第26話 さあ、行くぞ!

 夏休みまであと一日に迫った朝は暑かった。

 エアコンが朝からフル稼働したリビングで朝食を取ったユイは、

「行ってきまーす」

 と、ソファで頭を抱えて悩むお父さんの背中に声をかけ、玄関に急いだ。

 お気に入りのスニーカーに足をつっ込み、すでに準備を終えて待っていたペン太に声をかける。


「お待たせ」


 ペン太が平たい手を軽くあげて返事をした。

 ユイはくるりと振り返り、見送りにきたお母さんにすがるような視線を送る。


「大丈夫、お父さんには適当に言っとくから」

「うん」


 ユイは「お願い」と頷いた。



 お父さんは、今朝、トイレに入っていたときにペン太と遭遇した。正確には、カギのかかっていないドアを、広樹に案内されたペン太が開けてしまったのだ。

 さらに間が悪いことに、トイレ中だけという約束で、広樹にバッジを貸し出していた。

 お父さんはあっけにとられただろう。なにせ、トイレ中にドアを開けられ、さらに目の前にはペンギンが立っているのだから。

「失礼しました」とペン太は丁寧に頭を下げて謝ったが、余計にお父さんを混乱させることになった。

「疲れてるのかな……」とお父さんは食欲を無くして、ソファにかけている。




「じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 お母さんの笑顔に見送られ、ユイとペン太はそろって家を出た。

 さんさんと降り注ぐ太陽と、うだるような暑さにユイは顔をしかめた。


「朝からこの温度かあ……ペン太は大丈夫なの?」

「ぼく? なんてことはないぞ。図書界にはもっと暑い場所がある」

「ほんと、すごいペンギンね」

「だろ?」


 額にじんわり浮いた汗を腕でぬぐった、ユイが嬉しそうに笑う。


「似てるのは姿だけかあ。実は着ぐるみで中に誰か入ってたりして」

「そんなわけないだろ」

「分かってるって」


 ユイはぺたぺたと足音を立てて歩くペン太の横顔を見つめる。

 心なしか、目がするどくなっているように感じた。


「で、図書界には今日行くんだよね」


 ペン太が振り向き、首を縦に振った。


「広樹から例の本も借りた」

「……うまくいくかな?」


 足下に転がった小石を軽く蹴り、ユイは不安そうに聞いた。

 ペン太がふっきれたように「クァァ」と笑う。


「もう何日も考えた。こっちは手が出せない。向こうは自由。話し合うのが無理なら、気づかれないように背中によじ登るか、動けないようにするかしかない……だから、やってみせる」

「……できそう?」

「わからないけど、最後の試験だと思えば気は楽だよ。当てもなく旅をするよりはずっといい。それに――」


 ペン太は上空を見上げて、胸を張った。


「新しいリュックを貰ったし、バッジもきれいになった。頼りになる未来の隊員ナンバー2もいる。だろ?」

「うん!」


 ユイは口元を緩ませ、嬉しそうな声をあげた。足取りは軽くなり、暑さで沈んだ気持ちが弾んだ。


「今日は昼までだっけ? 図書室で会おう」

「どの本から図書界に入るの? 『ピロスと森の仲間たち』が誰かに借りられてたら入れないんじゃない?」


 心配そうに尋ねたユイに、ペン太は「いいや」と首を振った。


「バッジが現れる条件っていうのがあってね。だいたいは同じルートで入らないとダメなんだ。ショートカットして、いきなりあの本に入ると、バッジが消えてしまうかもしれない。だから、タイトルのない赤い本から入る」

「グランドキャニオンの本から?」


 ペン太がうなずく。

 ユイが即座に声をあげる。


「またあの本棚の上からオアシスに向かうってこと? 危険じゃない?」

「大丈夫。そこは、ショートカットする」

「どういう意味?」


 ペン太が小さく笑う。いたずらっぽい雰囲気が漂っている。


「ちょっとしたアトラクションみたいなものだよ」


 ユイは不思議そうに首をかしげた。

 けれど、ペン太はそれ以上話さなかった。楽しみにしていてくれ、と言わんばかりの得意顔でユイの先を歩いた。



 落ち着きなく午前の授業を終えたユイは、ランドセルを背負った真央に「今日は、どうしちゃったの?」と尋ねられた。

 ユイは言葉に詰まった。言い訳もできないからだ。

 先生に教科書の本読みを当てられたことに気づかずぼうっとしていたし、算数の授業では書くノートを間違ったりもした。さらには筆箱をひっくり返し、友達に話しかけられても気づかないひどいありさまだった。 

 普段なら、そんなことは絶対にありえないユイなだけに、その変化が際立っていた。


「ううん、何でも」


 ユイは言葉少なにキャメル色のランドセルを背負った。

 真央が顔をのぞき込む。


「調子悪いなら、当番かわるよ? どうせ、一時間だけしかあけないんだし、ほとんど来ないでしょ」


 真央が軽い調子で言った。

 ユイは、友人の気遣いをうれしく思いながらも首を振った。今日の当番は、むしろユイがかわってくれと頼んだのだ。

 元々ユイが当番だと思い込んでいる真央に話すわけにはいかない。


「大丈夫、大丈夫!」


 ユイは、元気そうな声で続ける。


「明日、終業式で、明後日から夏休みでしょ? ちょっと浮かれてるだけ」

「そう?」

「うん。じゃあ、また明日!」


 ユイはくるりと背を向けて、早歩きで教室を出た。

 生徒の波を縫うように避けて歩き、職員室で図書室のカギを借りた。そして、再び階段を登る。途中、何人かの友人にひらひらと手を振った。

 長い廊下に出た。人はまったくいない。真央の言うとおり、授業がないのに昼の時間に図書室にやってくる生徒は少ないだろう。

 カギを回すと、カチャッという音が鳴った。白いスライドドアを開けると、かぎなれた紙の香りと熱気が出迎えてくれた。


「ペン太!」


 薄暗い室内の最奥で、ペン太がリュックを背負って待っていた。相変わらず、遠くからみると小さな体だ。どこにあんな力と頼りがいがあるのかとつい疑ってしまいそうになる。

 腕組みをほどき、ぴょんとイスから飛び降りた。クリーム色のリュックの中で、様々な道具がぶつかる音が響いた。


「やあ、来たかい」


 ペン太がほほ笑む。

 真新しい青い紐でくくった銀色のバッジが、首元でにぶく輝いている。


「誰もこなかった?」

「うん。もし来ても、図書界に飛ぶだけだけどね」


 ペン太がイスに置いた古い本を片手に取って言った。

 ユイが最初に図書界に入った時に使った本だった。


「ただ……待ちくたびれた。気を散らすために、部屋の本をかたっぱしから読んだけど、今日はダメだ。全然頭に入ってこないや」


 ペン太が疲れた顔で肩をすくめた。

 ――まったく同じだ。

 ユイが胸を躍らせて言う。


「私も。今日、テストじゃなくて良かった。もしあったら、0点だったと思う」

「おいおい、ぼくの試験前に、不安になる言葉はやめてくれ」

「分かってるって」


 大げさに顔をしかめたペン太に、ユイはにやっと口端を上げた。


「準備は……いいかい?」


 ペン太が瞬く間に表情を引き締める。


「ランドセルはどうしよう?」

「部屋の隅にでも隠しておいたらどうだい? 図書界では役に立たないだろう」

「りょうかい!」


 ユイが素早くカウンターの影にランドセルを隠し、ペン太の隣に走り寄る。


「じゃあ、行くぞ!」


 威勢のいいかけ声に、ユイは唇を引き結んで頷いた。

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