ開けデイジーなどの図書ペンギン道具は本の世界でも使えるが、本の登場人物を傷つけるような力はない。まして、鋼のような体を持つドラゴンと戦うなどもってのほかだ。

 物語の登場人物に手を出すことはタブーとされているし、手を出したあと何が起こるかはペン太も知らない。

 しかし、もしどうしようもない場合には戦う手段を用意しておく必要があった。

 それが――

 図書ペンギンにしかできない『本の世界で、別の本の力を借りる』方法だ。

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